どんなに綿密に計画を立て、詳細な脚本を書いたとしても、現実に舞台ではなく生活の場面で実行していくとなると、不都合が出てくるのは当然である。
そういう場合、役者がベテランであったり、高い能力を持っていれば、臨機応変に対応するのだが、タンプル塔という舞台に上がっているのは、なにぶん完全に素人の偽装夫婦だ。
緊急事態が発生したとき、すっと舞台袖に下がって黒子からカンニングペーパーを渡してもらえればまだしも、自力で乗り切れ、とのお達ししかないとなると、顔面蒼白でしどろもどろに台詞を言うしかなくなる。
フランソワは、タンプル塔に入ってから、何度こんな場面に遭遇したかわからない。
そのたび心臓が口から飛び出しそうな思いをする。
そして、たいていの場合、かたわらのディアンヌにすがりつくように救援を求めるのだ。
だがディアンヌとて、役者ではない。
貧乏貴族の娘として育ち、失恋をきっかけに医師の手伝いをするようになり、助産の技術を身につけて、結構な人気を得ているとは言え、革命派の監視員からのすべての質問に問題なく答える方法など、誰からも習っていない。
強いて言えば、危険な出産に挑む妊婦を励ますため、あえて元気な声で大丈夫だと叫びつつ、実は母子ともに危ないときの心構えが、今の状況にわずかでも役立つか、というところだ。
すっかりなついて甘えてくるルイ・シャルルが愛おしい。
母や姉と離れて寂しがっていた彼が、ディアンヌに母親の影を見ているかどうかはわからない。
けれど、生きていくためにはこの人にすがるしかないと、まるで本能が教えているかのように、彼はディアンヌの言うことを素直に聞き分ける。
王子として育った傲慢さもなく、むしろ末っ子としての愛され方を体得しているのか、誰にでも好かれる愛らしさがある。
なんとか無事に育ってほしい。
ディアンヌの心はその思いのみで満たされ、オスカルから与えられた困難な役割を賢明に果たしている。
王子であったことを忘れさせたい政府。
決して表には出さなくていいけれど、父と母と姉を忘れないでいてほしいルイ・ジョゼフ。
忘れてくれれば身は安全になる可能性がある。
けれど、自覚していれば、いずれ反革命のシンボルとなる危険性があり、それゆえに安全は保証されない。
忘れさせたい。
けれど忘れてほしくない。
葛藤と懊悩が、この計画に携わるすべての人間の胸中を占めている。
ただ、フランソワとディアンヌをのぞけば、皆、生身のルイ・シャルルに接している訳ではない。
どうしても反応が観念的になる。
希望が優先されてしまう。
安全ではあってほしいけれど、王子としての立場を忘れてほしくない、と。
それに対し、フランソワとディアンヌは、日々生きたルイ・シャルルを見ている。
柔らかく明るい金髪、澄んだ瞳、そしてどこか甘い高い音質の声。
彼らは全身でルイ・シャルルを認知している。
だから、優先されるのは、王子としての自覚よりも、当然身の安全だった。
パリ・コミューンの助役であるジャック・ルネ・エベールがフランソワを呼び出してきたのはマリー・アントワネットの裁判が始まってしばらくしてからだった。
強力な政権樹立のために生け贄がほしいコミューンは国王処刑後半年して、王妃に的を絞った。
国王の時には、天罰が下るのではと恐れた人々も、王妃に対して遠慮はない。
フランス人ではないし、反革命の人間であるのは明白であるし、何より豪華なベルサイユ宮殿で夜な夜な踊り明かし贅沢三昧して赤字を作った女と、民衆が認識している。
すぐにも死刑判決が出せると踏んでいたのだ。
だが、王妃はすべての罪状を否認した。
彼女にとって受け入れがたい物であったのだから、当然の反撃だった。
マリー・アントワネットは誇り高い女性である。
犯した罪から逃れるつもりはない。
だが、犯してもいない罪を認めるつもりも毛頭ない。
裁判は難航した。
エベールが世にも卑劣な手段を思いついたのは、そういうときだった。
フランソワは、ディアンヌにルイ・シャルルを任せ、一人でエベールの待つ助役室に赴いた。
そして一枚の紙を渡され、その一番下にルイ・シャルルにサインをさせるように言われた。
それは、マリー・アントワネットが息子ルイ・シャルルに非人道的行為を行ったというものだった。
フランソワは思わず書類を落とした。
こんなものに手を触れてはいけない、自分も汚れる。
瞬時にそう思ったのだ。
そんなフランソワに冷たい一瞥をくれたあと、エベールは自分で書類を拾い上げた。
そして言い放った。
「断る権利は、おまえにはない。今すぐとって返して、今日中にサインをさせろ。意味などわからなくていい。それであのガキは助かるんだ。いいな、夕方には持ってこい。」
どうやってタンプル塔に帰り着いたのか、覚えていない。
ディアンヌの顔を見るなり、フランソワはあふれる涙を止められなくなった。
驚くディアンヌに書類を渡し、切れ切れの声で、シャルルのサインがいると伝えた。
ディアンヌは、すばやく内容を読み取った。
「こ、これ…は…!」
ディアンヌはその場に立ち尽くした。
オスカルからの指示を仰ぐ時間はなかった。
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