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クリスの乗った質素な辻馬車がジャルジェ家の門を出るのと入れ違いに、見事な細工を施された豪奢な四頭立ての大型馬車が、ガラガラといかめしい音を立てて入ってきた。
アンドレがどこの馬車だろう、と凝視していると、窓が開き、小さい女の子が顔を出した。
アンドレの背筋を悪寒が走り、それから彼はくるりと背を向けると、扉に手をかけた。
だが、扉が開くより早く、大きな甲高い声がアンドレの背中につきささった。
「アンドレ!」
ピクリとアンドレの耳が反応した。
彼はゆっくりと振り返った。
「アンドレ!来るって言ってなかったのに、よく馬車が着くのがわかったわね。お元気〜?!」
間違いない、この声にあの姿…。
車寄せに堂々と近づいてきた大型馬車からは、品のよい肥満気味の中年紳士と、スラリと細い婦人と、縮れ毛を二つに結った少女が、にこにこと顔を出していた。
「ローランシー伯爵、オルタンスさま…」
アンドレは目をぱちくりさせながらつぶやいた。
それからジロリと少女ににらまれて、あわてて付け加えた。
「ル・ルー!」
その後、ジャルジェ家はおもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎになった。
オスカルの寝室にいたジャルジェ夫人は、血相を変えたオルガから一報を聞くと、まあ…!と口を押さえるや、すばやくオスカルに
「この件はあとでまた」
と告げ、ばあやとオルガを連れて玄関ホールに向かった。
一瞬、きょとんとして母たちに置いて行かれたオスカルは、はっと気を取り直すと、脱兎のごとく駆け出し、途中でドレスをつまんで走る母を追い越し、ホールでローランシー一家に囲まれているアンドレのもとに駆け寄った。
程なくして、執事や侍女や、厨房のコックから庭番、馬方のものまでが集まってきた。
思いがけずホールに集合したジャルジェ家の面々は、にこやかにホールに立つローランシー一家を見て、全員そろって目をまん丸に見開いた。
以前、このお小さいお嬢さまがこちらに滞在なさって、どんな騒動が起きたか、誰も忘れてはいない。
人形に隠された秘密や、だんなさまの隠し子騒動、トルコの宝石がらみの修道院に怪しげな薬をつかう女など、最大の被害者はオスカルとアンドレで、結果よければすべて良しとは言い切れぬ危険をいくつもおこしてくれたのだった。
もちろん、その間、使用人たちも振り回され通しだった。
あと一月ル・ルーさまが滞在していたら、ジャルジェ家の使用人の半分はやめていただろう、との執事の言葉は決しておおげさではなかった。
だからこそ、先のノエルにオルタンスがひとりで帰省したときは、一同ホッと胸をなで下ろし、厨房では密かに祝杯があげられたくらいだったのだ。
それが、今回、何の前触れもなく、つまりは、誰一人覚悟も対策もないままに、台風の目が両親を従えてやってきたわけである。
戦々恐々と、一同が言葉を失うのは当然だった。
凍り付いたジャルジェ家の雰囲気を一向意に介さず、ローランシー伯爵が、義母の手を取り、ひざまずくと正式な挨拶をした。
「ご無沙汰いたしております、母上。お変わりなくお元気のご様子、何よりでございます。父上はどちらに?」
百戦錬磨の夫人はようやく自分を取り戻した。
「これはこれは、ローランシー伯爵。本当にお久しぶりでございますこと。オルタンスやル・ルーもお元気そうで…。だんな様は宮中に伺候されていて、夜にはお戻りになりますが」
と言いながら、おっとりと夫の傍らに立つ娘に、どういうこと?と鋭い目線で聞いた。
だが、姉妹中でも一番勘の鈍いオルタンスは、相変わらずニコニコとしたままである。
すると、身長のため、ひとりだけ皆の視界に入っていなかったル・ルーが、わたしはここよ、と存在を主張するがごとく、はきはきと説明をはじめた。
「ベルサイユにお住まいのおじさまが、三部会の議員におなりになったの。だからみんなでお祝いに来たのよ。立派な行列があるんですって。それも見物していくの」
補足のように、オルタンスが口を開いた。
「つい先日、ローランシーのお兄さまから知らせが参りましたの。それで、あわててベルサイユに…。あっ、逗留はお兄さまのところにお願いしていますから、ご心配なく。こちらにはとりあえずご挨拶にうかがっただけですから…」
「まあ…。そうでしたの」
逗留先がここではない、と聞いて、周囲の緊張感が、あっという間に解けた。
後方の侍女たちなど、あからさまに笑顔になり、音を出さずに拍手しているものまでいた。
だが、議員の行列は一月近く先の話だ。
その間、滞在先にじっとしていられるル・ルーではあるまい。
救いを求めるように夫人はオスカルを見た。
毒気を抜かれたように立ちつくしていたオスカルはなんとか気を取り直し、姉の手を取った。
「ノエル以来でございますな、姉上。その節は色々とお世話になりました」
「あら、オスカル。お元気そうでよかったわ。アンドレも変わりない?」
突然、オルタンスに声をかけられ、アンドレはドキっとしながらも、そつなく礼をした。
「兄上、パリはなかなか物騒でございます。議員の行列の警護にはわたくしどもも当たることになると思いますが、充分お気をつけ下さい」
オスカルは義兄に助言した。
「ああ、兄からも聞いている。随分と荒れているらしいね。今日もここへ来る際に、ベルサイユではともかく、そんな派手な馬車でパリになど絶対に行くな、と念を押されたよ」
「それはまことにご慧眼かと…」
オスカルが答えるのにかぶせてオルタンスが言った。
「あなたも豪華な馬車に乗っていて襲われたんですものね。大丈夫、わたくしたちもしっかり用心しますわ」
相変わらず悪気無く人の痛いところをつつくお人だ、とオスカルは顔をしかめた。
「さあ、立ち話はこれくらいにして、あちらへ。すぐにお茶の用意をさせましょう。オルガ、よろしくね」
腹をくくった夫人が、先頭に立って歩き出し、ぞろぞろと皆が続いた。
オスカルとアンドレは、その行列には続かず、二人だけホールに残った。
気づいたばあやが、おまえもおいで、とアンドレを連れて行こうとしたが、オスカルにすぐに行かせる、と言われ、渋々立ち去った。
「二日連続の春雷か?」
オスカルが真顔で言ったので、アンドレは吹き出した。
「まあ、ジョゼフィーヌさまよりは、ル・ルーの方が、いくぶん春告鳥にふさわしいのではないか?」
「冗談ではない。破壊力はこちらの方が数段上だぞ。ジョゼ姉は気分は害するが、実害はないのだから」
ああ、やはりジョゼフィーヌさまのことは気分転換だったのだな、とアンドレは微笑した。
「だが、お泊まりはこちらではないらしい。申し訳ないが、心底ホッとしたよ」
「せめて早馬でもしたてて、事前に連絡をくれればよいものを…」
「もし連絡が来ていたらどうするつもりだったんだ、オスカル?」
「当然屋敷から脱出している」
「やっぱりな…」
アンドレは、クリスの診察がんすでからの来訪でよかったとしみじみ思った。
それから、突然のできごとで、肝心の話しが抜け落ちてしまっていたことを思い出し、あらためて聞いた。
「クリスの医師としての腕前はどうだった?」
あえて、診察の結果は問わない。
受診するのは崇高な使命への献身だと言っていたくらいなのだから、その路線上の質問をしなければ機嫌を損ねることは火を見るよりも明らかだ。
「そうだな。悪くはない」
「ほう…。有望か?」
「うむ。女性患者にはいいと思う」
「それはよかった。で、診断の結果を俺は聞いても良いのかな?」
オスカルはピクリと肩をいからせた。
「ラソンヌ先生のそれと大差ない」
「本当に?」
「なんだ?疑うのか?」
「いや、そういうわけではないが…」
女性ならではの貧血だということを、知られたくないのだろうか。
だが、それを聞いておかなければクリスの指示を実行できない。
どのように話を持って行こうか、アンドレは思案に暮れた。
「その様子だと、クリスから何か聞いたんだな?」
黙り込んだアンドレに、オスカルは珍しく敏感に反応した。
色恋がからまなければ、オスカルは鋭い。
「ああ、まあ…」
アンドレはとっさに誤魔化すことが出来ず、あいまいな返事をした。
それから、話はきちんとつけておくべきだと思い直し、正面からオスカルを見て、聞いた、と答えた。
「わたしは、血が足りないそうだ」
オスカルが下を向き、ボソッと言った。
「母上は、こんな血気盛んな子が…、と驚いておられた。わたしも馬鹿な、と思ったが、症状がどれもあてはまる」
アンドレは優しくオスカルを見つめた。
あの怒鳴り声はこれだったのか。
確かに、誰より血の気の多いオスカルが、血が足りないと言われているさまは、本人には納得しがたいものだっただろう。
「もう少し自分を大事にすべきだ、と言われた」
クリスの言うことは正しい。
アンドレは大きくうなずいた。
「ひとりでできないときは周囲の手を借りろ、とも言われた」
なんという正しい助言だろう。
アンドレは感心した。
「だが、母上や侍女の手を借りるのは絶対に嫌だ」
やはりな、と、アンドレは自分の推測の正しさに満足した。
「つまりは俺の出番だな」
アンドレの言葉にオスカルは顔を上げ、それから目線をはずした。
「それは…、どうしても、というときだけだ。出来る限り自分でする」
「おまえがその気になってくれたのなら、こんなに嬉しいことはない!最大限協力するよ」
アンドレは、ついばむようにオスカルの唇にくちづけすると、遠くで自分を呼んでいるばあやに、
「ごめん。今、行くよ!」
と、手を振り、駆けだしていった。
ばあやの怒鳴り声を聞きながら、オスカルは、本当の春告鳥はこれか、と唇にそっと手をやった。
女性である徴が、そんなに体調にとって大切な項目だとは知らなかった。
とにかく早く終われとばかり思っていた。
だが、妻というものが女性にしかなれないものである以上、ここを避けて通るのは、ある意味、卑怯だ。
自分がどれほど注意をはらえるか、若干疑問が残るが、アンドレは協力を惜しまないと言っている。
ならば、大丈夫だ。
少しごねるくらいの方が、案外、譲歩の条件を引き出せて、自分には何の損もなく運ぶかも知れない。
策士の面目躍如だ。
オスカルは、もう一度、唇に手をやり、幸せそうに微笑むと、それから大きく深呼吸して、うるさいカラスの相手をするため、皆のいる母の部屋へ向かった。
終わり