異 邦 人
その少年は、寝台にいた。
慣れぬ船旅の疲れが出たのだという。
「連れてきましたよ。」
侯爵が寝台でからだを起こし、窓の外を眺めている少年に声をかけた。
少年が振り返った。
オスカルとアンドレは、思わず息をのんだ。
「ルイ・ジョゼフ殿下…!」
オスカルの声が震えている。
少年が一瞬驚いた顔をし、それからほほえんだ。
「確かにわたしはルイ・ジョゼフだが、殿下の称号はありません。」
オスカルとアンドレは再び息をのみ、バルトリ侯爵の顔を見た。
「そういえばお名前をまだ教えていなかった。オスカル、アンドレ。こちらはルイ・ジョゼフ・ド・ブリエ。母上の所領と爵位をついで、現在男爵だ。」
ルイ・ジョゼフ…。
名前だけではない。
顔も、姿も、亡き王太子殿下にそっくりだった。
ただし年齢はこちらの方が上だから、もし王太子が存命なら、きっとこんな風だっただろうと思われた。
オスカルが思わず殿下と呼んでしまったのも無理からぬものがあった。
「母上のブリエ男爵夫人が、ご自身の父君ルイ15世陛下と、そして男爵の父君ヨーゼフ2世陛下の双方からいただいて名付けられたのだ。」
祖父のルイ、そして父のヨーゼフをフランス語読みしてのジョゼフというわけか。
男爵夫人の痛切な思いがそこにも込められていた。
しかし、これはまたなんというめぐりあわせ…!
オスカルは、しばし言葉も出なかった。
「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ准将ですね?母からあなたのうわさはいつも聞いていました。お目にかかれて大変嬉しい。」
まだ声変わり前の、よく通る声で少年、いや、ブリエ男爵は挨拶した。
「母の言葉を、大げさだといつも笑っていましたが、今、その考えを訂正します。本当にギリシャ神話に出てきそうだ。」
黙っていると大人びて見えた男爵は、笑うととてもかわいらしく、わずか7歳で世を去った王太子の面影が一層強く表れた。
「ブリエ男爵…とお呼びしましょうか?」
「いえ、ものを教わるのですから、どうか、ルイ・ジョゼフと…。」
「では、ルイ・ジョゼフ…。」
少年が嬉しそうに口元をゆるめた。
「生まれ故郷を離れてまであなたはやってきた。この北の大地、ノルマンディーで、何を学びたいと思っていますか?」
最初の衝撃を押し隠して、オスカルが面接試験に入ったことをアンドレは理解した。
「わたしはご覧のように、船旅にも満足に耐え得ないほど身体が弱い。だから、せめて学問を身につけたい。ナポリでは、何もかも通り一遍の知識しか与えられなかった。母は元気でさえいてくれれば、勉強などしなくてよい、という人でしたから…。」
それはおそらくナポリ王妃の意向でもあったのだろう。
なまじの学問を身につけ、自分の頭でものを考えるようになると、かえって災いすることもある。
出自が出自だけに、無難な人生をまっとうさせるためには、何もかも“普通”が良い。
それでなくとも少年の容姿は、思わず人目を引きつけるほど高貴で美しい。
「なるほど。良き心がけです。」
取り澄ました顔をしようとしつつ、オスカルの表情に隠せぬ動揺があることが、アンドレには痛いほどわかった。
きっと今、オスカルの脳裏をよぎっているのは、英雄史をはじめからとばさず読んでいると言った王太子の面影に違いない。
「こちらがムッシュウ・グランディエですか?」
突然、澄んだ瞳に見つめられて、アンドレはビクリと肩をふるわせた。
「そうです。アンドレ・グランディエ。オスカルの夫です。」
バルトリ侯が紹介した。
アンドレは丁寧に頭を下げた。
「あなたの奥方に家庭教師をお願いすることを、了解してくれますか?」
こちらもまた丁寧な口調だった。
「は…、はい。オスカルさえ承知ならば、わたくしに異存のあろうはずがありません。」
あえて、自分などの意向を尋ねてくれる男爵に、大人の心遣いを感じ、アンドレは感激した。
「では、ジャルジェ准将。あらためてお願いします。わたしに人としての、あるべき教育を授けて下さい。」
男爵は透き通るような薄い金髪の頭をちょこんとさげた。
「わたくしから、今更授けるべき人としてのありようなどないように思います。」
オスカルの言葉に男爵の顔色がさっと曇り、侯とアンドレも驚いてオスカルを見つめた。
「が、もし知識や、わたくしの得た見聞、あるいはまた教養などがありましたら、よろこんでお伝えいたしましょう。」
オスカルはきっぱりと言った。
「ありがとう。感謝します!」
少年の瞳がキラキラと輝いた。
気の早い侯爵が、すぐにクロティルドを呼び、話がまとまったことを告げた。
「まあまあ、よろしゅうございました。オスカル、よろしくお願いします。」
その口調から、小さな客人にクロティルドが深い同情を寄せていたことが伝わった。
高貴な血筋を引きながら、すでにこの歳で両親を亡くし、寄る辺なき身の上となった、素直で美しい少年である。
心優しきジャルジェ家の血を引く者ならば、到底無碍にできようはずもない。
アンドレにはそれが痛いほどわかった。
自分もまた、母亡き後、この優しさに包まれて育ったのだから…。
「当初はあなたたちのお屋敷に移っていただくことも考えたのですけれど、ちょっとお具合が芳しくないので、しばらくはオスカルがこちらに通ってくる形にいたしましょうね。それでよろしいですか?」
クロティルドの提案に全員がうなずいた。
どんぐり屋敷ははいはいする小さな天使たちで、とても落ち着いて勉強できる環境ではないし、また、急速な人口増であらたに客人を迎え入れる部屋もない。
週に二回ほどの頻度でオスカルがこちらに来るのが妥当だろうということになった。
初対面であるにもかかわらず、なぜかとても懐かしい気持ちになるのは、単に少年がアントワネットの血を受けているから、とか、亡き王太子にそっくりだからという理由だけではなさそうだ。
彼が、この年にしてすでに身につけている透徹したまなざしが、オスカルとアンドレを惹きつけてやまないのだ。
それはおそらくバルトリ侯爵をここまで親身にさせたものと同じはずだ。
自身が望むと望まざるとに関わらず、否応なく与えられた環境の中で、懸命に心の均衡を保とうと努力する。
その姿勢が、こんなにも共感を呼ぶのだ。
周囲にいる人たちの中で、自分だけが違うと感じる時期。
誰もがそいうい時を過ごす。
そうして大人になっていく。
だが、ことさらに他人と違う立場を強いられる人がいる。
まだ誰よりも若く、そしてまたただ一人の女として近衛隊に配属されたオスカルがそうだった。
平民でありながら、宮廷に出入りを許されたアンドレがそうだった。
地方出身の身で、有力貴族の縁戚となり近衛連隊長に抜擢されたバルトリ侯爵がそうだった。
そして、南国ナポリの地で、イタリア人に囲まれながら、オーストリアとフランスの王家の血を引いて生まれ育った少年もそうだったのだ。
異邦人。
この場に集まった人々の共通項は、この一点だったのかもしれない。
同じ感覚を持ったものとして、彼らは年齢と性別を超えて互いを認め合った。
−4−