ジャルジェ将軍は不在だった。
従って、晩餐は小広間でジャルジェ伯爵夫人とオスカルの二人、というやや寂しいものとなった。
だが、この状況はオスカルには好都合だった。
父に聞かれてはならないこと、あるいは知られてはならないことに注意することなく、話ができる。
まして、主人が不在のときは、形式をかなり簡略化して使用人の負担軽減を図る方針の夫人によって、最初に食事が並べられると、声がかかるまで、皆、別室に退いていてよいことになっているので、使用人も同席しない。

ばあやの承認という険しい山をひとつ越えたオスカルは、午前中の謁見の後遺症も、前科者かとの自責の念もどこへやら、闘志満々で食卓についた。
実際に山を越えられたのは目の前の夫人の尽力のおかげであり、自分は、不足か、と声を荒げていただけなのだが、それは都合良く忘れることにした。
いかに恩義があるとはいえ、あそこまで言われては身も蓋もない。
せめて一矢むくいなければ立つ瀬がないではないか。
オスカルは優しげな母にめずらしく厳しい視線を向けた。

夫人はすでに席についており、オスカルの着席を確認すると、食前の祈りを静かに始めた。
父がいないときは、必ず母が聖書の一節を読み上げ、娘達が皆で唱和した。
すでに残る娘は一人となり、唱和というほどの多重唱ではなくなっていたが、習慣は変わらず続いていた。
いつもながら穏やかな声である。
神への感謝が真実込められていて、日頃なら憤りなど瞬時に沈静化させてくれるものだったが、今夜は、この作戦に丸め込められないよう、ばあやの寝ている客間を出るときから、オスカルは戦闘態勢を整えてきていた。
一応手を組み声は出した。
やがて短い祈りが終わった。

すると夫人は閉じていた目を開け、真っ直ぐに目の前の娘を見つめた。
「お祈りに心がこもっていませんでしたよ。オスカル」
とがめている声音ではないが、あきらかに言葉は詰問で、オスカルはギクリとした。
「とんでもございません。心から祈りました」
上ずる声で答えた。
「何を祈りましたか?」
返す刀がとんできた。
「えっ…。食前の祈りですから、当然それは…」
「食物を得た感謝だけですか?それだけを祈ったのですか?」
「…。それだけではいけませんか?」
開き直って聞いた。
子供のようだが、実際、この目の前の女性の子供なのだから、かまうまい。
「当然です」
母にしては強い口調だった。
少し闘争心がそがれた。
「おっしゃる意味がわかりませんが…」
気持ちを立て直して問うた。

夫人はまなざしにかつてない強さを漂わせ、
「今、寝台に横たわるばあやの姿と、積年の懸念がひとつ払拭されたことに対し、神に感謝する心持ちにはなりませんか?」
と問いただした。
「あ…」
と、オスカルはうめいた。
ばあやは、すべてオスカルさまの心のままに、と泣いていたのだ。
彼女の常識からすればあり得ない事態を受け入れ、祝福し、自分とアンドレのために、おそらく今、真摯に祈っているにちがいなかった。
であるならば、自分も、いや、自分こそが、最も心を清廉にし、感謝を捧げねばならぬはずだ。
すべては自分が引き起こしたことなのだから。

「おっしゃる通りでした。弁解の余地もありません。今一度お祈りをいたします」
オスカルは素直に非を認め、再び手を組んだ。
長い祈りだった。
このたびのことに関わった全ての人々の顔を一人一人思い浮かべ、それぞれに神の祝福のあらんことを請い願った。
それは母であり、姉たちであり、そして老いたばあやの顔であった。
その様子をじっと見つめていた夫人は、オスカルがゆっくりと眼を開けると、満足そうに微笑み、
「では、いただきましょう」
と、ナイフを取った。

いつもなら、なにがしか他愛ないことを母娘で話ながら進む食事は、今宵はほとんどなく、静かに、けれども満ち足りた空気の中にあった。
まだ、将軍という障壁が残っている。
すでにアンドレとのことを察しているようでもあり、かといってどこまで認めているかは検討もつかない。
しかし、だからといっていつまでもこのままでは、自身の良心がどこまで耐えられるだろうか。
いや、自分よりもむしろ、母のほうはどうなのだろう。
長く連れ添った夫に秘密を持つことの呵責に苦しむことはないのだろうか。
しかも末娘の生涯の一大事という案件で…。

黙々とフォークを動かしていると、母が呼んでいた。
「…カル、オスカル。聞こえていますか?」
「は、はい。何か?」
「あまりにバタバタとして伝えるのを忘れていました」
母は丁寧にナプキンで口元を拭き取りながら言った。
「昼過ぎにフェルゼン伯爵から使いが来ました。明後日の夜にでも当家を訪問したいとのことでした。差し支えなかろうとお返事しておきましたがよろしいですね?」
「フェルゼンが…?戻ってきたのですか?」
「そうです。もしあなたの都合が悪いなら、明日にでも使者を出します。どうですか?」
「明後日…。あさって…。フェルゼンが…」
「どうなのです?」
「あ、はい。あさっては特に不都合はありません」
「そう。では歓迎の準備はわたくしのほうでしておきましょう。随分お久しぶりですものね。楽しみだこと…」

夫人は、にっこりと立ち上がった。
そして立ち去り際、オスカルの耳元に小さな声で聞いた。
「あなたの御衣装はいつも通りでよろしいわね?ドレスは山のようにありますけれど」
そして、今度はやや大きな声で
「アンドレにはわたくしから伝えておきましたからね。彼も伯爵とは長いおつきあいだから無論同席させましょうね」
と言い置いて、退室した。

オスカルはしばらく立てなかった。
母上…。
さすが、女です、恐ろしい…。
あなたは何をどこまでご存知なのか…。
ばあや、思いがけない言葉を聞いた衝撃、今ならわたしも理解できるぞ。
わたしは、わたしは、あさっては思いっきり飲むぞ、いや飲まずにはいられないのだよ、ばあや。
オスカルは食事に向かうときとは正反対の悄然とした面持ちで再びばあやの元に向かった。
案外、母という山が一番険しいのかもしれない、と痛感しつつ…。



終わり






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