異 邦 人
「ナポリではフランス行きのお許しが出たのですか?」
そんなはずはないと思いながら、しかしアンドレは聞かずにはいられなかった。
「出るわけがない。わかりきったことではないか。」
オスカルが少し声を荒げた。
革命の火が燃えさかるフランスに、新たな火種になりかねない少年を行かせるはずがない。
聡明と名高いナポリ王妃である。
兄皇帝亡きオーストリアにも、妹王妃が軟禁状態にあるフランスにも、決して足を踏み入れさせたりはしない。
きっと手元に置いて、誰にも利用されることのないよう、徹底的に監視するに違いない。
それは自明の理だった。
しかし少年は、フランスの、このノルマンディーの、バルトリ邸にいるという。
穏やかな風貌をしていながら、実は船乗り貴族と言われる侯爵のことだ。
手荒い方法を使ったのかも知れない。
「強硬手段ですか?」
アンドレが腕組みをした。
「まあ、そんなところだ。これでわたしはナポリに行けなくなってしまったがね…。」
お手上げという風に両の手を頭の上に上げながら、だが侯爵には一向に後悔している様子はない。
当分ナポリとの表だった交易は不可能になるが、きっと仲介者を何人も介することでうまく切り抜けるのだろう。
「確信犯ということ…か。」
オスカルもアンドレの隣で同じように腕組みをした。
「これだけはわかってもらいたいのだが…、はじめから強行突破を試みたわけではない。まずは合法的に、紳士的に、渡仏願いを提出したのだ。」
侯は、事の次第を語り始めた。
もともとオーストリアへの旅行願いを出すつもりだった。
そのために準備していた。
しかし皇帝崩御の報せを受け、行き先を急遽フランスに変更することにした。
少年のたっての願いだったからだ。
だが、許可は出なかった。
そこで少年は、バルトリ侯に付き添われ、直訴に及んだ。
社交界デビューも済ましていない12歳の彼にとって、初めての宮廷だった。
「絶対にいけません。」
王妃は問答無用に切って捨てた。
あまり公にできない少年との会話のため、選ばれたわずかな側近が控えるほかは、少年と侯爵だけが、王妃の部屋にいた。
「オーストリアでは、前皇帝の弟にして我が兄レオポルドが即位しました。宮廷は急速に新皇帝の色に染まってきているといいます。厳しい言い方ですが、あなたの出る幕はありません。嗣子の無かった亡き皇帝と違い、今のウイーンは子供であふれかえっています。誰もあなたに関心を持ってはくれますまい。」
その通りだった。
新皇帝と皇后の間には16人の子供が生まれている。
おまけに愛人との間にも…。
ウイーンの宮廷は、まさに子供だらけなのだ。
アントワネットが信じてやまない「貞節なハプスブルグ家」という定理は、すでに完全に崩壊していた。
そのような所に行くよりも、このナポリにいるほうが、よほど恵まれた暮らしができるというものだ。
母亡き後、ひとりで生きていくのは寂しいものと察するが、その事実はどこへ行っても変わらない。
血のつながった叔母である王妃が実権を握るこのナポリで、その庇護のもとに生きるのが、唯一の、そして最良の選択肢ではないか。
王妃の説諭はまったくもっともで、反論のしようがなかった。
「こちらのことを思いやって言って下さっているだけに、表だって異論を唱えることはできなかった。けれど、彼の決意はとても固かったのだ。ナポリにいれば平穏だけれど、それでは生きている意味がない、と。」
侯爵は小さくため息をついた。
オスカルは魂が揺さぶられるような感覚にとらわれた。
わずか12歳の少年が、生きる意味を訴えて、安穏とした生活からの脱出をはかろうとしている。
王妃の好意は有り難いが、その保証された生活は、悪く言えば飼い殺し状態なのだ。
決して表立たず、身を潜め、ただ漫然と生き、そして密やかに死に、誰の記憶にも残らない。
残ってはならない。
そんな人生があるだろうか。
そんな人生を生きろと、少年に言えるだろうか。
侯爵の瞳がそう訴えていた。
「わたしは身体が弱い。おそらく、寿命は短く、子孫を残すこともないだろう。であるならば、短いなりに思いのままに生きてみたいのだ。もはや自分を止められるべきこの世でただ一人の母上もおられない。とすれば、今こそ、わたしは自由にどこにでも行けるのではないか?」
少年は、そう語ったという。
「なるほど…。彼の立場からすれば、もっともな主張ですね。母上がご存命の間は随分がまんしていたのだろう。」
オスカルがつぶやいた。
「がまんというか、母上の希望の通りにするのが、彼の希望だった。彼は母上のために生きていた。けれどその方がなくなり、彼はなんのために生きるのかを真剣に考えたのだと思う。」
侯はそう言いながらとても優しい目をしてオスカルを見た。
「それで、君の出番なのだ。」
「?」
オスカルは首をかしげた。
薄幸な少年の人生に、同情はするが、かといって自分が何かしてやることが可能なのか。
小さな地方領主に過ぎない自分には、もはや何の力もない。
「彼のすべてを知った上で、彼の師となってほしい。」
侯爵の黒い瞳が、オスカルの蒼い瞳にまっすぐ向けられた。
「わ、わたしがですか?」
「そうだ。これほどの適任はないと思う。広い知識と深い教養。そして卓越した精神力。このような片田舎で、このような家庭教師はまずいない。外国語も、歴史も、哲学も、、宗教学もきみなら何でもござれだろう?」
うーん、とうなったきり、オスカルは黙り込んだ。
アンドレもただただ驚いている。
王家の血を引く少年の家庭教師。
そんな役が、オスカルに回ってくるとは…。
アンドレが言葉もなく黙っていると、オスカルが口を開いた。
「お申し出はわかりました。だが、わたしの弟子とするからには、面接試験をさせていただかなければ、何とも返答のしようがありません。」
オスカルの言葉にアンドレはさらに驚いた。
「お受けするのか?」
「だから、それは会ってから決める、と今言っているではないか。」
「あ…、ああ。そう…だな。」
「もちろん、対面してからだ。よければ今からでも屋敷に来て欲しい。本当のところ、ずっと君に紹介したかったのだ。」
侯爵はすでに腰を浮かしている。
「では、おとも致しましょう。アンドレ、行くぞ。」
オスカルはさっと立ち上がると。手早く外出の用意を済ませた。
アンドレがあわてて、マロンやロザリーたちに連絡して外に出ると、すでに侯とオスカルは馬上の人となっていた。
急展開の事態にとまどっいるほうがおかしい、とでも言いたげな二人の態度である。
こんなに頭のいい人たちが、どうして考えるより先に身体を動かすのか、アンドレは不思議でならない。
後始末はいつもこちらにまわってくるのだ、と思いつつ、せかされるようにアンドレも急いで馬に乗った。
そして三騎はあっという間に門を出て行った。
マヴーフが、しばらく前に油をさして以後、格段に開閉が容易になった門扉をゆっくりと閉ざした。
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