奔   流

穏やかな暮らしというものが、どれほどありがたいものであるかを、オスカルに思い知らせるかのような手紙が届いた。
国王一家のヴァレンヌ逃亡事件である。
第一報はバルトリ家からであった。
泰然自若とした侯爵としては珍しく蒼白の顔色のまま自らやってきて、ベルサイユからの手紙を見せてくれた。
事件は6月20日、すでに一週間が経っている。
何か言おうとして、けれども何も言葉を発せず、オスカルは自室に引き上げた。
侯爵はあえてオスカルには声をかけず、アンドレと長い間話し込んでから、帰って行った。

続いて、ジョゼフィーヌからの便りが直接どんぐり屋敷に届いた。
「この世の終わりです。」
ジョゼフィーヌは、そう締めくくっていた。
国王に忠誠を尽くし、ベルサイユに踏みとどまっていた貴族たちが、亡命準備を始めているが、監視の目が厳しくなり、国外へは、もはや脱出不可能である。
領地があるものはなんとかそこまででも引き上げたいが、革命の影響で、すでに領主が領主でなくなっている場合もあり、身動きとれなくなっている。
さっさと王を見捨てて亡命したものが、結局賢明だったわけで、こんな理不尽が許されるのだろうか。
ジョゼフィーヌの深い嘆きがオスカルの胸を打った。

数日引きこもるのだろうかと案じたアンドレの予想に反して、オスカルは夕餉の席にはきちんと出てきて、子供たちとともに、夜の団らんの時をいつも通りに過ごした。
片言で食べ物の名前を言いつのるノエルと、行儀良く順番に食していくミカエルに、穏やかなほほえみさえ投げかけていた。
以前のオスカルなら、こんな風ではなかった。
まず間違いなく食事などとらなかったはずである。
しかし、もちろんオスカルが何も考えていなかったわけではない。
子供たちが眠った後、オスカルはアンドレに向かってゆっくりと話し始めた。

「わたしの任務は、未来の王妃を命がけで守ることだった。」
アンドレは遠い眼をオスカルに向けた。
20年前に父から与えられた任務だ。
身命を賭して…、という言葉を一途に守り、励んだ。
近衛隊を辞めるその日まで…。
「王妃を守ることが、フランスを守ることだと思っていたのだ。そしてそれが国民を守ることだと。だが、そうではないかもしれないと気づいた。ベルナールに言われたのだ。」
王宮の飾り人形。
王妃の犬。
投げつけられた言葉の厳しさを、真面目なオスカルは真摯に、まっすぐに受け止めた。
そして衛兵隊に移った。
国民を守る任務を遂行するためだった。
だから、国民の代表に銃を向けろと言われた時は、断固拒否した。
それは任務ではない。
妊娠という想定外の事態勃発により、やむなく退役してのちも、その精神はアランによって忠実に継承され、結果、バスティーユの陥落を見たのである。

「王とは何のために存在するのか。」
根源的な問いかけであった。
アンドレに聞いているのではない。
アンドレの返事を求めているのではない。
自身に聞いているのだ。
アンドレが窓辺に歩み寄った。
開け放たれた窓から、夜風が吹き込み、黒髪を揺らす。
「月が出ている。」
アンドレは歌うように言った。
白い大きな月だ。
この月が自ら輝いているのではないなどと、どうして信じられるだろう。
夜の闇に隠れて見えない太陽が、月を照らしているからこそ、月の光が地上に届くという。
「王とは、月だったのだな。」
自らの力ではなく、国民によって栄光を与えられていたのだ。
その栄光を国王と王妃は振り捨ててしまった。

「なぜ…。」

何度問うても答えがわからない。
わからないけれども、問わずにはいられない。
オスカルは再び黙り込んだ。

「お子様たちのため…ではないか。」
アンドレがポツリと言ってオスカルを振り返った。
「え…?」
「このままフランスにいても、お子様たちにとって良い方向に行くとは思われなかったのではないか?」
ルイ・ジョゼフ死去により、ルイ・シャルルが王太子になってはいる。
けれども、彼が治める日が果たして来るのか。
汚れなき瞳を持った二人の王子と王女の安泰のためだったとしたら…。

アンドレは、実は、そんなはずはないと思っている。
国王の亡命という大事が、子どものためなどという小さな理由であるわけはない。
フランスを脱出して、他国の協力のもと、再度強固な王権を確保するつもりだったに違いない。
けれども、今、オスカルの懊悩を少しでも救えるとしたら、アンドレは何度でも、虚偽の答えを並べてやりたかった。
先ほどの夕食で見せたオスカルの母性。
子どものためなら、理不尽なこともしでかしてしまうのは、親の常である。
国王夫妻は、我が子を守りたかっただけなのだ。

「それならば、ご譲位なさればよかったのだ。あんなにも王になりたいオルレアン公爵に…。」
アンドレは虚を突かれた。
その場しのぎのこじつけは、オスカルによっていとも現実的な反論に打ち負かされた。
そのとおりだ。
譲位して、国外に行く方法があったはずだ。
仮病でもなんでもいい。
王としての義務を果たせなくなったから、退位すると、ついてはオルレアン公爵に王位を譲ると宣言すればよかったのだ。
これでブルボン家は続き、王政は続き、自分たちも安全な場所に移れる。
無論、子どもも無事である。
そうしなかったのは、王位を捨てる気が毛頭なかったからだ。
国や国民は捨てられても、王位は手放さない。
そういう本音を、オスカルは見事に見抜く。
「国民は、きっと見破るぞ。王がフランスの敵だったということを…。」

一番恐れていたことだった。
決してその道だけは歩んではならないと危惧していたことだった。
だが、賽は投げられた。
ルビコン河をわたったカエサルには栄光が待っていた。
が、ヴァレンヌに向かった国王一家を待ち受けるものは…。

「随分長く侯爵と話し込んでいたようだが、何か言っておられたか?」
オスカルが、ほんの少し、話題を変えた。
「ああ、いくつか…な。」
「どんな?」
「ジャルジェの皆さまをノルマンディーに呼び寄せたいと…。」
「!」
「それから、ルイ・ジョゼフが、部屋から出て来ないと…。」
「!!」
「難問は山積みだ。オスカル、俺たちはのんびりと葛藤している暇はない。とりあえず、明日はバルトリ家に行って、ルイ・ジョゼフに会おう。」
結局、オスカルを混迷から引き上げるのは、思いつきの嘘ではなく、現実的な対処法なのだ。
まず動け!
アンドレは、オスカルの肩をポンとたたいた。







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