人生劇場

マロンは重い頭を枕から起こした。
今朝はやや暖かいようで、窓の外に鳥のさえずる声が聞こえている。

人生は決して思うとおりには進まない。
それは長い経験から熟知していたはずのことだった。
すべてのことが夢と希望に覆われて、何でも願い通りになる、と信じていたのは、結婚して、かわいい娘をさずかって、確かそのあたりまでだ。

夫が流行病であっけなく亡くなり、乳飲み子を抱えて呆然とした二十歳過ぎが、現実と向き合った最初だったと思う。
波乱の人生の第一幕がこのとき始まったのだ。

子連れで働ける仕事なんて、何があるだろう、と寒々とした部屋で人生を呪った。
けれども、運良く乳の出る女を探していたジャルジェ家に雇われ、生まれたばかりの現当主レニエ・ド・ジャルジェの乳母となることができた。
亡き夫の友人が探してきてくれたのだ。

人生捨てたものではない、と、精一杯真心こめてお育てした赤ん坊は、すくすくと成長し、近衛士官となり、美しい貴族の令嬢を妻に迎え、やがて大伯爵家の当主となった。
そして次々に子を授かった。
乳をやる乳母はその都度雇われたが、マロンは働き者で気だても良いから、とかわらず奉公しつづけ、ジャルジェ家の使用人の中ではひとかどの地位を占めるようになった。
当主とは同い年になる娘も働き者で、一生お屋敷にお仕えすると言っていたのが、三十歳を過ぎた頃になって良縁があり、当主夫人の心遣いで幸せに嫁いでいった。
娘夫婦がしばらくして男の子を授かり、平凡に暮らしている様子に安堵していた一方で、ジャルジェ家では子供は授かるものの、男子に恵まれず、ついに第六子まで女子であるにいたってこの末のお嬢さまが男として育てられることになってしまった。
皆さま美しくお生まれの中でも、とりわけて美しいこのお嬢さまが、男として生きるなど、もったいない限り。
自分がお育てしただんなさまの決めたことならば、自分にも責任がある、と、マロンは深く自覚し、どんなことがあってもお守りし、お幸せな人生を送らせて差し上げたい、と固く誓ったのだった。

人生二度目の試練がやってきたのは、それからしばらくしてだった。
末のお嬢さまが七歳におなりになった頃、娘夫婦が亡くなったのだ。
亡き夫にこんなところだけ似なくても、と情けない限りの流行病が原因だった。
遅くに嫁いで、子供も遅くに授かったとはいえ、まだ三十代だ。
やりたいこともいっぱいあったろうに。
残していくひとり息子がどんなにか気がかりだったろうに。
気丈なばあやが、手紙を握りしめて泣き崩れたのは、ちょうど二番目のお嬢さまの婚礼準備の真っ最中だったが、将軍夫妻は、すぐに孫息子を迎えに行くよう手配してくれた。
年齢が跡取りのお嬢さまと変わらないことを知った奥さまが、遊び相手にちょうどいいから、とおっしゃってくださったのだ。
やはり人生捨てたものではない。
突然親を亡くし、見も知らぬも大きなお屋敷で、祖母とともに働くことになったわずか八歳の子供の気持ちを察してやるだけの余裕はなく、ただただ、お嬢さま大事を旨としてお相手するよう言い聞かせたものだった。

それからどれほどの年月が流れたのだろう。
人生の第二幕は順調に進んでいると思っていた。
孫息子は、言いつけ通り、お嬢さま大事、を実行した。
この世で一番大事、と。
それはいい。
問題は、お嬢さまも、孫息子を大事となさったことだ。
それも決して悪いことではない。
小さいうちはよかった。
微笑ましくさえあった。
けれども、もとより身分が違うのだ。
自分がだんなさまを大事と思い、だんなさまも自分を大事と思ってくださる、そういう関係でよかったのに…。
どうしてオスカルさまとアンドレはその一線を越えてしまったのだろう。

オスカルさまの怒鳴り声が耳に蘇る。
わたしでは不足か、という声が…。
続いて奥さまの優しい声が聞こえる。
二人は結婚したのです…という声が…。
頭の奥がズキンズキンとする。
世間の人は、今、フランスの国は大変だ、と言うけれど、それどころではない。
お屋敷の中のほうがずっと大変だ。

もしマロンが言葉を知っていたら、まさにこれこそ革命だと断言しただろう。
貴族と平民が結婚だなんて。
しかもあたしのお嬢さまと、あたしの孫が…。
マロンは再び頭を抱えた。

そのとき扉が開き、女中頭のオルガが入ってきた。
水差しの水を換えに来てくれたようだ。
起き上がっているマロンを見て
「おや、目、開いてたのかい?それともあたしが起こしちまったかしら?」
と、聞いてきた。
「起きていたよ。いつまでも寝てられないからね」
「そうかい。でもあんまりあわてず、ゆっくり養生したほうがいいよ。この前無理して起きて、やっばりこの有様なんだから」
その言葉を聞いて、オルガはなにも知らないのだ、とマロンは気づいた。
自分が二回目に倒れた本当の理由を…。
娘が生きていたらこの位の歳で、こうやって働いていただろうと思われて、格別に気安く隠し事無くつきあってきたけれど、今回ばっかりは言えない。
言えることではない。
オスカルさまとアンドレが結婚していたなんて…。
そのショックで自分は寝込んだのだなんて…。

そんなマロンの心中を知ってか知らずか、オルガが問いかけてきた。
「丈夫だけが取り柄だって、あんなに自慢してたけど、やっぱり歳なんだねえ。それともなにか気がかりでも…?」
だてに長くつきあってきたわけではない、まただてにこのジャルジェ家で侍女を束ねてきたわけではないオルガの鋭い観察眼にマロンが驚きつつ、感心しているとさらに鋭い質問が飛んできた。
「アンドレに嫁を取るってがんばってたみたいだけど、うまくいかないのかい?」

オスカルさまとアンドレのことを、決して悟られてはならない。
そんなことをすれば二人の身にどんな災いが起きるか、考えることすら恐ろしい。
奥さまはおおように構えておられるけれど、世の中そんな甘いモンじゃない。
自分から見れば、奥さまはおっとりとしたお育ちで、上品で、優雅で、文句のつけようがない方ではあるが、どうも世間知らずでいらっしゃる。
大体だんなさまには内緒、だなんて、ご夫婦で何と言うことだろう。
そんなことが通用すると思っておられることからしてお嬢さま育ち以外の何物でもない。
マロンは、これは寝ている場合ではない、と即座に気持ちを引き起こした。
自分が参っている場合ではない。
自分が二人を守らなくて誰が守るのか。
雄々しい決意が老齢の精神を鼓舞した。

「ああ、あの子は知っての通りの馬鹿だからね、なかなかいい縁談にめぐりあえなくて…。でも、ものは考え用だと、今、思っていたんだ。なまじ結婚させても、幸せに行くとは限らない。あの子の母親のように、あっけなく逝っちまうこともある。それならとりあえずあたしが生きてる間はあたしの目の届くところで、平凡に暮らすのもありじゃないかってね」
これは意外だ、という顔を露骨に見せながら、オルガは返した。
「へえ〜!随分悟ったんだね。まあ、あたしはもとからアンドレには無理に結婚させないほうがいいと思っていたから、ばあやさんがそれでいいなら結構だけど」
予想外にものわかりのいいマロンに少し不思議そうな面持ちを見せながらも、オルガはあえて追究してこなかった。

「さて、いつまでもこんなところで寝ていられない。あたしは自分の部屋に帰るよ」
マロンはゆっくりと寝台から下りた。
心境の変化には寛大だったオルガもこれにはさすがに驚いて、
「何やってるんだよ。寝てなきゃだめだよ」
と、あわてて、とめた。
だが、マロンにすれば、自分の不調の原因を詮索されて、万が一にも屋敷内の誰かに二人のことが知られてしまっては死んでも死にきれない。
奥さまとの会見中に倒れたことは周知の事実なのだから…。

オルガと話すまでは、ただただ落ち込み、頭痛に悩まされていたのが、今は、なんとしても二人を守らなくては、という強い使命感に燃えていた。
周囲から、世間からあの命より大切な二人を守らなくては…。
固い決心を胸底深く秘めて、マロンは元気に答えた。
「心配してくれてありがとう。でもね。オルガ、本当にもういいんだよ。アンドレの結婚をあきらめたら、なんだかふっきれてね。気分で寝込むなんて贅沢なことをしちまってすまなかったよ」
そういうと、さっさと立ち上がり、寝台の周りをてきぱきと片付け始めた。
その動きが往年のマロンのもので、決して無理しているのではないことが、オルガにはわかり、好きなようにさせようと判断したらしい。
「じゃ、この部屋の片付けはお願いするよ。あたしは隣の客間で寝てらっしゃるフェルゼン伯爵のご様子を見てくるから…」
と、立ち去りかけた。
「フェルゼン伯爵だって?」
「ああ、そうか、あんたは知らなかったね。昨晩いらして、オスカルさまとお酒をお楽しみだったんだけと、すっかり過ごされたようでね。お泊まりになったんだ。時々のぞいてほしいとアンドレから頼まれたものだからさ」
と話しているうちに、隣室から呼び鈴が鳴り響いた。
「おや、あちらもお目覚めのようだね」
オルガがにっこりと笑った。
「オスカルさまもアンドレもちゃんと定時にご出勤なさったけれど、あちらは、かなりお酒が残ってらっしゃるようだ」
それから、
「じゃあね。無理しなくていいけど、ばあやさんが元気に動いてくれるなら、あたしは大歓迎だからね」
と、軽く片眼をつぶって朗らかに高笑いするとオルガは出て行った。

扉が閉まるや、マロンは鼠のようにクルクルと動いて、自分の寝ていた寝台から敷布をはずし、近くの長椅子の上にきちんとたたんで置かれていた服に着替えると、とりあえず、廊下に出て、使用人棟の自室に向かった。
さあ、人生の第三幕が始まる。
一度目や二度目と違い、今回のあたしはまだ何も失っちゃいない。
いや、失わないために戦うのだ。
世間や、しきたりや、諸々の今まで自分が疑っても来なかった常識というものと。
マロンは風の中を行く老いた獅子のようにいさましく広い廊下を進んでいった。                 
                                                 



 
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