オスカルの機嫌は芳しくなかった。
いや、むしろ悪かった。
正直なところ、最悪といっていい状態だった。
ここまで悪化するのはめずらしい、などとのんびりかまえている場合ではない気もするが、すでに手の施しようがないのだから、傍観するしかない。
アンドレは、椅子に腰掛けたオスカルの背後に立ち、向かいの椅子に恐ろしい殺気を漂わせつつ座るジョゼフィーヌを見つめた。
こちらもオスカルに負けず劣らずのすさまじい機嫌の悪さだった。
パリのラソンヌ医師宅から駆け戻り、明日、クリスが往診に来ることを伝えようと、オスカルの部屋に入ったとき、すでに姉妹は相当言い争ったあとらしく、沈黙のままにらみあっていた。
そういえば、階段を走って上がるとき、すれちがった侍女が、アンドレ、と声をかけてくれていた。
廊下の向こうから歩いてきた執事さんが、片手をあげて何か言いかけていた。
だが、気がせいていたアンドレは、ご用ならあとで、とかわしてオスカルの部屋になんの予備知識もなくすべりこんでしまったのだ。
「では、もう一度最後の確認をします。わたくしからの手紙は受け取っていないと言うのね?」
ジョゼフィーヌが長い沈黙にしびれを切らし、おそらく何度か口にした台詞を再び言った。
「くどいですな、姉上。わたしは姉上からの手紙など知りません」
オスカルが言い切った。
ハッと息を呑んだのはアンドレだった。
彼は急いでオスカルの机に走り、文箱を開けた。
「オスカル、これ…」
アンドレは一通の手紙を手に取った。
ジョゼフィーヌがこれ以上ないくらい瞳を見開き叫んだ。
「あるじゃないの!」
すっくと立ち上がり、アンドレから手紙を奪い取った。
オスカルはキョトンとしている。
「アンドレ、なんでそんなものがわたしの文箱に入っているのだ?」
ジョゼフィーヌが手紙をじっと見つめ金切り声を上げた。
「封さえ切っていないわ!!」
オスカルの仁王立ちは衛兵隊員一同を一瞬にして黙らせる迫力があるが、ジョゼフイーヌのそれには、また別種の凄みがある。
案外、隊長職がつとまるかもな、とアンドレは馬鹿な考えに意識をとばそうと試みる。
だが、ジョゼフィーヌは、そのようなアンドレの努力を完全に無視して、自分の話題にひきずりこんだ。
「アンドレ、そこに手紙があることを知っていたわね」
「はい…」
力なくアンドレは答えた。
「どうして?」
「それは…、わたしがここにしまったからです」
「オスカルに内緒で?」
「いえ、その…」
「そんなはずはないわね。律儀なあなたは、きっとオスカルに、わたくしからの手紙が来ていることを伝え、そこにしまったはずよね」
お見通しである。
「そして、オスカル」
姉が妹を見据えた。
「あなたは…」
「忘れたのね」
とジョゼフィーヌが言うのと同時にオスカルが叫んだ。
「思い出した!」
勢いづいてオスカルは続けた。
「仕事がたてこんで休む暇もないときに、分厚い手紙が来たのだ。だからアンドレに適当に返事を書いておけ…と…」
さすがにばつの悪い顔をした。
「アンドレは人の手紙を読んだり、ましてや勝手に返事を代筆したりはしません」
ジョゼフィーヌが、彼のことならなんでも知っている、という調子で断言した。
悔しいが、アンドレの人となりについてはオスカルも反論する余地がない。
「姉上、わたしは忙しいのです。職務上の緊急案件が山のようにあるのです。当然そちらが優先されます」
オスカルは負けず嫌いを最大限に発揮した。
アンドレが口を挟んだ。
「ジョゼフィーヌさま、申し訳ありませんでした。一段落したら、オスカルに返事を書くよう促すつもりだったのですが、何分、パリ勤務が続き、なかなかお屋敷に戻ってくることができませんで…」
と詫びるアンドレを遮ってオスカルが叫んだ。
「この一ヶ月、ずっとパリ詰めだったのですぞ。姉上のお遊びにつきあっている時間などどこにもありません」
ああ、せめて形だけでも詫びてくれれば納まるものを…とアンドレは唇をかんだ。
案の定、ジョゼフィーヌは切り返してきた。
「オスカル。軍人というものは、職務が忙しいときには、人としての礼節を忘れてもよい生き物なのですか?」
ぐっとオスカルが詰まった。
「たとえ、どんなに忙しくても人が自分にあてて書いてくれたものに目を通し、ひとことでも返事をしたためるのは、当然のことではありませんか」
大上段にかまえ、正攻法でジョゼフィーヌは攻めてきた。
この弁論の巧みさを、先ほどの仁王立ちの迫力にたせば、隊長どころか連隊長でも務まるな、とアンドレは哀しい思考の逃避を試みる。
だが、またしてもジョゼフィーヌに引き戻された。
「アンドレ、そう思いませんか?」
「ねちねちとくどいですな、姉上。手紙のことを失念していたのは私のミスだ。それはお詫びする。だが、わざわざいらしたのだから、その分厚い手紙の用件をさっさと言っていただけませんか」
火に油をそそぐな、オスカル!とアンドレは心の中で叫んだ。
「わかりました。あなたのその態度。ええ、ええ。あなたっていう人がどういう人だったか、ようく思い出しました。心をこめて手紙を書いたわたくしがおろかでした。もう結構!金輪際あなたの顔など見たくもない!」
「上等ですな。わたしもこの国難の時に姉上なんぞと事を構える余裕はござらん。お顔を見なくてよいならこんなにありがたいことはない。どうぞお帰り下さい」
二人は正面からにらみ合った。
「帰ります!」
ジョゼフィーヌは大声で侍女を呼びつけ、馬車の支度を命じた。
ジャルジェ家の侍女が恐る恐る部屋に入ってきて、ジョゼフィーヌに
「奥さまがお呼びでございます」
と告げた。
ふん!と今一度オスカルをにらみつけると
「今行きます!」と返事し、ジョゼフィーヌはスタスタと出て行った。
ふー…!
オスカルとアンドレは二人同時にため息をついた。
「なんだったのだ、今のは?」
オスカルが言った。
「まあ、何だな。春を告げに来た1羽の鳥とでもいうか…」
アンドレがやれやれという顔で言った。
「そんなかわいいものか?春の嵐だぞ。いや、春雷だな」
言い得て妙である。
アンドレは吹き出した。
つられてオスカルも笑った。
「だが、やはり非はこちらにある。あとでちゃんと謝っておいた方がいいな」
アンドレが優しく言った。
「冗談ではない。今のことは一刻も早く忘れたいぞ。放っておくに限る」
オスカルは邪険に言い放ち、それからアンドレの顔をゆっくりと見た。
そして聞いた。
「今朝はどこへ行っていた?」
アンドレは、ようやくこの部屋へ来た本来の理由を思い出した。
彼は、窓辺の長椅子にオスカルを誘い、隣に座らせると、ゆっくりと今朝のできごとを語り出した。