「ばあやさん、ばあやさん!」
若い侍女の声にうっすらと眼を開けた。
せっかく天国へきたのだから、もう少し色気のある名前で呼んで欲しいものだ。
それとも天国と言うところは死んだ歳のままで暮らすんだろうか。
「ばあやさん!」
耳元で大きな声がして、びっくりして覚醒した。
新入りの侍女が燭台を手に困った顔で立っていた。
「奥さまがお呼びです。だんなさまの居間に来るようにって。」

召集令状を受け取ったような衝撃が走る。
ついに、ついに…。
と思いつつ、ついにどうなるのかは見当も付かない。
マロンはよろよろと立ち上がり、侍女の後ろについて行った。
長い廊下を侍女の燭台の明かりだけを頼りにゆっくり歩き、明るいホールに出た。
そこでちょうど客間から出てきた女医と出くわした。
用意された夕食をすませ、帰るところらしい。

「アンドレがおばあちゃんに似ている、と言っていた。」
とオスカルさまが笑いながら教えてくださった。
それはいつのことだたか…。
気性のきつそうなところは全然似てないが、小柄で愛嬌のあるところは確かに似ているかもしれない。
笑うとえくぼが出るところも…。
クリスはマロンを見ると、軽く一礼した。
マロンはどうしても気になっていたことを思い切って口にした。

「今日はいつもの定期検診だったんですか?」
そんなはずはない。
それなら前もってこちらに連絡がある。
何の前触れもなく、まして奥さまやお嬢さまたちと一緒に来たのは、よほどの理由があったにちがいない。
「ジョゼフィーヌさまからのお呼び出しでした。あちらのお宅にも、お坊ちゃま方の侍医としてお伺いしているのです。」
「そうだったんですか…!」
ジョゼフィーヌがクリスとそういう関係になっているとは初耳だった。
「オスカルさまは何か悪い病気になってらっしゃるんですか?お顔の色が悪くて心配してたんです。」
マロンは泣きそうな声を出した。
「まあ、悪いと言えば悪いし、心配ないと言えば心配ないのです。」
「?」
「患者のことは口外できません。たとえばあやさんにでもお話するわけにはまいりませんの。ごめんなさい。」

クリスはスタスタとホールを出て行った。
マロンは煙に包まれたような釈然としない思いで取り残された。
「ばあやさん、早くしないと…。」
先導してくれていた侍女が、ホールで立ち止まってしまっているマロンをうながした。
それで我に返り、マロンはだんなさまの居間に急いだ。

侍女が扉の前で言った。
「ばあやさんをお連れしました。」
「ありがとう。あなたは下がっていていいわ。ばあやだけお入りなさい。」
「かしこまりました。」
侍女はおとなしく下がり、ばあやは扉を開けた。
まぶしいくらいにたくさんの燭台が置かれ、室内はとても明るかった。
将軍の居間だが、主人の姿はなく、夫人だけがゆったりと肘掛け椅子にこしかけていた。
すでに部屋着に着替えている奥さまは、とても機嫌が良く幸せな感じがして、覚悟を決めてきたマロンは少々拍子抜けした。

「大事なお話があります。心をしっかり持って聞いてちょうだいね。」
夫人はマロンの目を見て言った。
来た!と思った。
お優しい奥さまの口から信じがたいことを聞くのは最近なれっこになってきている。
とにかく気持ちを強く持とう。
この世に死ぬよりひどいことはなく、今の自分は死が恐ろしくはないのだから…。
ばあやはこっくりとうなずいた。

夫人は、まず、オスカル謀反の一件について語って聞かせた。
平民議員の武力掃討命令を拒否したこと、かわって出動した近衛隊まで撤退させてしまったこと。
それがどんなことなのかマロンには理解できないが、謀反という言葉におののく。
「幸いにも王妃さまのお取りなしで、今回に限り処分はなし、と決まりました。」
夫人の最後の言葉にマロンは驚いて顔を上げた。
「そうだったんでございますか!」
処分なし…!
「ああ、よろしゃゅうございました!あたしはてっきり重い処罰がくだったのかと…。」
一気に方の力が抜けた。

「処罰は当家自身で行います。」
意外な台詞が夫人の口からこぼれた。
「えっ?」
驚くマロンに、夫人は毅然とした口調で語った。
「ジャルジェ家は代々王家の守護を担ってきた家柄です。その正当な継承者が謀反と思われる行動をしたことは、決して許されることではありません。だんなさまもオスカルも一切の職を辞し、アラスに引き上げます。」
「お、奥さま…!」
ばあやはそう言ったきり、続く言葉が出なかった。
潔いといえば潔いが、そんなことができるのだろうか。
マロンとしては、どんな理由であれ、オスカルさまが軍隊をおやめになるのは望むところだった。
「やめておしまいになって…。」
と言う言葉を何度も呑み込んできた。
こんな時世に女ながらに軍属など、命知らずもはなはだしい。
だが…。

「明日、だんなさまは王宮に出向きその旨上申いたします。」
「あの…。」
マロンはようやく声を絞り出した。
「そのようなことがお認め頂けるのでしょうか?このたびの一件を処分なしとしてくださった王妃さまのご温情を思いますと、まして、これまでのだんなさまのご功績をおもんばかりましたならば、そうたやすくご許可が出るとは思えませんのですが…。」
「ばあやは賢いわね。」
夫人はフフ、と笑った。
「滅相もございません。」
「大丈夫ですよ。うちにもばあやのように賢い娘がおりますからね。明日の謁見に同席してくれると言うのです。」
「と申しますと…?」
「マリー・アンヌです。婚家は王家とはご縁戚の公爵家です。当家の申し分がすんなりとご承認いただけるよう骨を折ってくれるそうです。」
「マリー・アンヌさまが…。」

それならば…。
それならば大丈夫かもしれない。
マリー・アンヌさまはお小さいときから聡明な方だった。
自分などの言うこともきちんと聞き分け、むずかるとか駄々をこねるというお姿は一度も拝見したことがなかった。
決して唯々諾々と従うわけではないのだが、ご両親や先代のおじいさまのご意向を完璧にお受けになり、お役目を果たしていらした。
今回もまた、ご両親と妹君のために誠心誠意おつとめになるに違いない。

「マリー・アンヌさまは、あたしなんぞと比べものにならない賢いお方でございます。それを聞いて安堵いたしました。」
「ばあやにそんなに言ってもらえれば、マリー・アンヌも喜びましょう。」
「恐れ多いことでございます。」
「あら、本当ですよ。娘たちは、皆、ばあやに褒めて欲しくてなんでもがんばった、と言っておりました。ばあやが繰り返し教えてくれたことは頭にこびりついて消えない、とも…。」
マロンの目頭が一気に熱くなった。
本当に奥さまは年寄りをホロリとさせるのがお上手だ。

だが、とマロンは思う。
ご両親のご期待に一身にお答えになるという意味では、それこそもっとも孤軍奮闘なさってきたオスカルさまはどうなのだろう。
国王陛下が処分なし、とおっしゃってくださっているのに、そう簡単に軍隊をおやめになるだろうか。
最近のオスカルさまは、どうもご両親の願い通りの行動を取っておられるとは思えないのだ。
マロンとしては、その最たるものが孫との結婚ではないか、と思い身の細る日々でさえあるのだから。

「さて、あとの心配はオスカルですね。」
夫人はくやしいくらいお見通しである。
「こちらも大丈夫です。だって続けたくても続けられなくなるんですもの。」
夫人はさもおかしそうに笑った。
「おっしゃる意味がわかりませんが…。」
「あら、大きなお腹の指揮官なんて、馬にも乗れないじゃありませんか。」

寸でのところでばあやは倒れる自分を支えた。
何があっても気持ちをしっかり持とうと決めたのだから。
「お、奥さま…、それは、もしや…?」
「ええ。年明けにはひ孫が抱けますよ。」
「…!。」


ああ、自分はなんて愚かだったんだろう。
結婚したのならば子どもを授かることだってあるのだ、という至極当然のことを忘れていた。
そういえば、オスカルさまとアンドレのことを奥さまから始めて聞いたとき、子供が生まれたらどうたらこうたら…とお話になっていた。
だけどあのときはそれこそ驚天動地、青天の霹靂だったから、まともに聞いてなかったしお言葉を気にも留めていなかった。
馬鹿だった。
さっき女医さんが言っていた。
悪いと言えば悪いが、心配ないといえば心配ない、と。
こういうことだったのか。


「あまり嬉しそうではありませんね?」
夫人が優しく尋ねた。
「恐ろしいだけでございます。嬉しいだなんて…どうしてそんなことが申せましょう。大体だんなさまがなんとおっしゃるか…。」
マロンの言葉に夫人がかぶせた。
「何もおっしゃいませんよ。お聞きになったときは、このままルーブル美術館にお運びしたらどんなにご立派な石像かしら、と思うほどかたまってらっしゃいましたけれどね。」
「奥さま…。」
いかに長年連れ添っているとはいえ、そこまでだんなさまのことを言ってもいいのだろうか、とマロンは老婆心が押さえられない。

「すべてご承知の上での引退のご決断です。」
夫人はきっぱりと誇らしげに言い切った。
「マリー・アンヌもそれゆえの援護射撃です。わたくしたちはお許しが出れば早々にアラスに参ります。こちらの手配はカトリーヌがしてくれます。ジョゼフィーヌはせいぜい遠方の姉たちに手紙を書くくらいしかしてくれないでしょうけれどね。」

ばあやはまたもや涙腺が緩んできた。
お育てしただんなさまも、その奥さまも、さらにはそのお嬢さまたちも、そろいもそろって年寄りを泣かせる方たちばかりだ、と思うと、こらえきれなくなり、ポトリポトリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
夫人がどんなにだんなさまを信頼していらっしゃるか、お嬢さまたちがどんなに妹君を大切に思っていらっしゃるか、身に染みてわかってしまって、言葉もなかった。
その深い愛情がアンドレにも自分にも注がれていることもまた、震えるような感激とともに理解できた。

「もちろんばあやも一緒に来てくれますね?」
夫人の問いかけにマロンは頭を上げ、しっかりとした声で答えた。
「はい、もちろんでございます。どこまでも、いつまでもお供いたします。」
その答えに夫人は珍しく声を上げて笑った。
「やっぱりばあや仕込みだったのね、あの子たち…。さすがです、ばあや。完敗です。」
おホホ…といつまでも笑う夫人をばあやは涙でにじんだ目で不思議そうに眺めていた。



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