アンドレはうかつにジャルジェ夫人の部屋を訪ねたことを、扉を明けた瞬間に後悔した。
そうだった。
ジョゼフィーヌさまが奥さまに呼ばれていたのだ。
だが、ノックし、入室の可否を問い、許可を得て明けた扉を、ジョゼフィーヌの顔を見たとたんに閉める訳にはいかなかった。

「アンドレ、オスカルからの返書でも持ってきてくれたのですか?」
あり得ないことと知りながら、ジョゼフィーヌが意地悪く聞いてきた。
「あ…、いえ、その…」
もごもごと口ごもるしかない。
「ジョゼフィーヌ、そんなにアンドレをいじめるものではありません」
夫人が笑顔でたしなめる。
「あら、オスカルに比べれば゜随分優しく接していると思いますわよ。ねえ、アンドレ」
ジョゼフィーヌの舌は辛辣である。
こういうときは笑って誤魔化すのみだ。
「まっ、あなたを責めてもどうなるものでもないことはよくわかっています。本当の用件はなあに?」

もともとが優しい女性なのだ。
特に自分は弟のようにかわいがってもらった。
ただオスカルと馬が合わないだけなのだ。
アンドレは、オスカルの身体のことゆえ、奥さまだけに話したかったが、人払いを頼んでジョゼフィーヌに退室してもらうわけにはいかず、正直に明日、クリスがくることを伝えた。
夫人はオスカルがクリスの診察を受けると言ったことを聞き、安堵の表情を浮かべた。
「色々と骨を折ってくれてありがとう」
夫人はアンドレが恐縮するくらい優しい表情で言った。

「あの、お話がよく見えないのですけれど…。オスカルはなぜそのクリスとやらの診察を受けるのですか?」
ジョゼフィーヌが二人の顔を代わる代わる見つめながら尋ねた。
アンドレは夫人の顔を見た。
「先日、パリで倒れたのですよ」
夫人が言った。
「まあ!鬼の霍乱ね」
悪気があるわけではないのだろうが、さすがに不謹慎だと夫人も思ったようで、やや厳しい口調で娘の名を呼んだ。
「あら、申し訳ありません。だってたった今会ってきたあの子は、それはそれは元気で憎たらしいほどでしたもの」
と、扇で口元を隠しながらジョゼフィーヌが言い訳した。

「もとより人に弱みを見せる子ではありませんよ」
夫人の言葉にアンドレも深く賛同し、うなずいた。
「あの子はあなたにも弱みを見せないのですか?」
ジョゼフィーヌのつっこみは本当に鋭い。
「えっ?」
「だって…ねえ。あなたには見せるでしょう?」
アンドレは自分の顔が赤くなっていくことが感じられ、なんとかごまかそうとしたが、無駄だった。
「ジョゼフィーヌ、いい加減になさい。アンドレが返事に困っているでしょう。気にしなくて良いのよ、アンドレ。用件はわかりました。できればわたくしもクリスの診察の際には立ち会いましょう」
これぞ助け船だと感謝するアンドレに、ジョゼフィーヌは遠慮なく追い打ちをかけた。
「なんでしたらわたくしも立ち会いましょうか?本当に調子が悪いのか、この目で確かめたいものですわ」
勘弁してほしい。
せっかくオスカルが了承したものを、ジョゼフィーヌが同席するとなったら断固拒否するに違いない。
アンドレは泣きたい気持ちで夫人を見た。
「おふざけが過ぎますよ。パリ出動中に馬上で気を失ったのです。わたくしやアンドレがどんなに心配しているか、少しは察しなさいな」
めずらしく強い叱責に、ジョゼフィーヌはシュンとなり、二人に詫びた。

三部会は五月に開催される。
それまでに万全の体調に戻しておかなければ、という焦りが夫人の声音に込められていて、アンドレは自分がついていながら、と、申し訳なさでいっぱいだった。
深刻そうな二人の表情に、ジョゼフィーヌは明るく声をかけた。
「心配いりませんわ、お母さま。ジャルジェの女は皆頑強にできておりますもの。中でもオスカルは最強よ。それはアンドレが一番よく知っているのではなくて?」
いいえ、決してジョゼフィーヌさまも負けてはおられません、と言うのはさすがに控えた。
それに、どんなに強くても、限界はあるのだ。
超えられない壁はあるのだ。
それを思い知らされる前になんとかしたい、というのが、夫人とアンドレの共通の願いだった。
アンドレはうなだれ下を向いた。

「あのね、アンドレ。そのクリスという女医さんのことだけれど、わたくしも出来る限り助力したいと思います。もし金銭的なことや、社会的な立場のことで力になれるのであれば、言ってちょうだい。もちろん、その方のプライドのために出所を隠した方がよいのであれば、そうしてもらって結構よ」
ジョゼフィーヌが扇をゆっくりと揺らしながら言った。
アンドレは驚いて顔を上げた。
「あら、どうかしたの?」
「あ、いえ…。今朝オスカルも全く同じことをわたしに言ったものですから…」
今度はジョゼフィーヌが驚いた。
「まあ!あの子でもそんな気の利いたとを言うのね。なんだかしゃくだわ」
扇をゆらす動きが加速された。
夫人が、やれやれという顔で言った。
「こんなに反発するのは似たもの同志だから、ということが、この歳になってもまだ二人ともわからないなんて…」
ジョゼフィーヌは扇をピシャッと閉じた。
「お母さま!それはとっても心外なお言葉ですわね。冗談にしても趣味が悪すぎますわ」

そうか、とアンドレはクスクスと笑った。
あまりに見た目が違うので、わからなかった。
二人は気性が似ているのだ。
勝ち気で、短気で、正義感が強くて、頭の回転が速くて、何事も人任せにできなくて…。
列挙していけば共通点はキリがなかった。
アンドレに触発されて、夫人もクスクスと笑い出した。
「ねえ、おかしいでしょう?」
「はい、まったくもって…」
二人は声を出して笑いあった。

では、おそらくオスカルが倒れるまで働くことも、誰よりもこの方がわかっておられるのだろう。
こうして、何の前触れもなく突然やってきて、否応なくオスカルに会うことが出来るのは、同居している両親以外では、この方しかいない。
この忙しいとき、大概の面会申込者は、隊でも屋敷でも門前払いだ。
だが、ジョゼフィーヌは違う。
堂々と乗り込んできて、正面からオスカルと渡り合う。
たとえ、その内容がどんなに取るに足りないつまらないことであったとしても…。
オスカルにとって、忌々しく思いながらも、気心の知れた姉との日常とはかけはなれた他愛ない言い争いが、案外気分転換になっているのかもしれない。
アンドレは、ジョゼフィーヌのオスカルへの愛情というものの形がようやく見えてきて、幸せな心地で笑い続けた。

「ああ、もう結構。わたくしの用は済みました。帰ります。さあ、アンドレも、明日のことをオルガに伝えてきなさいな」
憤懣やるかたない表情で邪険に自分を追い出そうとするジョゼフィーヌに、アンドレは笑いながら、かしこまりました、と答えた。
「まったく!笑い過ぎよ、アンドレ」
と言いつつ、結局、ジョゼフィーヌも笑いだした。
鈴のようなジョゼフィーヌの笑い声がアンドレの心を柔らかく包んだ。
この声、これこそが春告鳥だ、とアンドレは思った。








          

   

        春