ばあやさんが血相を変えて奥さまの居間に乗り込んだ、という話はまたたくまに屋敷中に広まった。
女中頭のオルガが止めようとしたけれど無駄だった。
執事のラケルでも無理だった。
その時点で使用人は全員、それぞれの持ち場に帰り、ジャルジェ夫人の居間には夫人とマロンの二人だけになった。

「奥さま、今日という今日は本当のことをお聞かせくださいまし…」
と、ばあやは実に低い声で話し始めた。
88歳の老婆が静かに怒りをこらえている様は尋常ではない。
使用人が全員逃げ出したのも無理からぬこと、と思いつつ夫人は
「さて、何でしょうね」
と、まずはとぼけた。
「アンドレの結婚でございます」
ジャルジェ家に勤めて60余年、奥さまに直談判など前代未聞だが、今回ばかりは事の真相を追究しないわけにはいかない、という固い決意が見て取れた。
だが、だからといって夫人の方も安易に乗るわけにはいかない。
「どうかしましたか?」
素知らぬ顔で聞いた。
「さきほどジョゼフィーヌさまのとこのエヴリーヌに会いました」
「まあ…。それで?」
「結婚が決まったそうです」
「そのようですね」
「ですが奥さま。決まったのです。決まっていたのではないのです」
「どういうことかしら?」
すでにばあやの言葉の意味を察知していながら、夫人はさらにとぼけた。
「奥さまは、あの子には決まった相手がいるからアンドレに世話はできない、とおっしゃいました」
「そうでしたね。で、このたびめでたく式を挙げるわけでしょう」
「いいえ、あの子はお祝いを言ったあたしに言ったんです。世の中には本当に一目惚れってあるんですね、と。つい一月前までは結婚なんて思いも寄らなかったのにって」
「まあ…!」
若い娘の口の軽さを嘆いたところで、時既に遅し、夫人は黙って聞くことにした。
「あたしがオスカルさまにお願いしたとき、エヴリーヌには決まった人なんていなかったんでございます」
「ばあや…」
「どうしてアンドレのところへ来てもらえなかったんでございましょう。聞けばエヴリーヌの相手はマリー・アンヌさまの所の使用人だとか…。それならアンドレが相手でもちっともかまやしないじゃありませんか?!」

夫人はなんとか取りなしてみることにした。
「ばあや、アンドレには好きな人がいるのです」
あえてその相手がオスカルとは言わなかった。
「そんなこと、とっくに知っています。あの子がずーっと片想いでいることなんて…」
「それなら、なぜ?」
「報われない、しかも罰当たりな片想いなんぞに早く見切りをつけて、まっとうな家庭をもたしてやりたいんでございますよ」
どうやらアンドレの思い人がオスカルだということも承知で、縁談を進めたかったらしい、と知り、夫人はもはやこれまでか、と額に手を当てた。
そして心の中で十字を切った。
そろそろ潮時だ。
「それがね、片想いではないのです」
自分の持つ声の中でもとびっきり優しい声で夫人は言った。

あまりに衝撃的な話を聞くと、人間の思考回路は思わぬ方向に飛ぶらしい。
ばあやの場合は、夫人の発言を、自分の価値観の中で判断したためその返答は微妙にずれた。
つまり、にこにことして
「おや、まあ!両思いの相手がいたのですか?まあまあ、ちっとも知りませんでした。それならそうと言ってくれたら、あたしはエヴリーヌをすすめたりしませんでしたのに…。いやですよ、奥さまもアンドレも黙っているなんて…!」
と、幸福この上ない満面の笑みで答えたのである。
「ではさっそくその娘さんとのお話を進めないと…。そうですか。両思いの相手がいたんですか」
と悦に入っているばあやに、夫人は恐る恐る聞いた。
「ばあや、あのね。アンドレは片想いの相手と思いを交わしあったのですよ。つまり…」
「そうなんでございますか?あたしはてっきりあの馬鹿はオスカルさまに恋いこがれているとばっかり思っていましたけど、ちゃんと相応の娘を見そめてたんですねえ」
ばあやは笑いがとまらない。
「それは正しいのよ。アンドレはずっとオスカルを…」
と、さすがに娘のこととて言葉を濁しつつ夫人は切り出した。
が、すかさずばあやが
「やっと気づいたんですね、あの子も。身分違いの恋なんて恐れ多い。そうですよ。頃合いの娘を見そめて思いを告げて、色よい返事をもらったんなら、言うこと無しです」
と割ってはいる。
「いえ、だからね。アンドレの思い人は決して変わっていないのよ。心変わりするような彼ではないでしょう?」
ついさっき心変わりなどしないと自分に誓ったアンドレなのだから、と夫人は力が入った。
「…?でも両思いになったんでございましょう?」
「だから、そのつまり長年の思い人が、自分もアンドレのことを…とようやく気づいて…」
娘の恋愛を、相手の祖母に語って聞かせるのも何か照れというか恥ずかしさがあり、夫人の言葉も歯切れが悪い。
「長年の思い人ってオスカルさまですか?え…?オスカルさまが自分もアンドレのことを…って、え?」
ばあやはそれから大きく息を吸い
「えーっっ!!」
と大声を出すや、その場に座り込んだ。
「ばあや!」
夫人はあわてて駆け寄ると、人を呼ぼうとしたが、話が話だけに使用人に聞かせるわけにはいかず、とりあえず自らばあやを抱き起こすと長椅子に連れて行き、横たわらせた。
「ばあや、しっかりしてちょうだい。ああ、どうしましょう。とりあえずお水を…」
と思ったところへ、オスカルとアンドレが入ってきた。

隊本部から戻ってみると、どうも廷内の様子が落ち着かない。
オルガとラケルが飛んできて、ばあやが怒り心頭で奥さまの部屋に入っていった、と告げたられた二人は謁見後の疲れを引きずったまま、とりあえず夫人の居間に来たのだ。


「母上、ばあやが母上に直談判しているとのことですが…」
と言いながら、オスカルは長椅子に横たわるばあやを見つけ、驚いて駆け寄った。
アンドレも何事があったのか、と夫人とばあやを代わる代わる見つめている。
夫人は二人をテーブルに誘い、座るよう促した。
それから、自分も座り、ほーっと一息つくと、
「結論からいうと…、あなたたちのことを知ってしまったのです」
と、ゆっくりと告げた。
息をのむ二人に、夫人は丁寧に事を分けて全ての事情を説明した。
そしてばあやを見やり、
「どうやら衝撃が大きすぎたようで、その場にくずおれてしまって、とりあえず長椅子に寝かせたところです。ちょうどよいところに帰ってきてくれました。アンドレ、ばあやをいつもの客間の寝台に運んでちょうだい」
と言った。

二人は眼を見張ったまましばし見つめ合うと、そろって立ち上がり、ばあやの傍らに移動した。
「ばあや、」
と、まずオスカルが声をかけた。
ばあやがうっすらと眼を開けた。
続いてアンドレが
「おばあちゃん、」
と呼んだ。
今度はぱっちりと眼を開けた。
それからばあやは突然腕を伸ばし、がしっとアンドレの腕をつかんだ。
「この大馬鹿者!」
どこからそんな声と力が出るのか、と居合わせた全員が思ったほどの大声でばあやは怒鳴った。
「ばあや。アンドレを叱るのはお門違いだ」
オスカルがばあやの腕をつかみアンドレから引き離そうとした。
「いいえ、違います!お嬢さま、即刻この子とあたしに暇を出してください。あたしは老いぼれですからいつ死んでもかまやしませんが、いくら馬鹿の恩知らずでも、この子がだんなさまに殺されるのは見ていられません。後生でございます。お暇を…」
と縷々心情を述べながら、ばあやはおいおいと泣き出した。
「ばあや、わたしは絶対に暇など出さないぞ。それに父上にアンドレを殺させたりもしない」
「お嬢さま…」
「おばあちゃん。俺も出ては行かない。俺はオスカルを置いては行けない」
アンドレは自分をつかむばあやの手にそっと自分の手を重ねた。
「何を馬鹿なことを…!おまえは、おまえって子は…!」
アンドレの大きな手を振り払うと、今度は無抵抗のアンドレをポカポカと殴り始めた。
「ばあや!」
たとえこの世の誰に対してでも怒鳴りつけることに何ら臆さぬオスカルが、唯一怒鳴らずに来たばあやに生まれて初めて大声を出した。
「ばあやはアンドレの相手がわたしでは不足なのか?!」
「…??」
ばあやの動きがピタリと止まった。
神とも思うオスカルに不足などという言葉をつかうのもおこがましい。
ばあやはブンブンと首を振った。
「とんでもございません。もったいなくてもったいなくて…」
「ではなぜ反対する?」
「オスカルさま…。オスカルさまが不足なのではございません。この子が全然釣り合わないんでございますよ」
「わたしがいいと言っているのだ。わたしがアンドレと離れないと言っているのだ。それをばあやが連れて出て行くなど、わたしが気に入らんとしか思えないではないか!どうせばあやの嫁の条件にわたしは全然あてはまっていないからな」
勢いづいていた声がややトーンダウンした。
やはり自覚はあるらしい、とこんな時に不謹慎ながら夫人は皆に聞こえないようクスリと笑った。
だが夫人と立場のちがうばあやはそれどころではない。
誠心誠意お育てして、世界一素晴らしい方だと自他ともに認め自慢してきたお嬢さまが、わたしが孫の嫁では不足か、と血相を変えて自分を怒鳴りつけている光景は、信じがたい、あり得ない、想像を絶するものだった。
ばあやは茹でた青菜のごとくシュンとなった。

その気配に、夫人がおっとりと口を開いた。
「そうですよ。今アンドレが出て行ったりしたら、オスカルまで出て行ってしまいますよ。ねえ、ばあや、突然の話で驚いたとは思いますが、ここは冷静に話をしましょう」
だてに歳を重ねたわけではない、とばかりに夫人がゆっくりと長椅子のそばにやって来た。
「この二人のことは、今となっては誰かがどうにかできることではないのです。すでに結婚式もあげたのですから…」
重大事項はできるだけさりげなく言った方がよいと、夫人は学習したらしく、ばあやに決定的な宣告をした。
しかもその結婚のお膳立てをしたのが他ならぬ夫人であることはおくびにも出さない。
「ケッコン…けっこん…結婚…!ヒィー…!!」
起きあがりかけていたばあやは再び長椅子に沈んだ。

「もはや神の認めるところですから、たとえだんなさまでもどうにもできはしないのです。もちろん、だんなさまにはまだ内緒ですけれど…。だから、ね、ばあや。あなたの希望の花嫁とは若干のずれがあるとは思うけれど、この際、認めてやって頂戴な。少し高齢ではあるけれど、ひ孫だって産めないと決まったわけではないと思うのよ。わたくしの孫があなたのひ孫だなんて素敵でしょう?それともこれも不服ですか?」
懇々と、しかしたたみかけるように夫人は言葉を紡いでいく。
「生まれた子は随分な器量よしになると思わないこと?見た目はどちらに似ても申し分ないし、中身も、男の子ならこれまたどちらに似ても先々楽しみだわ。女の子がオスカルに似てしまったときだけは…、まあ、これも育て方次第で…ね。あなたとわたくしがしっかり世話をすれば、人の道にはずれるようなことはしでかさないでしょう」

このあとも夫人の、オスカルから見れば相当不満な、アンドレから見れば相当不遜な、不思議な説得が続いた。
衝撃の大きすぎたばあやは、すでに反論する気力も萎えたようで、おとなしく夫人の言葉に耳を傾け、時に眼を見開き、時に首を振りながらも、最後は涙ながらに夫人の手を取り、不肖の孫息子の許しを請い、また行く末に対する配慮を懇願した。
夫人は当然、万事任せなさい、と請負い、再度アンドレに命じて、ばあやを客間に運ばせた。
アンドレに抱きかかえられて廊下を行くばあやを見て、どうやらなんとか納まるところに納まったらしいと使用人一同が胸をなで下ろしている空気が、屋敷中に漂っていた。、

分不相応と散々主張してきたふかふかの寝台におとなしく身を沈めたばあやは、夫人とアンドレが晩餐の支度について恐る恐る尋ねに来た侍女とともに部屋を出た後、心配げに自分をのぞきこむ最愛のお嬢さまを、しわくちゃの涙顔で見つめ
「すべては神の御心のままに。そしてあたしの神さまはオスカルさまですから、どうかお心のままになすってくださいまし。ばあやはただただおっしゃるとおりに致します」
と言って顔をおおった。
ようやく花婿の身内に受け入れられたことを確信したオスカルは、聖母のごとく微笑み、おごそかに告げた。
「愛しているよ、ばあや。いつまでも…かぎりなく」

この神託によってばあやは混乱した自分の気持ちを整理すると、追究の結果をしっかりと胸に納めて、どさくさに紛れて相当失敬な発言を連発した母に一矢報いるため意気揚々と晩餐に向かうオスカルの後ろ姿を暖かく見送った。


                                                                 終わり






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