アンドレが長椅子に並んで座りながら語って聞かせた話は、オスカルにとって様々な意味で新鮮で衝撃的だった。

まず、ラソンヌ医師と両親の関わり…。
40年来のつきあいだったとは知らなかった。
生まれたときから、医師といえば彼だったのには、そういう事情があったのか。
そしてアンドレの第六感である、医師の慕情。
母がそれに気づいていたのかいないのか。
「母上はおそらく気づいていまい」
オスカルはその部分には妙に自信を持って答えられた。
自分が身近な人の心情にうといのは母譲りに違いない。
「絶対気づいていないな」
オスカルは断言した。

その自信に満ちあふれた答が、アンドレには微妙に痛いものだということに、オスカルは気づかない。
もしそれが夫人譲りであるとするならばもはや打つ手はない、とアンドレは胸の痛みに言い聞かせた。
「母上が気づいていない以上、父上も、絶対に知らないはずだ」
と彼女は続けた。
両親は何も知らず、知らないままに、けれども絶対的に医師を信頼しているのだ。
畏敬すべき医師の自制心である。
一切気づかれずに見守る…。
伯爵夫妻を見守る侍医。
王妃と外国人貴族の悲恋を見守る近衛連隊長…。
自分はついに隠しきれなかった。
自身の初恋に重ねて、オスカルは胸がチクリとするのを、アンドレの手前、平常心でやり過ごしたつもりだった。
すでに完全に終わったことだ。
胸が痛いということすら、あってはならない。
だが、アンドレが気づかぬ訳はなく、彼はまたしても、痛む胸を密かに慰撫した。

結局、どちらにとっても痛いものにしかならないこの話題は、早々に切り上げられた。

続いてクリスが医師になる、と言う話…。
珍しいといえば、自身が女で軍人であるのだから、これほど珍しいことはなく、男の世界に単身乗り込もうとしているクリスの姿には心から声援を送りたい、というのがオスカルの本音であった。
さらには、同性による診察というのも心やすいものがあり、これも歓迎すべきことだった。
「もし金銭的な援助が必要だというのなら、クリスの矜持を傷つけない範囲で、わたしは助力を惜しまないつもりだ。そのようにラソンヌ先生に伝えておいてくれ」
オスカルは嬉しそうに言った。
アンドレもホッとした様子で
「では、明日のクリスの診察はちゃんと受けるんだな」
と、念を押した。
「やむを得ん。病人でもないのに診察を受けるのはどうかと思うが、女医育成のためだ。あえてその崇高な目的にわたし自身を捧げよう」
もったいぶった言い方にアンドレは苦笑しつつ、とりあえず、オスカルの了承をとりつけられたことに安堵していた。

オスカルの部屋に来た本来の目的をようやく達成すると、アンドレは長椅子から立ち上がった。
朝の仕事は片付けていったが、午後の分は残っている。
明日クリスが来ることを、執事やマロン、オルガに伝え、心づもりをしておいてもらう必要もある。
さらに、最重要事項として、ジャルジェ夫人に報告する義務があった。
今回のオスカルの体調不良−本人は全否定しているが−についてアンドレとともに最も心配しているのが夫人であることは明白だった。
使用人である執事やマロンには、詳細を伝えて要らぬ心配をかけては、との思いもあり、要点だけ伝えたが、何と言っても母君に知らせぬ訳にはいかず、アンドレはその日のうちに夫人には報告していた。
日頃冷静沈着な夫人も、さすがに動揺の色を隠せず、単なる疲労なのかどうか、何とか確認したい、との強い意向だった。
「クリスが来る段取りをつけてくる。おまえはせっかくの休暇だから、のんびりしているといい」
アンドレはオスカルの金髪をふわりとかき撫でてから部屋を出て行った。

オスカルは、一人で座るには丈の余る長椅子に取り残され、所在なげにしていたが、やがてそのまま横になった。
開け放たれたフランス窓から、春風が入り、レースのカーテンが優しく揺れている。
できれば春雷などではなく、このような春風によって、春が来たことを告げられたいものだ、などと皮肉まじりに考える。
まったく散々な朝だった。
目覚めればアンドレの姿はなく、変わりに頭から湯気を出さんばかりのジョゼフィーヌか゜乗り込んできたのだ。
まさに春雷だった。
だが、春雷までは思い出しても、ではジョゼフィーヌからの手紙を読もうか、とは決して思わない。
横になってのんびりする時間があるならせめて開封ぐらいしても罰はあたるまいが、のんびりしたときこそ、わずらわしい手紙など願い下げである。
本当に大事な用件なら、せっかく来たのだから口頭で伝えていくはずだ。
何も言わずに出て行ったことを思えば、どうせ大したことはなかったのだ。
まったくわずらわしいことだ。
またもや完全にオスカルは姉の手紙を忘却の彼方に追いやった。



他に考えるべきことは山積みしていた。
三部会開会が祖国フランスに与える影響。
何が変わり、何が変わらないのか。
誰が変わり、誰が変わらないのか。
制度、意識、価値観…。
諸々のものが最後の審判を受けるかのように雁首並べて跪いている。
わたしはどうだろう、とオスカルは考える。
わたしは変わるのか。
あるいは変わらないのか。
変わらないものを持ちながら、変わるべきところは変わっていかねばならないのだろう。

では、変わらないものとは…。
アンドレの顔が浮かんだ。
そして変わるべきところとは…。
またもやアンドレの顔が浮かんだ。
重症だな、と言いながら、オスカルはゆっくりと目を閉じた。








          

   

        春