「足音が階段を上ってきたぞ。」
不思議な言い回しでオスカルがアンドレに言った。
「一人は奥さま。そしてもう一人は察するところクロティルドさまだな。」
耳の良さでは誰にも引けを取る気のないアンドレだ。
「どこへ向かっているか、おまえの耳なら聞き分けられるか?」
「おそらくだんなさまの居間だ。」
「階段の昇降は禁止だが、同階での平行移動なら誰も文句は言うまい。行くぞ、アンドレ。」
オスカルは長椅子から颯爽と立ち上がった。

ねずみのように走り回って働いているアンドレが昼日中にオスカルの部屋に来ているのは、他でもない、奥さまのご命令のためだ。
わずかな使用人に手間を取らせないよう、娘の監視役を買って出ていたジャルジェ夫人は、突然の次女の到来に驚きつつも、身代わりをたてることを忘れなかった。
オスカルの部屋にアンドレを出向かせ、決して激しい動きをさせないようことづけたのだ。
したがって、アンドレとしては、ここで「行くぞ。」と言われて「はい。」と答えるわけにはいかない。

「そのうち、あちらからおいでになる。おまえはここにいろ。」
すこぶる常識的かつ説得力のある発言だった。
そう言われればそうである。
あのクロティルドが、オスカルの顔を見に来ないはずがない。
むしろ興味津々でやってくるに違いない。
何ものこのこ自分から顔を見せに行く必要はないと、オスカルも思った。
というか、気づいてしまえば、顔を見られるのが何やら恥ずかしくもある。
ベルサイユ在住の三人の姉たちには、妊娠発覚の時点でばれていたから、というか一番に気づいたのがマリー・アンヌだったわけだから、恥ずかしがる暇もなかったが、こうして実家に落ち着いて、切迫流産だの安静だの言われている自分の姿を、久方ぶりの姉の前にさらすのは、どうにも居心地が悪い。
出向いていこうとした気持ちはどこへやら、今となっては身を隠したい気すらしてくる。

「今日は気分がすぐれないから会いたくない、というのはまずいか?」
珍しく気弱な発言である。
「ならば一層ご心配ですぐにもおいでになるだろう。」
アンドレは笑いをこらえた。
照れているのだとわかると、何とも言えず愛おしい。
「それもそうだな。大騒ぎになって、またぞろクリスやマダムが来ては何をしているかわからんな。」
そう言ってから、さっと顔が曇った。
「パリは大変な状況だ。ラソンヌ邸の人間はもう動けないのではないか。」

市民が武器庫を襲っている。
シャン・ド・マルスには各地から集結した軍隊が野営していて、出動命令に備えて待機している。
そしてアラン率いる衛兵隊は明日その緊迫のパリに出動するのだ。
一触即発。
もし発砲騒ぎなど起きれば、怪我人は双方から出るに違いない。
そうなれば医師であるラソンヌやクリス、看護の心得のあるディアンヌは…。
「わたしどころではないな。」
ある意味、医師が妊婦にかかりっきりでいられる、というのは平和な証なのだ。

「大勢の人間が危険に身をさらしている。わたしのことなど取るに足りないのだ。」
「俺にとっては最大の事案だがな。」
アンドレは顔をしかめた。
いつもそうだ。
オスカルは自分のことを軽く見る。
できるだけ小さく位置づける。
それは過小評価だ、と言っても、聞く耳をもたず、自分は無力だ、とすぐに落ち込む。
パリの情勢は情勢として、少なくともこのジャルジェ家では、オスカルの妊娠以上に家人の関心を集めているものはない。
皆が無事の出産をそれこそ固唾を呑む思いで見守っているのだ。
そして、その筆頭は自分だとアンドレは自覚している。

「生まれ来る一人の命も、大切だ。だが危険に立ち向かう部下の命もわたしには大切なのだ。」
「ならば比べるな。」
「え…?」
「おまえの言うとおりだ。どっちが大切だということではない。どれもが大切、それでいいんだ。だが、その命のために何ができるか、その命に自分がどれほど大きく関わっているか、それを思えば、今、おまえが最優先で考えねばならない命がどちらかは、おのずと明らかになる。」
部下の命はアランに託した。
パリの市民は、各々自分の責任で動くだろう。
医業に携わるものもまた、自分の判断で行動するはずだ。
だが、腹の中の命は、まだ自分の判断も責任もない。
ひとえに母体にかかっているのだ。

「おまえ、随分大人びたことを言うのだな。」
オスカルが冷やかした。
「当たり前だ。子どものままでは親にはなれない。」
「ふん。親になるというのはそんなに心構えがいるものなのか。母上も先ほど延々と語っておられたが…。」
「心に留めたか?」
「一つだけな。」
たぶん夫人の説いた心得は十箇条はあったに違いないが、そこにつっこむのは愚かだ。
「ほう…。一つだけか。」
シンプルに答える。
「ああ。なかなか面白かったのでな。」
「どんなことだ?」
「奇しくもソワソン夫人と同じ言葉だった。子どもは育てたように育つ。だから充分心して育てよ、と。」
「なるほど。」
「わたしを育てた親からそう言われてもな…。なかなか複雑だぞ。」
「確かに…。」
「つまりは思うようには育たなかった、ということだからな。」
「まあな。」

軽く受け流しながら、だがアンドレは全然別の感慨を抱いていた。
思うように育っていたら、自分と結婚するなどあり得なかった。
だが、育てたように育ってくれたおかげで今がある。
アンドレは主人夫妻に心から感謝した。

「それにしてもクロティルド姉は何しに来たのだ?わたしの顔を見るため、というにはあまりに時期が悪すぎる。」
話題を変えたオスカルにすぐに合わせた。
「確かにそうだ。例年、この時期は物資の買い付けに夫君がいらっしゃるが…。」
「ああ、そうか。いつもバルトリ侯が来ていたのはこの季節だったな。」
「どうして今年に限ってクロティルドさまなんだろうな。」
「いかに必要な物資とはいえ、この状況だ。危険極まりないぞ。バルトリ侯ならともかく…。」
二人は物語に出てくる海賊船の船長のようなバルトリ侯の顔を思い浮かべた。

クロティルドの夫君アドルフ・レオポル・ド・バルトリ侯は、実はもと近衛の連隊長でオスカルの上官だった。
アンドレと同じ黒髪に黒い瞳の侯は、つまりジャルジェ将軍直属の部下で、その有能さゆえにジャルジェ家から申し入れて縁組をしていた。
いずれ近衛においてオスカルの後見を、との将軍の目算があったからである。

帯剣貴族であるジャルジェ伯爵家に対して、バルトリ侯爵家は、目の前の海を渡ればそこはイギリス、という土地を領地に持っていて、豊かな農作物と海産物に恵まれ、家格よりも富裕で聞こえる家だった。
その継嗣だったアドルフは、海に憧れ、船乗りたさに商人になりたい、と言ったため、驚いた父が、それならばせめて海軍に、とベルサイユに出してくれたのだが、毛並みの良さと容姿の秀麗さを買われて軍は軍でも近衛に配属される羽目になった。
話が違うと思ったものの、国王命令で配属されたことを覆すこともならず、覚悟を決めて軍務に励んだ結果がクロティルドとの結婚だったのだが、ルイ15世逝去の際、格好の理由ができたとばかりにあっさり辞職してしまったのだ。
以来15年、軍船ならぬ商船に乗り込んで意気揚々と海に出る日々だ。
豪放磊落、気骨のある人柄で水夫の信用も得て、領地の産物を自ら船に積み込んで世界に売り歩く型破りの貴族である。

彼ならば、たとえパリに火の粉が降っていても、全く気にせず商談を済ますに違いないが、今年来たのはクロティルドだという。
奇怪千万な話であると、オスカルもアンドレも首をかしげるばかりだ。
「とにかく、そのうちこちらにおいでになるだろうから、訳はそのときにお聞きしよう。おまえは頼むからここでじっとしていてくれ。」
アンドレは先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「忙しいのだな?わたしの見張りなどしていられない、ということだろう?構わんぞ。それこそ子どもではないのだから、一人でいることなどたやすいことだ。」
オスカルがむくれた。

まるでわかっていないな。
オスカルの場合、一人でいるのが難しいのではない。
一人でじっとしていることが難しいのだ。
そこのところをもっと自覚してくれたら、どんなに奥さまや自分が楽になることか。
だが、おそらくこの話は不毛の展開を見るだけだ。
アンドレは仕方なく笑った。
できるだけ優しく、できるだけにっこりと…。
「いや、やはり俺はここにいるよ。おまえを一人にはできない。」

それを聞いてオスカルもにっこりと笑いさも満足そうにうなずいた。







     




























                                               








花 一 輪

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