休暇の二日目、クリスは、約束通りの時間に辻馬車でやって来た。
診察はひとりで受ける、とオスカルが言い張ったが、それでは心配だとジャルジェ夫人が異議を唱え、渋々オスカルは母の同席のみ了承した。
閉め出されたアンドレは、めずらしく屋敷の仕事を放棄し、隣の居間で、まんじりともせず結果を待った。
椅子に座ってみたり、窓辺に寄ってみたり、落ち着かないこと甚だしい。
強引に同席すればよかった、と思う一方、夫人はともかく、クリスが異性の使用人の同席をどれほど奇異に感じるかを思えば、こうしてウロウロと歩き回る姿こそが、己の分にふさわしいのだ、と繰り返し自分に言い聞かせた。

時々、中から声が聞こえたが、何を話しているかまでは聞き取れなかった。
普通、女性三人の中にオスカルがいると、彼女の声だけがやや低いため、アンドレは確実に聞き分けることができるのだが、今日の顔ぶれは、年の割には落ち着いた声のクリスと、年齢相応にしっとりとした低音の奥さまだから、まったくわからなかった。
アンドレがいつになくイライラした気分に陥っていると、突然
「馬鹿な!」
という大きな声がした。
間違いなくオスカルの声だ。
クリスや奥さまがこのように怒鳴るわけがない。
アンドレは、思わず寝室の扉の前に行き、耳を近づけた。
だが、立ち聞きなど情けない、と思い直し、再び室内をグルグルと歩き始めた。

ばあやが、まだ終わらないのかい、と不安げに部屋に入ってきた。
つい先日まで寝込んでいたのは自分で、それはもう年齢を考えれば、誰にも文句を言えることではない、と思っていたけれど、オスカルさまが倒れる、となると、神にすら苦情を言いたくなるばあやであった。
「ああ。じっくりと見てもらうに越したことはないからね」
アンドレは自分の不安は押し隠して、にっこりと祖母を見た。
「あんまり長いと変に勘ぐってしまうよ。中に入ってこようかね?」
「ダメだよ。そんなことをしたら、オスカルはこれからの診察を一切受けなくなってしまうじゃないか」
アンドレはばあやの腕を取り、近くの肘掛け椅子に座らせた。
「昔は、奥さまよりもあたしのほうがおそばについて先生に診ていただいていたのにねえ」
それは逃げ出そうとするオスカルの腕をひっつかまえていたからだろう?とアンドレは苦笑した。
「何がおかしいんだい?!」
ばあやが怒り出したとき、隣室との間の扉が開いた。

一番に出てきたのはクリスだった。
クリスは、アンドレとばあやの顔を見ると軽く会釈した。
「これからは一月に一度、定期的に診察に来ます。その方が安心でしょう」
「では何かい?そんなにしょっちゅう医者にかからなきゃいけないほどお悪いのかい?」
ばあやが、クリスの袖を引っ張って聞いた。
そのしわくちゃの細い腕をつかんで、自分の腕から引き離しながら、クリスは言った。
「健康診断は元気なときでもしておくほうがいいんですよ。早くに病気を発見できれば、それだけ対処も迅速にできるのですからね」
ばあやはジロッとクリスを見ると、玄関までお送りしてきな、と孫に命じ、自分は寝室に入っていった。

アンドレはすぐにもオスカルの顔を見たかったが、オスカルが中から呼んでくれない以上、ばあやの指示を無視することはできず、クリスを伴って部屋を出た。
先ほど、少し首を伸ばしてクリスの肩越しに中をのぞいたが、オスカルは夫人と何やら深刻かつ険しい表情で話し込んでいて、こちらには気づいてくれなかった。
よほど厳しい診断が出たのか、と不安が増した。

二人で廊下を歩きながら、クリスに診断の結果を聞くべきかどうか迷っていると、クリスの方から、アンドレに説明を始めた。
「過労、というより、おそらくは貧血ね」
「貧血?」
「ええ。たぶんその月の出血が多かったのでしょう。女性にはよくあることです。どうもオスカルさまはお役目柄、ご無理が多いために、月の周期がまちまちで、ご自身でもきちんと把握してらっしゃらないようね。少しくらい間が開いても、逆に続けてきても、そんなものかと思ってらしたみたい。でも、これってとても大切なことなのよ」
あまりにデリケートな内容にアンドレは少し顔を赤らめ言葉を失った。
だが、クリスは無視して続けた。
「男のあなたにこんなことをわざわざ言うのは、一番身近でオスカルさまの体調管理ができるのはあなたしかいないと見込んでのことよ」
クリスは自分よりはるかに高いところにある男の顔を見上げて言った。

アンドレは何と言って良いかわからない。
オスカルの月のさわりについては、長い間、暗黙の了解のような形で接してきた。
男であるはずの彼女に、あってはならない女性の徴が、性懲りもなく毎月やってくることに、オスカルがいらだちをもっているのは当然だったから、かりそめにも話題にのぼらせたことはない。
そして、晴れて結ばれてからは、確かにその周期は本人以上に理解していると言えるかも知れないが、何も知らないそぶりを続けていた。
無論、最大限の配慮はしてきたつもりだ。
だが、まさかクリスがそこまで知っていて、話をしているわけではあるまい。
側近く仕える従者として、あえて、そこを把握して、気をつけるべきだ、と忠告してくれているのである。

「そういう部分は、奥さまや、侍女たちが担当したほうがいいんじゃないか?」
「もちろん、普通はそうよ。でも、聞けば、最近はお帰りにならないことも多いとか…。それにオスカルさまご自身が、侍女たちにそんなことを配慮されたくはないというお気持ちが強くて…。結局四六時中一緒にいて気をつけられるのはあなただけなのよ、アンドレ」
「…」
言葉にはしなかったが、実はアンドレはクリスの話にうなずいていた。
小さいときから、何事もオスカルは人の手を借りずにやってきた。
まして自分の身体のもっとも女性的でデリケートなことを人任せにするはずがない。
母である夫人も侍女もばあやも、オスカルのその部分には決して触れることを許されなかった。
だが、だからといって、では男の俺がそんなことを管理できるのか…。
アンドレの胸中は至極複雑である。

「きみが今回そうやって忠告してくれたのなら、これからはオスカル自身が充分注意するだろう。俺の出番はないよ」
一応、もっとも常識的な従者の返答をしてみた。
「確かにオスカルさまもそうおっしゃったわ。でもね、わたしはきっとできない、とふんだのよ。あの方は仕事に命を懸けるタイプだから…。毎月何日から何日まで月のものがあって、どれくらいの量があって、その前後の気分や体調はどうだったか、きちんと記録するなんて、決してできないでしょう?」
「そこまでするのか?」
アンドレは驚いた。
「そうよ。アンドレ、もしオスカルさまを守りたいと思うのなら、今日のわたしの忠告をしっかり聞いてちょうだい。毎月私が診察に来る、と言ったのも、この報告を聞きたいからよ。いいわね」
玄関まで来ると、ここで結構と言ってクリスはひとりでスタスタと車寄せに行き、待たせていた辻馬車が回ってくるとさっさと乗り込んだ。

馬車が貧相な車輪の音をたてて去っていくのを、アンドレは呆然と見送つていた。
それは無茶だ…!という思いが波のように寄せてくる。
オスカル自身にしかわからないことを、どうやって俺が記録できるんだ?
逐一、聞き出せというのか?
オスカルがそんなことを一々俺に話すわけがない。
アンドレは泣きたくなった。

だが、悪い病気ではなかったのだ。
自身と周囲の配慮があれば改善されるものだといい、自己管理が無理だというのなら、周囲すなわちアンドレ以外の誰が配慮できようか。
やむを得ん。
月のものだと気づいたときは、できるだけうまくオスカルが自分で記録するように促そう。
酒でつるしかないかもしれないな。
ただで動く奴ではない。
アンドレは大きくため息をついた。





          

   

        春