将軍が、黙ってオスカルの部屋から出て行った。
その背に、肩に、これでもかというほどの重しがのしかかっいるようで、誰一人言葉をかけることはできなかった。
続いて、夫人が扉に向かった。
こちらも無言である。
マリー・アンヌとカトリーヌとジョゼフィーヌが後に続いた。
マリー・アンヌの手がそっと母の背に添えられていた。
カトリーヌがオスカルとアンドレを振り返った。
「あなたたちの晩餐はこちらに運ばせましょうね。二人きりで話すことがあるでしょう。」
アンドレはあわてて頭を下げた。
一旦廊下に出たジョゼフィーヌが戻ってきた。
「これからはしっかり精をつけねばならないのですから、どんなに吐き気がしてもきちんと食べなさい。アンドレ、オスカルのわがままを許してはだめよ。わかったわね。」
鬼の首を取ったように言い渡し、それから扉が閉じられた。
オスカルとアンドレは、呆然と立ちつくしていた自分たちに気づき、とりあえず窓辺の長椅子に並んで腰掛けた。
何か言わねばならない。
だが、何から言えばいいのだろう。
アンドレは、オスカルの手を握りしめ、必死で考えた。
するとオスカルは、思いの外力強くアンドレの手を握り返してきた。
「とんだ喜劇だったな。母上の策謀がここまでとは…。さすがのわたしもだまされるところだった。」
オスカルはいまいましそうに言った。
「え?」
アンドレは思わず手の力を抜いた。
「おまえ、まさか今の話を信じたわけではないだろうな。」
驚くアンドレにこそ驚いた、という風にオスカルがジロリと視点を据えた。
「ということは、おまえは嘘だと思うのか?」
アンドレは恐る恐るオスカルに尋ねた。
「当たり前だ。自分のからだのことだぞ。わからないわけがない。」
奥さまは、絶対わからないと断言なさっていた。
それがよほど腹に据えかねたらしい。
気持ちはわかる。
だが、しかし、今回ばかりはオスカルよりも奥さまの方が正しいようにアンドレには思える。
なんといっても医師の診断もあるのだし…。
「ではクリスは?」
「ふん!示し合わせたに違いない。あの母上と姉上たちだ。なんでもできる。司教さまでさえ抱き込んだではないか。」
「それは、まあ…。」
アンドレは口ごもるしかない。
あの方たちのなさることは、なかなか大がかりで、自分たちのためとわかるまでは、単に振り回されているとしか思えないことがたびたびあった。
実際、結婚という形が取れたのもひとえにあの方々の天衣無縫な策略の賜物だ。
オスカルの意見を全否定できない理由はそれである。
「父上にわたしたちの結婚を認めさせようとのお心遣いは有り難いが、取った方法がひどすぎる。わたしは今回生まれて初めて父上に同情したぞ。」
それはさぞだんなさまもありがたく思われる…わけはない。
オスカルにめずらしく共感してもらって嬉しい、などとだんなさまが思っておられるはずはないのである。
「俺たちのために、皆さまが芝居をなさったと言うのか?」
「そうだ。父上がわたしを殺そうとなさったのだぞ。母上としては起死回生の策をひねり出されたのだろう。まったく見事だった。母上がこんなにも策士でいらしたとはな。父上の言われるとおり、知能犯は母上だ。」
オスカルは終結した戦闘を分析する指揮官の口ぶりで、先ほど目の前で繰り広げられた光景をアンドレに解説してきかせた。
「いいか。まず、今まで誰も聞いたことのない声を出すことで、相手の戦意を完全に喪失させる。先制攻撃だな。そこに息をつかせず第二弾を放つ。今回ならば私の妊娠というあり得ないことをもっともらしく告知したことだ。そして最終通告、離縁してください、だ。絶対に相手が受諾できないことをつきつけて、自分の手中に取り込む見事な作戦だ。わが母ながらあっぱれだ。」
なるほど、と一旦はアンドレもうなずきかけた。
だが、しかし…。
それにしては、姉上方やらクリスやらと役者がそろいすぎている。
だんなさまが成敗を決断なさったことを奥さまが察知されたとして、そんなに早くこんな手の込んだ細工ができるものだろうか。
アンドレはどうにもオスカルの言うことが釈然としない。
だが、オスカルは断固として、作り話だと主張して譲らない。
アンドレは、最大限の譲歩をした。
「おまえの意見はわかった。だが、もし今月末までに月のものがはじまらなかったら、俺はクリスの診断を信じる。そのときはおまえも覚悟を決めて欲しい。」
子どもができた、という事実をともに厳粛に受け止め、将来のことを考える必要があるとアンドレは心底思う。
だが、オスカルはアンドレの提案をいとも簡単に一蹴した。
「これくらいの遅れはままあることなのだ。」
がんこである。
生来の気質、しかも遺伝子により代々増強されているがんこである。
簡単には折れてくれない。
「だが、本当なら5月の半ばには始まっているはずだ。今日は6月23日。いくらなんでも遅れすぎだ。」
アンドレは抵抗する。
オスカルは渋い顔をしている。
どうやら他の話題に変えたいらしい。
まあ、それは理解できる。
月のものについて、夫とはいえ、あれこれ男に解説されて嬉しいわけがない。
このあたりが落としどころだ。
アンドレはいかにも譲歩したという顔で実はまったく先ほどと比べて後退していない提案をした。
「おまえがどうしても違うというなら、仕方がない。今月いっぱいは俺も待つ。そしてその結果次第で、先のことを考えよう。」
結論だという口調を強調した。
この問題ばかりは決定権を譲るわけにはいかない。
折良く謹慎中である。
ならば、そんなに危険な行動をとることはない。
万一妊娠が事実としても母体に害を及ぼすことはないだろう、という計算だった。
オスカルはしかめっ面をしながら沈黙した。
アンドレの言うことも一理あるとは思ったようだ。
それに、アンドレは気づいていないだろうが、実は彼は結構頑固である。
普段は控えめだが、こういう風に断定調でものを言うときは、絶対譲らない。
オスカルは話題を変えたい一心でとりあえず同意した。
「わかった。刻限は今月末、6月30日だな。心配するな。それまでには始まる。」
どんな根拠があるのかしらないが、いとも簡単に断言し、すぐに話題を変えた。
「晩餐の用意が届いたら、手をつける前に出かける。」
「え?」
「見つからないように馬車の用意をしてくれ。ロザリーの所へ行く。」
「この暗闇を?」
「暗闇だから!」
「時間がないんだ。ベルナールにあわねばならん。アベイ牢獄からアランたちを救い出すのだ。急いでくれ。」
「わ…、わかった。」
いつもながら見事な頭の切り替えである。
一点に捕らわれることなく、常に360度の視野を持つのは、武官の基本だが、こういう話題のときにまで、その資質を発揮されると、アンドレとしては、何か違うと感じ、奥歯にものが挟まったような返事しかできない。
妊娠と捕虜解放。
間にどれほどの仲介者をはさめば、この二つの議題はつながるのだろう。
いや、絶対つながらない。
全然別次元の事柄だ。
だがアンドレは、何年来そうしてきたとおり、結局今回もオスカルの意志に従い、自分の頭を無理矢理切り換えた。
ほどなくして、侍女が夕食を持ってきた。
「ゆっくり食べたいので、片付けは明日の朝にしてくれ。給仕はアンドレがするから仕度ができたら下がっていい。ご苦労だったね。」
オスカルはいかにも疲れた顔をして、侍女に命じた。
侍女は一通りテーブルに並べるとすぐに退室した。
それを見届けてオスカルはアンドレに目配せした。
アンドレはそっと部屋を出て行った。
ブイエ将軍や、父の口ぶりでは、オスカル自身の処分はないようだ。
だが、アランたちについては、明確な言葉がない。
オスカルの態度次第だ、とブイエ将軍は言っていたが、アベイ牢獄のような極悪な環境で、長期間監禁されれば、健康なものでもまいってしまう。
まして、フランソワやジャンなどはもともと体力があるほうではない。
軍務証書を取り上げられて、任務をはずされている今こそ、自由に動けるのだ。
1班全員の無傷解放のために、一刻も早く行動を起こさねばならない。
オスカルの頭の中は、司令官室の窓から見た部下たちのことでいっぱいだった。
後ろ手につながれ、引き立てられていった。
「わたしを呼んでいたのだ。泣きながら呼んでいたのだ。絶対に助けてやる!」
オスカルはあえて口に出して決意を固め、アンドレが用意しているはずの馬車に乗るため闇にまぎれて裏口へ向かった。
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