酒 宴
父や妹の阻止を振り切り、渋る爺を伴なってフェルゼンがベルサイユに現れたのは、一年で一番寒い季節だった。
三部会開会というフランスの世相とともに、親友オスカルからの、今思い出しても笑みのこぼれる手紙も、彼を懐かしいこの地に駆り立てて止まなかったから、彼は故国を旅立つことにいささかのためらいももたなかった。
もとより雪と氷の北欧から来た彼には、フランスの冬などさしたることはなく、到着するや、即座に謁見の申請を宮殿に提出し、一方でジャルジェ家に訪問の可否を問う使者を立て、と、はなはだ精力的に動いた。
オスカルの進言があったとはいえ、まさか彼が本当に戻ってくるとは想像していなかった王妃の涙の歓待に、フェルゼンは決断の正しかったことを確信し、もはや逃げ隠れなど一切せず、生涯側近く仕えることを誓った。
神の前で認められることも、心身共に結ばれることも決してない愛だとしても、それでも他の道はないのだ、これこそが自分の真実なのだ、と運命の女性を腕に抱きながら、彼は骨の髄まで悟ったのである。
この王妃との感動的再会の夜、彼は久しぶりにジャルジェ家を訪れた。
ジャルジェ家による当初の招待は晩餐をともに、ということだったが、将軍夫妻まで同席すればどうしても堅苦しいものになる、それよりも晩酌をともにしようではないか、とのオスカルの申し出に、人の良いフェルゼンは、確かにその方がアンドレとも気兼ねなく話しができると快く承知し、指定時間ぴったりに到着した。
オスカルが彼の快い承諾にどんなに安堵したかは、無論、フェルゼンの知るところではない。
ジェローデルとの婚約破棄以降、夜の貴族の来訪など絶えてなかった廷内では、久しぶりにオスカルの応接室に灯りがともり、暖炉に薪がくべられた。
将軍夫妻はフェルゼンの久々の来訪を歓迎し、娘の危機を救ってくれた礼を丁寧に述べると、若い者同志を残してあげましょう、という夫人の思いやりで、すぐに引き上げた。
夫人が何も言わず席をはずしてくれて、オスカルがどんなに安堵したかは、当然アンドレですら知るところではない。
フェルゼンが案内された室内をゆっくり見渡すと、一晩飲み明かしても絶対余ると瞬時に確信できるだけの各種の酒が、卓上に所狭しと並んでいた。
これでもテーブル一つ分減らしたのだ、とオスカルが恨めしそうにアンドレを見やりながらこぼすのを聞き、さすがにフェルゼンはのけぞった。
「オスカル、おまえ、中毒になったのか?」
失礼とは思いながら、大量の酒瓶に、そう聞かずにはいられなかった。
久方ぶりの対面の第一声がこれか、と情けなくもあったのだが。
すると、
「逆だ。日頃めったに飲めないのだ。こういう時なら、おおっぴらに飲めるだろう」
と、さも愛しそうに一本ずつ、銘柄を確かめながらオスカルが答えた。
明らかに、アンドレから禁酒令が出ていることが察せられた。
「酒が飲めるから、わたしの訪問を歓迎してくれたのか」
あまりに幸せそうな顔に、嫌味のひとつも言いたくなった。
「それがないとは言わないが、無論それだけではない。フェルゼン、おまえには一度きちんと会って礼をしたかった」
そう言うとオスカルは卓上からワインを一本選び取り、アンドレに渡した。
「アンドレ、はじめはこれからいこう。開けてくれ」
「これから、ではない。これだけ、だ」
と言いながら、アンドレは見事な手つきでコルク栓を抜いた。
そしてフェルゼンのグラスに注いだ。
「とりあえず、無事の来仏を祝して乾杯しよう」
と、オスカルはアンドレが続いて注いでくれた自分のグラスを持った。
「アンドレ、きみは?」
とフェルゼンが促した。
「いえ、わたくしは…」
と遠慮するアンドレからワインボトルを奪うと、フェルゼンは手近のグラスを取り、なみなみと注いでアンドレに渡した。
アンドレは困った顔でオスカルを見たが、彼女はただ面白そうに笑っていた。
自分が飲むとオスカルに注意できなくなるから、と日頃のアンドレは絶対に晩酌をともにしない。
ショコラやカフェならいくらでもつきあってくれるが、そんなものを何杯も飲んで、なにが嬉しいか、とオスカルは思う。
だが、今夜はフェルゼン自ら酌をしてくれたのだ。
アンドレもさすがに断れまい。
アンドレと酒が飲める。
そのうえ、王妃への進言通りフェルゼンが戻ってきた。
そして、母上はいない。
三拍子そろった条件にオスカルは上機嫌を通り越して、極上機嫌だった。
「では、乾杯!」
三人は声をそろえた。
「フェルゼン、あらためて、よく来てくれた。心から歓迎する。そしてパリでのこと、深く感謝している」
とオスカルが言った。
「元気そうで何よりだ。アンドレ、きみも…」
フェルゼンはアンドレにむかってグラスを軽く掲げた。
「伯爵、その節は、助けていただき、本当にありがとうございました。もし伯爵がいらっしゃらなければ、と考えると、空恐ろしい思いがいたします」
アンドレは丁重に謝礼を述べた。
「確かに。オスカルにしてはめずらしい不注意だったな」
フェルゼンは決して嫌味ではなく、心底不思議そうにオスカルに顔を向けた。
どんな訳があったのだろう、との思いはまだ消えていなかった。
「面目ない。深く反省している」
もう少し反論や弁解が帰ってくると思ったが、オスカルが素直に非を認めたので、フェルゼンはやや拍子抜けした。
「いや、まあ、そう殊勝にされると、これ以上詰問できないな。とにかく無事でよかった。フランスは随分物騒になっている。一瞬の気のゆるみが命取りになるのは、戦場と変わらない」
ロシアとの戦争を終えたばかりのフェルゼンの実感のこもった言葉が、オスカルとアンドレの胸に響いた。
ロココの花開いた優雅なフランス、美しい花の都パリは、戦場と変わらないほどにすさんでいるのだろうか。
湿り気を帯び始めた空気を払拭するかのように、オスカルが一気にグラスを空けた。
「美味だな。さすがにアンドレが最高だと選んだだけのことはある。だが、飲み比べてみなければ、どれが一番かはわからない」
そう言って、立ち上がると、酒瓶の並んだテーブルに近づき、次の獲物を物色し始めた。
「オスカル。せっかく来て下さった伯爵に失礼だろう。落ち着いてゆっくりと語り合うつもりじゃなかったのか」
と、アンドレがたしなめた。
少なくともわたしはそのつもりだったぞ、とフェルゼンは心中忌々しげにつぶやいた。
長い友情に断腸の思いで終止符を打った。
一度、深夜の宮殿の庭園でばったりでくわした。
そして最後にまみえたのは、パリの暴動のさなかだった。
オスカルを思い出すときには、常にある種の後ろめたさがつきまとってきた。
それが、故国で受け取った手紙により、思いがけず暖かく幸福な色彩に包まれた。
ぜひとも再び友情を確認したいものとの思いに駆られ、こうして訪ねてきたのだ。
しかも密かな自分の希望通り、アンドレも相伴している。
来し方をゆっくり語り合い、また、察するに新しい関係に入ったはずの二人をさりげなく祝福してやり、ついでに冷やかしがてら、からかってやりたいとも思っていた。
それが…。
目の前の、王妃さまを別枠にすればフランス一と謳われるのこの麗人(あくまでもフェルゼンの目から見ての話だが)は、実に嬉しそうな顔つきで、ただただ酒を選んでいる。
そして飲み尽くさんばかりの勢いだ。
無論、折々に言葉は発されているし、会話もしている。
だが、それはフェルゼンが望んだものとはほど遠い世界だった。
向かいに座るアンドレが申し訳なさそうにこちらを見ていた。
だが、今夜のオスカルは誰にも止められない、とアンドレもあきらめているように思われた。
しかたなくオスカルとの語らいを断念したフェルゼンは、気持ちを切り替え、この自分と年の変わらぬ隻眼の従者を観察することにした。
もとより旧知の仲である。
出会ったときは、ともに十代のおわりだった。
控えめだが、明るく屈託のない、爽やかな青年だった。
はじめは、オスカルの遠縁の貴族が書生のような形でジャルジェ家に入り、オスカルのそばにいるのかと思った。
貴族としての気品も教養も身につけていたが、いつもオスカルの後ろに一歩引いた位置にいたからだ。
だが、後に乳母の孫でまったくの平民だと聞いた。
決して出しゃばらないのはそのせいだったのだと納得した。
長いつきあいの間、ずっとかわらずそうだった。
オスカルのいるところに必ず彼の影があり、いなければ、オスカルが呼びつけていた。
ただ、フェルゼンは決してオスカルを女性と見なかったように、二人を男女として見たことはなかった。
そう、ただの一度もなかったのだ。
「アンドレ、やはり足りない。今から貯蔵庫へ行ってくる」
突然オスカルが言い出した。
「それなら俺が行ってくる。欲しい銘柄を言ってみろ」
アンドレが驚いて制した。
「だめだ。おまえは絶対に数を減らすからな。わたしが自分で取りに行くから、フェルゼンと待っていろ。フェルゼン、そういうことだ。とびきりうまいものを今、持ってきてやる」
と言いながらすでに足は扉に向かっていた。
アンドレはあわてて追いかけ、部屋の隅に走ると、外套を取ってオスカルの頭からかぶせた。
「地下室は冷える。一緒に行ってやるから、ほら、これを着ろ」
「ああ、そうだな。外套はもらっていく。だが、おまえはいい。あっちへいけ。フェルゼンをひとりにするのは悪い」
と、オスカルはアンドレの目の前で扉を閉めた。
「まったく…!」
アンドレは不承不承席へ戻った。
何がフェルゼンに悪い、だ。
俺と二人にしていく方が、よほど悪いだろうが…。
いったい、この場をどうつなげばいいんだ。
アンドレがいかにも困った顔をしていると、あっけにとられて二人のやりとりを見ていたフェルゼンが、
「アンドレ、降参しよう。今夜はオスカルの言うとおりにしようじゃないか」
と笑った。
「申し訳ありません。伯爵。久しぶりにゆっくりお逢いできてうかれているのでしょう。
大目に見て頂けると助かります」
と、アンドレはいかにも主人の不躾を詫びる従者の体で謝罪した。
それはフェルゼンには懐かしい光景だった。
暴走するオスカル、止めようとして止めきれず、後始末に回るアンドレ。
若いときから変わらない。
「あいかわらず君は苦労しているようだね」
クスリと笑いながらフェルゼンは言った。
「苦労…?いえ、わたくしは苦労などは一向に…」
アンドレは、フェルゼンの言葉を心底意外そうに否定した。
「ああ、そうか。そうだな。わたしもたとえ他人からどれほどおろかと思われても、かの方のためならば何も苦労と思ったことはない。君もそうなのだろうな」
心のこもった言い方だった。
それがこの人の品格だと、アンドレは思った。
決して人を見下さない。
この人が見下すのは、不誠実なこと、卑怯なこと、人として恥ずべきこと、そういうものだ。
そう、そのあたりがオスカルと同じなのだ。
それにしても、「わたしと同じだ、」ということは、伯爵は自分の王妃への想いと俺がオスカルに捧げる想いとが同じだ、と感じているのだろうか、とアンドレは訝しんだ。
オスカルの想いは身内のおばあちゃんでさえ、罰当たりだと震え上がるもので、どれほど心をこめて接しても、それは恋愛感情ではなく、忠義心の表れだと理解されるのが普通だ。
特に貴族から見た場合は…。
にもかかわらず、この人はなんのためらいもなく、同じだ、と言ってのけた。
なぜ知っているのだろう。
いや、なぜそう断言できるのだろう。
そして思い当たった。
外国人貴族が王妃に恋愛感情を持つことも、やはり許されないことだった、と。
騎士として忠誠心を持つことは賞賛されても、それは一方的な憧憬であらねばならず、王妃からの見返りはあってはならない。
だが、王妃は騎士を愛してしまった。
したがって世間からは糾弾の対象とならざるを得なかった。
思いが通じてしまったがゆえの苦衷があるのだ。
「王妃さまにはお会いになったのですか?」
アンドレはさりげなくそちらへ話を振った。
「ああ。今日、お会いしてきた」
「お二人で…?」
アンドレの質問の意味を察してフェルゼンは率直に答えた。
「謁見許可が降りるのを待てなくて、宮殿に押しかけたのだ。そしてお一人でお散歩の時間を見計らってお訪ねした」
自由に会うことも、もちろん二人きりで会うことも、王妃とフェルゼンにとってはかくも障害の多いことなのだ、とアンドレは胸が詰まった。
自分は、どんなときもオスカルとともにおり、二人きりでいることも当たり前のように甘受してきたのに…。
「オスカルも、つい先日、王妃さまに拝謁してきたところです。やはりお庭で二人だけでお話ししたと言っていました」
「王妃さまにもそうお聞きしたよ。久しぶりにオスカルに会った、と。とても、励まされた、とおっしゃっていた。さて、オスカルは一体どんな話をしたのだろうね。それは女同士の秘密だと教えて下さらなかったのだ。きみは聞いていないか?」
女同士の秘密…。
王妃とオスカルが…。
何かあった、というのはオスカルの様子からして明らかだった。
自分を探して家に帰ってきたくらいなのだから。
だが、中身まではわからない。
「いえ、それは聞いておりません」
「そうか」
とフェルゼンは軽く受けた。
それからいたずらっぽい顔で
「君にこんなことをいうと叱られるかも知れないが、王妃さまとオスカルの女同士の話、というのが、いまひとつわたしにはピンと来ないのだ。わたしにとってオスカルは紛れもなく男で、だからこそ親友なのだからね」
そのことにどんなに感謝したことでしょう、と、アンドレは心の中でつぶやいた。
もし、あなたがオスカルを女として見ていたら…考えるのも恐ろしい。
身分も人柄も申し分なく、まして相思相愛ならば…。
そんなアンドレの思いに頓着なく、フェルゼンは続けた。
「だが、最近、少々認識を改めた。オスカルはやはり女だ」
それはドレスを着た彼女を見たからですか、とは聞けなかった。
彼女はあなたのために生涯でただ一度ドレスを着ました…と声にならない言葉が頭をよぎった。
切ない表情が浮かんだのだろうか。
フェルゼンは少し声を落とし、あたりを見回すと、
「オスカルはまだ帰ってこないな。ならば話しても大丈夫だろう。実は先日オスカルから手紙を受け取った。私が出した手紙の返事だったが」
それはもちろんアンドレも知っていたので、コクリとうなずいた。
「わたしとしては、暴動に巻き込まれたあと、どうなったか心配だったのでね」
「申し訳ありません。こちらからご報告すべきでしたのに」
「急いで封を開けてみた」
それからフェルゼンはクスクスと笑い出した。
アンドレは、自分の希望通り、ひとときフェルゼンを幸せにする内容だったのだろうか、と不思議そうに目の前の貴人をながめた。
「いや、ハッハッ…。わたしはあんな手紙を他ならぬオスカルから受け取ろうとは夢にも思わなかった。ハッハッハ…。いや、失敬」
それから息を整えたフェルゼンは、さもおかしそうに話した。
「わたしは、あれからのきみのことを、とてもよく知っているのだよ。怪我がひどかったことも、幸い無事快復したことも、休暇中パリで療養していたことも…」
アンドレは目を丸くした。
「そう。すべてオスカルの手紙に書いてあった。自分自身のことはほとんど書かれていない。ただ、アンドレが大変だったとか、元気になったとか、礼を言いたがっているとか…」
そう言いつつ、フェルゼンはまた笑い出した。
「まったく。きっと何も自覚していないのだろうが、あそこまで無防備で開けっぴろげな手紙を、あのオスカルが書いたかと思うと…。クックック…」
さすがにアンドレはフェルゼンが何を笑っているのかを察し、赤面した。
「伯爵…。あの、それは…」
オスカル、おまえ、何を書いて…、とアンドレはどう取り繕うか必死で考えた。
「いやいや、失礼。だがわたしは本当に幸福だったのだ。オスカルとは若いときからよくいろんな話をした。恥ずかしながら、王妃さまへの道ならぬ恋も、オスカルにだけは隠さず話してきた」
それがどんなに彼女を傷つけていたかは知らなかった。
心許せる同性の友と思って、何でも話してきたのだ。
彼女がドレスを着たあの日まで。
「だがある時わたしは、二度とオスカルとこんな話はしない、と決心した。そしてそれからは、恋の話など軽い遊びでしかない連中ばかりの世界で、オスカル以外の誰ともする気にならなかった」
それは本当に孤独な日々だった。
心おきなく語り合える友の存在のありがたさを思い知り、オスカルに甘えていた自分を恨んだ。
「だが、今は違う。今、こうしてきみと話している。今度こそ、間違いなく男同士で…。わたしは本当に嬉しいのだ」
アンドレは返す言葉を持たなかった。
ただ、ありがとうございます、と答えた。
対等の、ただの男として自分を見てくれていることに。
王太子妃と近衛士官と外国貴族と平民。
十代に出会った四人のそれからの年月は、ときに重なり、ときに離れ、また時に愛を育み、別れを生んだ。
そして、フェルゼンの言うとおり、今、再び、互いに笑みをたたえて、杯を交わす間柄となった。
それぞれがそれぞれに流した涙は、今、この杯とともに飲み干されるだろう。
二人はどちらからともなくグラスを掲げ、互いの半生が凝縮された一杯を飲み干した。
「それにしてもオスカルは酒豪だな」
「はい。ですから絶対に勝負してはいけません。こちらが潰れるのがオチです」
「なるほど。今までにオスカルが潰れたことはないのか?」
やや逡巡して、それからアンドレはできるだけ屈託なく答えた。
「一度だけありました」
「ほう…?」
「伯爵がアメリカからの帰還兵の中にいらっしゃらなかった時です」
「…」
「場末のわたしのいきつけの酒場に無理矢理案内させられ、飲んだくれたあげくに店の客と大げんか。大変でした」
少し目を伏せて語るアンドレの姿が、近くの燭台からの明かりでぼんやりと浮かび上がり、長い年月、ただひとりの女性のかたわらで過ごしてきた男の心の襞をうかがわせた。
フェルゼンは、グラスを取ると、一口飲んだ。
アンドレも同様にした。
深い意味が無かったわけではないが、特に意味を込めたわけでもない。
それは事実にすぎない。
オスカルがフェルゼンを愛し、報われぬゆえに悩み涙した日々は、確かにあったことで、
消えることはないのだから。
しばらくして、フェルゼンがぽつりと言った。
「オスカルは、そんなときでも、きみと行くのだね」
「え…?」
「普通、そう言う場合、ひとりで飲むだろう。結局彼女はいつだってきみを、きみがいることを要求している、ということさ。きみには迷惑な話だろうが…」
意外な言葉にアンドレは再びグラスに口をつけた。
そうだったのだろうか。
「あまりに身近にいると、空気のようになるものさ。なくさなければ気づかない。」
フェルゼンの言葉がアンドレの心の襞にふんわりとかかり、潤していった。
突然、扉がドンドンと叩かれる音がした。
続いてオスカルの叫び声が響いた。
「アンドレ、そこにいるか、アンドレ、あけてくれ。このドアを開けてくれ。アンドレ、アンドレ!聞こえるか、アンドレ!」
室内の二人の男は驚いて目を見合わせた。
アンドレはあわててドアに駆け寄り、内側から開けた。
見ると両腕一杯にワインやらブランデーやらを抱えてオスカルが立っていた。
こいつ、足で蹴ったな、と思いながらいそいで何本かを引き取った。
「待たせたな。これでどうだ。おまえの釣り上がった三角まなこを思い浮かべて、随分減らしたのだぞ」
と言いながら、オスカルは冷えた身体を震わせた。
「ほら、早く暖炉の前に来い」
アンドレがオスカルを引っ張って、一番暖かい場所に座らせた。
「なに、暖炉よりも、こっちの方がよっぽど身体が温まる。早く栓を開けてくれ」
最後まで手放さなかった一本を、オスカルはアンドレに突きだした。
「わかった、わかった。ほら、フェルゼン伯爵があきれておられるぞ」
「フェルゼン、さあ、美酒はそろった。今宵はゆっくり飲み明かそう」
と言いながらオスカルはフェルゼンではなく、アンドレを見ていかにも嬉しそうに笑った。
こんな笑顔を毎日傍らで見ていたら、きっと自分もオスカルが女だと認識していただろうな、とフェルゼンは思った。
だが、実際には、オスカルはこの笑顔を、決して自分には向けなかった。
彼女が、あえて隠していたわけではあるまい。
この顔は、きっとこの男の前でだけするのだ。
きっと、ずっと小さいときから。
あの、ドレスを着て現れたあの舞踏会の時ですら、オスカルはこんな笑顔は見せなかった。
この無防備なありのままの、なんの虚飾もない笑顔を…。
大体、なんであんなにアンドレと連呼するのだ。
パリでもそうだったが…。
いるに決まっているし、聞こえているに決まっているだろう。
自分が鈍感だったことを責めるのはもうやめだ、とフェルゼンは思った。
なんのことはない、オスカル、おまえのほうがよほど鈍感ではないか。
おまえはドレスを着なければわたしに女として見てもらえないと思ったのだろうが、そんなものを着なくても、ずっと、おまえは女だったのだ。
アンドレの前では…。
失恋のやけ酒にすらつきあわせて…。
いやいや、失恋とも呼べない代物だな。
おまえは自分でもまったく気づかないまま、いつもそうやってこの男の前で笑っていたのだろう?
まったく、良心の呵責を感じていたわたしはとんだ道化師だったぞ。
フェルゼンは幸福感と喪失感とがないまぜになった自分を優しく許し、オスカルの勧める一番の美酒を飲み干した。
「うまい!よし、オスカル、今夜はとことん飲もう。アンドレ、きみも飲め。男同士、徹底的に飲むぞ」
あえて三人の男の酒宴だと強調したいほどに、目の前の二人は男女に見えた。
きっとずっとそうだったはずだが、自分が気づいていなかった二人の姿。
当のオスカル自身が気づいていなかった姿。
その姿にフェルゼンは祝杯を挙げた。
フェルゼンのお墨付きに気をよくしたオスカルは、
「よし!さあ、飲もう。アンドレ、どんどん開けろ!乾杯だ!」
と叫んだ。
この夜、オスカルの応接室から聞こえた乾杯の回数は参加者全員の両手の指を足しても足りないほどに繰り返された。
おわり
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