ゲルマン民族の大移動。
かつて4世紀から5世紀にかけて行われたこの移動が、世界史に与えた影響は一言では語れないほど大規模なものであった。
同様にその原因も様々であり、これという定説はたたず、複合的に見るのが妥当というところで落ち着いている。
だが、この度のジャルジェ一族の大移動については、その影響はともかく、原因は明確で、かつ単純である。
バルトリ侯爵は1791年の春から、アンドレとともに計画を進めていた。
妻の実家の一族を、とりあえずノルマンディーに迎え、そこからイングランドに渡らせる。
イングランド南部に三件の邸宅を確保しており、フランスの情勢が落ち着くまでは、そろってそこに落ち着く。
領地や財産については、バルトリ侯爵が管理できる物は管理し、新政権によって接収される物については、潔くあきらめる。
もし、アラスが落ち着いているようなら、将軍夫妻のみは、折を見てイングランドからアラスにうつる。
そういう計画だった。
それを、このたびついに実行に移したのは、侯爵の英断である。
6月20日の国王一家ヴァレンヌ逃亡事件によって、侯爵は、妻の一族がベルサイユに留まる理由がもはや完全になくなったと判断したのである。
国王すら見捨てようとした都に、危険をおかして居住するのはあまりに馬鹿げている。
実際、国王の亡命が成功していたならば、残された貴族たちの運命は言葉にできぬほど悲惨なものだったに違いない。
民衆の憎悪は、逃げた国王の身代わりとして、より国王に近かった人間、すなわち貴族たちに向けられたに違いないからだ。
そのことに気づくことすらせず、ごく一部の人間だけで、亡命を計画し実行してしまった王家に対し、それでも忠誠を誓うことは、もはや正義ではなく、むしろ愚挙である。
プチ・トリアノンにこもることで失われ始めた王家に対する貴族からの信頼は、ヴァレンヌへの脱出で、完全に消失した。
侯爵は、かたくなに王家への信義を貫く義父ジャルジェ将軍に対し、手紙を書き続け、ついには自らベルサイユに乗り込み、承諾を勝ち取った。
10月に入って、アンドレから、いよいよこの大移動計画が実行に移されると告げられた時、オスカルは天を仰いだ。
両親、マリー・アンヌ一家、ジョゼフィーヌ一家が三つどもえで来るのだ。
はるばるベルサイユからこのノルマンディーへ。
混沌の都から、平穏な地方へ。
混乱を背負って、台風の目が束になって襲ってくるわけだ。
どんぐり屋敷中の扉と窓に板を打ち付けたい。
アリ一匹入れないほどに。
オスカルは本気でそう思った。
「侯爵の計画は万全だ。道中の心配はないと思うぞ。」
思い詰めた様子のオスカルにアンドレは、優しく言葉をかけた。
だがオスカルは大きく首を振った。
「アンドレ。わたしの心配はそこではない。父上たちは無事に決まっている。なんといってもバルトリ侯爵がたてた計画だからな。」
「では、何をそんなに気に懸けてるのだ?」
「おまえは、平気なのか?」
「だから、何が?」
「こちらのことだ。」
「?」
「父上に母上、さらにマリー・アンヌ姉にジョゼフィーヌ姉だぞ。それらがいっぺんに来るのだ。何事もなく済むと思うのか?」
このご時世に長距離を移動してくる家族の道中よりも、受け入れる自分たちのほうが心配とは…。
だがオスカルはあくまで真剣である。
そして、アンドレもこのオスカルの言葉を一笑に付すほど純粋ではない。
むしろ、そこに気づかなかった己の不明を恥じた。
なんとか安全に皆さまをお迎えしたい。
その一念だけで、侯爵の仕事を手伝ってきた。
お迎えした後のことまで気が回っていなかった。
「バルトリ家にしばらく滞在すると言っていたな?」
オスカルが机の上の計画書を手に取る。
「そうだ。それから船を整えて、天候を見て出航の日取りを決定する。」
「滞在期間は未確定ということだ。」
「ああ。」
「ノルマンディーには、当たり前だが、クロティルド姉がいる。そしてすぐ隣にオルタンス姉がおり、今はカトリーヌ姉が身を寄せている。」
そうだった。
ノルマンディーの隣、ブルターニュにはオルタンス一家が住んでいて、カトリーヌ一家が一足先に移っていた。
ようやくアンドレにも、オスカルの不安の原因が見えてきた。
「つまり…、つまり、全員集合だ!」
オスカルの声が心なしか震えている。
怒りのためか、恐れのためか。
おそらく両方だ・
アンドレは言葉を失った。
「やっとおまえにも、道中の危険など、取るに足りないことがわかったか?あの姉上たちはな、ベルサイユの三人だけでも大概大変だったのだ。それが全員そろってみろ。しかも父上と母上が加わるのだぞ。」
「たぶん、ル・ルーも入るな…。」
「ああ。ジャルジェ一族大集合だ。」
「うかつだった。」
「まったくだ。おまえも侯爵も、人が良すぎるのだ。ああ、責めているのではないぞ。この状況で、なんとか皆を無事に、という好意の発露だからな。わたしもそれについては本当に感謝しているのだ。」
めずらしくオスカルがアンドレのフォローに入っている。
要するに、そうしなければならないほど、アンドレのショックが大きかったというこどだ。
まったくだ。
人が良すぎたのだ。
侯爵も自分も。
あの一族が全員でやってきて、何事もなく終わるはずはない。
とすると、その影響をもろに被るのは、誰あろう、侯爵と自分である。
オスカルもクロティルドも、最終的には血縁者だ。
つまりは同じ穴のむじなだ。
だが、侯爵と自分は…。
もともと妻に頭が上がらないところに持ってきて、その妻の一族全部引き受けるなど、無謀以外の何物でもない。
ああ…、我が身のあさはかさが情けない。
アンドレの胃がキリキリと痛み始めた。
「バルトリ邸でおとなしくしていてくれればいいが。」
アンドレは、絶望の淵から這い上がるようにかすかなのぞみを口にした。
「ミカエルとノエルがいる以上、全員がここに来ることは確実だろうな。」
天国から垂れ下がっていた一筋の蜘蛛の糸も、オスカルの一言でプツリと切れた。
「もう、カオスだな。」
オスカルが念を押した。
アンドレは聞こえないほど小さな声でつぶやいだ。
「いや、ハルマゲドンだ。」
〈注釈〉
カオス…ギリシャ人の考えた、宇宙発生以前のすべてが混沌(こんとん)としている状態。混沌。無秩序。〜大辞泉〜
ハルマゲドン… 《新約聖書「ヨハネ黙示録」16章から》世界の最後の日に起こる善悪諸勢力の終局の決戦場。転じて、世界の終わり。〜大辞泉〜
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