マロン・グラッセは罰当たりとは百も承知で、死んだ方がましだと思った。
カトリックでは自殺は御法度。
何があっても、与えられた命は最後まで生き抜かなくてはならない。
だが、すでに88才。
もう充分ではないか。
存外、自ら天国の扉を叩いても、許してもらえるような気すらしてきた。
人並みに結婚し、子供を産み育て、働いた。
何の因果か、子供に先立たれて、親代わりで孫も育てた。
そして何よりも、今お仕えするだんなさまをお育てし、そのお嬢様方をお育てした。
人の命を育てることに専心してきた人生だったと胸張って言える。
それが生き甲斐であり、夫と娘に先立たれた哀しみを癒す唯一の手段だった。
先日過労で倒れたとき、もはやこれまで、と思ったが、オスカルさまがアンドレと結婚なさった、と聞いて一念発起し、三度目の舞台に立つことを決意したばかりだった。
だが、今晩だけは、もうごめんだとほとほとため息が出た。
オスカルさまが、疲労困憊のご様子でお帰りになったのが日暮れ時。
お供をしていたアンドレにも軽々に聞けないほど、深刻な気配が漂っていた。
奥さまは突然いらしたマリー・アンヌさまとお出かけになったきり、お帰りにはなっていない。
ご心配申し上げているときに、だんな様の方が先に帰宅なさった。
だが、こちらも奥さまのご不在を申し上げる間もなく、早々にお部屋におこもりになった。
とりあえず、厨房で晩餐の仕度をしていると、奥さまがお嬢さまたちや女医さんまで引き連れてお戻りになった。
帰ってきた一団と出迎えの一団でごったがえすホールを、執事のラケルがよたよたと駆け抜け、続いてアンドレが侍女と衝突したことにも気づかず、思い詰めた顔で二階へ上がっていった。
そのとき、孫の懐にキラリと光るものが見えた。
背筋が凍り付いた。
奥さまやお嬢さまたちのお世話などそっちのけで、執事を捕まえ、廊下の隅に連れ込んだ。
「何があったんだい!?」
老婆の気迫に押されて、執事はしどろもどろで答えた。
「詳しいことはわからない。ただ、オスカルさまが、どうやら王さまの命令を拒否をなさったようで…。」
「なんだって!」
「だんなさまは剣を持ってオスカルさまの部屋に行かれた。」
「まさか…?それで、アンドレは?」
「だんなさまをお止めできるのはアンドレしかない。事情を話したら、二階へ飛んでいってくれた。あとはアンドレにまかせるしか…。」
それであの子は懐に…。
怒り狂っただんなさまに立ち向かう勇気のあるものなど、この屋敷にいるわけがない。
だが、ことがオスカルさまがらみなら、アンドレは当たって砕けることを厭わない。
執事の判断は正しい。
心臓が波打つ。
「ばあやさん、大丈夫かい?」
執事が心配そうに顔をのぞきこんだ。
あんたの判断は全く正しいけれど、あたしの心臓には最悪だ、と心の中で毒づく。
そのときザワザワと人が動く気配がした。
奥さまとお嬢さまたちが二階へ上がって行かれたらしい。
オルガが叫んだ。
「ご指示があるまで誰も二階へあがってはいけないよ!」
出入り禁止の二階で一体何が起こるのか?
疲れ切ったオスカルさま。
剣を持ってオスカルさまの部屋へ向かっただんなさま。
そのだんなさまを追って、これまた剣を懐に隠し持ったアンドレ。
そして突然いらしたお嬢さまたちを引き連れて二階へ上がられた奥さま。
さらには奥さまが連れてこられた女医。
何がどうなっているのかさっぱりわからない。
ああ、オスカルさまは…。
アンドレは…。
マロンの年の割には極めて豊かな胸は今にもつぶれそうだった。
何が起きているか皆目わからないけれど、大変なことが起きたのだ。
王命拒否の罪を問うてだんなさまはオスカルさまをご成敗をなさるのだろうか。
アンドレはそんなだんなさまに刃を向けるというのだろうか。
そして仮にだんなさまがお許しくださっても、国王さまからのご処分をお受けになってしまうのだろうか。
そしてそして、奥さまたちがお医者さまを連れてこられたというのは、オスカルさまのお身体が、そんなにお悪いのだろうか。
そのうえにだんなさまがもしアンドレとオスカルさまのことをお知りになったら…。
どの想像も空恐ろしいことばかりだった。
こんな思いをするくらいなら、天に召された方がよっぽどましだ。
年齢制限にかかる歳でもない。
神様も、この歳ならもう少しがんばれとはおっしゃらないだろう。
馬鹿げた考えがぐるぐると脳裏をめぐる。
マロンは息をととのえながら、ホールへ向かった。
執事はすでに自分の部屋に引き上げていた。
オルガや侍女たちはそろって厨房に戻っている。
二階へ上がってはきてはいけないとのご命令だから、せめて階段の下にいようというマロンの悲しい判断だった。
そして、ただひたすら耳をすました。
だが何も聞こえては来なかった。
まだまだ耳は達者なつもりだったけれど、と深いため息が出た。
どれくらい経ったのだろう。
階段を下りる足音がした。
「オルガ。」
ジョゼフィーヌの声だ。
「ジョゼフィーヌさま!」
思わず声をかけた。
「あら、ばあや。」
ジョゼフィーヌはとても優しい声でばあやを呼んだ。
「こんなところにいたの?」
そう言ってにっこり笑い、返事を聞かずに言葉を続けた。
「オスカルの部屋がとても暗いの。侍女達に燭台をたくさん持って行くように伝えてちょうだいな。」
「かしこまりました。」
主筋からの指示には条件反射的に返事をし、身体が動く。
習性というのは大したものだ。
厨房へ歩き始めたマロンに再びジョゼフィーヌが声をかけた。
「わたくしはクリスを呼びに行きます。あっ、そうそう、クリスのお食事も用意してほしいの。場所は今いる客間でいいわ。よろしくね。」
ジョゼフィーヌはホール横の客間に足を向けた。
それから、ふとふりかえり、厨房へ向かうばあやに優しく言った。
「ばあや、何も心配いらないのよ。侍女達には、燭台を出したらすぐ退室するように、とも言っておいてね。突然人数が増えて料理人たちは大変でしょうけれど、どんなに遅くなっても晩餐はいただきますから、声がかかればすぐ用意できるよう、こちらもお願いしますね。」
ジョゼフィーヌはまたもやばあやの返事は聞かず、クリスの待つ客間へ消えた。
マロンは厨房へ急いだ。
扉を開けるとオルガを呼び、ジョゼフィーヌからの伝言を伝えた。
オルガはてきぱきと指示を出し、数人の侍女が出て行った。
体中から心労の気配を漂わせるマロンに気づきオルガが声をかけた。
「少し部屋で休んできたらどう?今お茶を煎れてあげるから…。」
壁際で立ちん坊になっていたマロンは、それが自分にかけられた言葉と気づかず、黙ってじっとしていたが、オルガが再び声を大きくすると、びっくりして顔をあげ、それからゆっくりとオルガが出してくれた小さな木の椅子に座った。
すぐに熱い紅茶が目の前に置かれた。
マロンはしわだらけの両手でカップを持ち、すするように飲んだ。
熱い液体が喉を通り、それが生きていることを教えてくれた。
「ああ…おいしいね。」
マロンはぼそりと言った。
「ばあやさん直伝だからね。」
オルガが笑った。
しばらくして燭台を出した侍女達が帰ってきた。
「ジョゼフィーヌさまとお医者様がお部屋に入ってこられるのと入れ違いに退室しました。」
と一人がオルガに報告した。
「ありがとう。ご苦労だったね。遅くなっても晩餐は皆さまでお取りになるそうだから、用意にかかっておくれ。お嬢さまたち三人分の追加だから、大変だよ。」
料理人と材料の確認に入ったオルガを見ながら、マロンはもう一度紅茶をすすった。
やがて、ただ座っているだけの自分が皆の邪魔になると判断し、マロンはのっそりと立ち上がり、厨房を出た。
この際、オルガの好意に甘えさせてもらおう。
マロンは重い足取りで自室に戻った。
60年あまり使っている部屋だ。
少々暗くても、どこに何があるかはすぐにわかった。
マロンは暗闇の中で、長年使い慣れた古い揺り椅子に座り、少し大きく揺らしてみた。
ギコギコときしむ音が、懐かしく心地よい。
こうして何も考えず、ただ揺られていたい。
ありえないことばかり起こるこの世から身を隠し、静かに眠りたい。
マロンはゆっくりと目を閉じた。
ギコギコという木の音だけが小さな部屋に響いた。
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