王妃刑死の知らせに悲しむオスカルを慰めるすべもなく、ただその傍らにともに跪いて祈りながら、アンドレが思いやっていたのはフェルゼン伯爵だった。
どこでこの知らせを聞いたか。
いつこの悲報に接したか。
そのとき彼の精神は正常を保てたのか。
無理だ。
狂気にとらわれない限り、生きることはできまい。
どのような王妃刑死の理由を聞かされようと、絶対に納得などしない。
王妃を死に追いやった者たちを心の底から憎み、生ある限り呪い続けるはずだ。

一人の女性がこの世を去り、一人の男の精神がこの世から消えた。
アンドレにはそれがわが事のようにわかってしまう。
何度か訪れたオスカルの生命の危機のたびに、自分がどんな思いをしてきたか。
オスカルに危害を加えた者に、どれほどの憎悪を抱いたか。
彼女がいてこその人生だ。
ましてフェルゼン伯爵は、現実的に側にいることがかなわないまま、それでもただ王妃のためだけに働き続けてきた。
だから、彼の世界は終わった。
王妃の死によって。
今、この世にいるのは、もう今までの彼ではない。
別人だ。
別人でなければ、息をすることもできないだろう。

では、どんな別人になったのか。
アンドレはそれを想像することが恐ろしかった。
清廉潔白で高潔な精神の持ち主だった彼は、この出来事によってどんな人間に変わってしまうのだろう。
正反対の人格を身にまとってしまうのではないか。
かつてのハンス・アクセル・フォン・フェルゼンを完全に捨ててしまって、恐ろしいほど冷酷で冷淡で峻厳な鎧を着けた彼を想像する。
想像もできないが、あえて試みる。
生きる光を失った双眸と、血色を感じさせない青白い肌。
皮肉な笑みしか浮かべない口元。
そして、紡ぎ出されるであろう残酷な言葉。

それを思ったとき、静かに隣室との扉が開き、ルイ・ジョゼフがアンドレを手招きした。
オスカルはずっと跪いていて気づかない。
アンドレはその背に手のひらを置いて少し座をはずすことをささやき、オスカルがわずかにうにずくのを確認してから、隣室へ移動した。
そこは小さな部屋だった。
オスカルとアンドレが使っている部屋の続き部屋のようになっているが、おそらく元は収納用として設計され、そのように使っていたと思われる。
ノルマンディーからやってきた三人を受け入れるに当たって、ラソンヌ医師の指示でソワソン夫人とディアンヌが急ごしらえで寝起きできるように整えてくれたのだろう。
一応この部屋からも廊下には出られるよう扉があるので、今、アンドレが使った部屋同士をつなぐ扉は、普段は使っていない。
だが、この悲嘆のときにあって、あえてルイ・ジョゼフはここを開けてアンドレを呼んだのだ。
何か大切なことを伝えたいに違いない。
アンドレは静かに、しかし素早く、ルイ・ジョゼフが示した椅子に座った。
すぐ脇には椅子と同じ文様を刻んだ書き物机がある。
そしてその上にはあふれるほどの書類が置かれていた。

ルイ・ジョゼフは寝台に腰掛けた。
狭い部屋では、アンドレが椅子に座れば、ルイ・ジョゼフの座れる場所はそれしかない。
アンドレは長い足をゆっくりと組み、それから少年に視線を当てた。
少年の顔色はずいぶん悪い。
パリの空気が合わないのだろう。
そこにもってきて、悲惨な出来事ばかりが続いている。
「このたびのことで、王子さまと王女さまのお立場はどうなると思いますか?」
声変わりの真っ最中の枯れた声で若い男爵は聞いてきた。
アンドレはただ首を振るしかない。
わかりようがないのだ。
今、この国の意志決定が誰によって行われているのか知らないが、おそらくその中枢にあるものでも判然としないはずだ。
新しい権力者が決まらないのだから仕方がない。
革命勢力は外敵と戦いながら、内紛ばかりを繰り返している。

だが、質問しておきながらも、ただ話の端緒にしたかっただけらしく、ルイ・ジョゼフはアンドレの返答がないことについて気に留める風もなく、言葉を続けた。

「急がねばなりません。次ぎに危ないのは王子です。英国ならともかく、このフランスでは、王女が即位することはなかった。だから独り身でおられる限り、王女がお命まで取られることはない。だが王子は…」

すでに亡命貴族によってルイ17世と呼ばれている10歳にも満たない王子は、表だって死刑を宣告されることはなくとも、暗殺される可能性は十分にあった。
牢獄で監禁されているのだ。
劣悪な環境のもとで次第に衰弱し死に至った、という流れを意図的に創作することは、監禁している側からすれば、いともたやすい。
王子を守るために世話をしているフランソワとディアンヌは、熱心すぎるという理由でいつ役目を解かれてもおかしくない。
革命勢力側の内部事情で、事態はどう動くか想像もつかないが、好ましい方向に変わると思うには状況が悪すぎる。
かねて計画してきたことをすぐにでも実行にうつしたい。

熱っぽく語るルイ・ジョゼフの瞳に揺るぎない決意が見て取れた。
その面差しはもはや大人の男のものだ。
まだ15歳だというのに。
アンドレは、それがあまりに切ない。
少年が背負っている運命と、置かれた状況。
その過酷さに胸がふさがる。
「わたしへの同情は結構です。そんなものに費やすべき時間も情愛も一切不要。」
淡々とした口調で言い切る。
アンドレは突然、現実に引き戻された。
深い悲しみから、一転し、過酷な現状と立ち向かう意思が青白く病弱な少年からこうもはっきりと提示されて、アンドレは思わず知らず背筋を伸ばし、組んでいた足を元に戻した。

「計画はこれです。さんざん考えました。だが、万一にも不備があってはならない。だから厳しく検証してください」

分厚い書類がアンドレの手に渡された。
「亡き国王と王妃のためにも、絶対に成功させねば…」
ルイ・ジョゼフは、窓辺に立ち、すっと高く視線をあげた。
まばゆい光が差し込んでくる。
あの空に、国王夫妻は召された。
あの天に…。
だが、王子と王女があそこに行くのはまだまだずっと先のことだ。

「わたしはフェルゼン伯爵のようにはならない。血塗られた最後ではなく、光に包まれた生涯を、あの人に送ります」

ルイ・ジョゼフの言葉がアンドレの胸の奥深くに入り込み、そして大切にしまい込まれた。






















HOME   MENU   NEXT   BACK   BBS





















そら

−9−
光の天へ…