カペー未亡人。
それが、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンとして生まれ、フランスに嫁いでのち、マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュとなった、亡きフランス国王ルイ16世妃の最後の名前だった。
そのため、ロザリーは、どうかマダムと呼ぶことをお許し下さい、と王妃の顔を見るなり告げねばならなかった。
思わぬ知り人の登場に驚いた王妃は、非礼を責めるどころか、のちのちロザリーに罪が及ばぬのであれば、なんと呼ばれようと一向にかまわない、と微笑んだ。
「でも、どうしてあなたがここへ?」
やがて周囲から人の姿が消え、二人きりになると、王妃は小さな声で尋ねた。
「夫に、あの…夫は革命委員なものですから…。その夫に頼んで…。それも、実はオスカルさまが夫に頼んだのですが…。」
切れ切れの言葉からオスカルという名前が出て、王妃は大きく目を見開いた。
「オスカルが?」
「はい…。王妃さまのお世話をするようにと、わたくしにお命じになったのでございます。」
「オスカルは、今、どこに?身体の具合が悪くなってベルサイユを出たと聞いておりましたが。」
ロザリーは、オスカルが一度はノルマンディーの親戚宅に身を寄せたものの、この時勢に再びパリに出てきたことを告げた。
そして、オスカルを動かしたのが、ブリエ男爵であることも、さりげなく付け加えた。
王妃は、ブリエ男爵の名前に、さらに大きく目を見開いた。
亡き兄の遺児である。
一度サン・クルー宮殿に訪ねてきた。
仲介したのはフェルゼンだったはず。
では、そのフェルゼンの背後にオスカルがいたのか。
「ノルマンディーで偶然ブリエ男爵にお会いになったオスカルさまは、男爵の家庭教師をなさっていたのです」
ブリエ男爵…ルイ・ジョゼフに生き写しだった少年。
マリー・テレーズが気に入って、ずっと手紙をやり取りしていた。
男爵からの手紙が来ると、数日娘の機嫌が良くて、幽閉暮らしに花を添えてくれた。
「男爵は、なんとか皆様をお助けしたい、お力になりたいとおっしゃって、病身をおしてこちらに出てこられました。もちろんお一人では危ないのでオスカルさまが同行されました」
もともとオスカルはブリエ男爵のことはジャルジェ一族以外のものには極秘にしていた。
だが、このたびロザリーに王妃の介助係を依頼するにあたって、男爵の素性も生い立ちも、そして現在の王家に対する彼の思いもすべて包み隠さず話した。
もとより口外無用と断れば、ロザリーはおそらく夫にすら真実を告げることはあるまい。
オスカルはロザリーをそういう点で絶対的に信頼していたし、そういう信頼を寄せられていると知った時点で、ロザリーは神への誓約と同等の堅い誓いをオスカルにたてたのだ。
「そうでしたか…。ブリエ男爵がわたくしたちを…」
「はい。今、ルイ・シャルルさまのお世話に上がっているのも、オスカルさまのお声掛かりのものたちです」
「ルイ・シャルルの?おお、ではあの子の様子をあなたはご存知なの?」
ロザリーはコクリとうなずいた。
優しいフランソワとディアンヌが心をこめてお世話している。
だから、ルイ・シャルルもとてもなついて、楽しい日を送っている。
お寂しくないように、誠心誠意お仕えしている。
けれど、決して周囲には悟られないように。
「ラ・マルセイエーズを歌っているのをお聞きになったことがございましょう?あれは、お元気なお声をお聞かせするため、あえてあの曲を選んだのだそうです。それなら、監視のものも咎めませんから…」
王妃の瞳にたちまち大粒の涙があふれた。
「神様!ありがとうございます」
跪いて十字を切った。
ロザリーも涙ぐんだ。
「とても信頼できる人たちです。王子さまのおそばにいる二人は…。どうかご安心ください」
「ありがとう。ありがとう、ロザリーさん。よく教えてくれました。それを聞くだけで、どんなにか救われました」
息子が革命派に取り込まれていくようで、歌声を聞くのが正直つらいときがあった。
それでも、声を聞けて嬉しかったのも事実だ。
そういう事情だったとは…。
それからの数日、王妃はただロザリーからの話を聞くことに終始した。
ロザリーは知っている限りのことを王妃に伝えた。
ルイ・シャルルのこと、そしてブリエ男爵のこと。
またオスカルのことも問われるままに話した。
王妃は、オスカルが母になったことを知ると、ポツリとつぶやいた。
「やっと女の心がわかったかしら…?」
それからクスクスと笑った。
怪訝そうなロザリーに気づくと、すぐに笑いを納めたが、ときどき、ふとしたときにクスリと笑う王妃の姿が見られた。
昔、ずっと昔、フェルゼンとの恋を諫めたオスカルをなじったことがあった。
女心をわかってくれないと責めたことがあった。
今、ようやくオスカルは妻となり母となって、ともに語ることができるであろうに…。
だが、きっと彼女のことだから、何の話かという顔をするのだろう。
口調はきついけれど、いつも自分のために諫言してくれていた。
彼女の言うことを、ちゃんと聞いていたら、今頃は、まだベルサイユにいられただろうか。
それとも運命の歯車は、アントワネットの少しぐらいの反省などためらいもなく押し流したのだろうか。
人は誰でも罪深いもの。
だからこそ、最後の審判が恐ろしい。
自分もまた数え切れない間違いを犯してきた。
神が定めた夫ではない人を愛した。
それでいて、兄が愛した女を追放した。
今、ブリエ男爵が自分たちを救おうと動いている話を聞けば、彼の母アンリエットが、どんなに心優しい人間であったか、痛いほどわかる。
二人の妃を相次いで亡くした兄が、異国で心を寄せた理由もわかる。
たくさんの罪を犯してきた。
今、神によって裁かれるというなら、甘んじて受けねばなるまい。
だが、現実の裁判で問われている罪は、どれ一つとして認める気はない。
革命を潰そうとしてフランスを裏切ったとか、息子にあらぬ行為をしたとか、そんなことは、絶対に認めない。
自分は神聖ローマ帝国の皇女であり、フランスの王妃である。
神から与えられた王権を行使してきたことの、何をもって罪とされねばならないのか。
アントワネットは断じてカペー未亡人などではなかった。
最後まで、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンであり、マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリッシュであらねばならなかった。
優しい顔と、峻厳な顔の両面を違和感なく持ちながらアントワネットは、最後の日々をロザリーとともに過ごした。
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