※このお話は「セピア色の化石」の続きです。





1795年の夏が終わり、開け放した窓から吹き込む風に、少し秋の匂いが漂う。
屋敷の名の由来となったどんぐりの木に鈴なりの実がつき始めている。
緊張と不安の連続だったパリから、ようやく脱出したオスカルとアンドレは、第二の故郷、ノルマンディーのどんぐり屋敷で一家団欒を堪能するはずだった。
ルイ・シャルル王子を無事にナポリへ逃がし、その身代わりとなって獄中生活に耐え抜いたルイ・ジョゼフ・ド・ブリエはバルトリ侯爵邸で療養中である。
マリー・テレーズ王女がタンプル塔を出ることは7月末に決定しており、仕度が調い次第、王女は母の故郷ウィーンに向けて出発することになっていた。
胸が熱くなるほど平穏だった。
アンドレは子どもたちとの長い別居生活に終止符が打たれたことに深い感慨を禁じ得ず、これからの仲むつまじい暮らしに胸を躍らせていた。
たわわに実ったどんぐりが庭一面に落ち始めたら、子どもたちとのんびり拾い集めるのが、アンドレの積年の夢だったのだ。
それがようやく叶う。

書斎でたまりにたまった領地からの報告書に目を通していると、庭から大きな声が響いてきた。
「ばかもの!敵に背を向けてどうする?!」
オスカルの怒声だった。
懐かしい…、フランソワやミシェルはよくこんなふうに怒鳴られていたっけ…。
一瞬衛兵隊に立ち戻ったかのような錯覚にとらわれた。
「待て〜!逃げるとは卑怯だぞ!」
最初の怒声に比べると随分声は可愛らしいが、語調はうり二つの叫び声が聞こえてきた。
穏やかならざる言葉の数々…。
アンドレは、直ちに立ち上がり部屋を出て、庭に向かった。
一番大きいどんぐりの木の下まで来た時、ミカエルが飛びついてきた。
「助けて、父さま!」
驚いたアンドレがミカエルを抱きとめた。
小さな肩がハアハアと揺れている。
そこに足音が二つ、近づいてきた。
一つは駆け足、もう一つは大股の急ぎ足。
「ミカエル、まだ終わってない。もう一度勝負だ!」
右手に剣を持ったノエルが勇ましく構えた。
「いやだ、もういやだ」
ミカエルはアンドレの足にしがみついている。
その手にはノエルとおそろいの剣が握られていた。

つい先日、イングランドに亡命中のジャルジェ将軍から送られてきたものだ。
とても子どもが持つ代物ではなく、柄にはジャルジェ家の紋章が見事な細工で刻まれていた。
ジャルジェ家の嗣子は5歳になったら剣を持ち、日々の鍛錬に励むこと。
それが代々の伝統だそうだ。
オスカルとアンドレがパリに行っていたため、双子が実際に剣を手にしたのは、ほんの一月前だった。
アンドレは、伝統だかなんだか知らないが、いくら何でも危ないと大反対したのだが、例によってオスカルに却下された。
「わたしも5歳で父上から剣を渡された。決して早くはない。半年遅れているくらいだ。だいたいわたしの子どもだぞ。筋の悪かろうはずがない。幼い頃から仕込めば相当の使い手になるのは当然のことわりだ」
オスカルは、固い信念の下、日々子供たちの剣の稽古に励む日々を送っていた。

「卑怯だぞ、ミカエル。父さまに援軍を頼むなんて…!」
「そうだ、アンドレ、かばい立てはするな」
ノエルに遅れてやってきたオスカルが腰に手を当ててにやにやと笑っている。
「かばうつもりはないが…。少し休憩したらどうだ?汗だくじゃないか」
アンドレは胸元からハンケチを取り出し、ミカエルの額の汗をふいてやった。
「ほら、ノエルもおいで」
ノエルは渋々父の元に駆け寄った。
二人そろって父が汗をふいてくれるままじっとしている。
「よし、これでいい。次は水分補給だ。ミカエル、ノエル、今から厨房に行って、コリンヌに何か飲みものをもらってくるんだ。さあ、行って!」
アンドレは二人の背中をポンとたたいた。
双子は勢いよく駆けだした。
本当にどちらかが母親かわからない。
だが、これはこれで治まっている。
「ノエルはともかく、ミカエルはあまり剣が好きではないようだな」
「素質はある。二人ともいいものを持っている」
「大先生がそこまで言うならそうなんだろう。だができると好きとは違うからな。おまえも何か飲むか?」
「いや、いい。わたしはほとんど動いていない」
「そうか…」
言葉通り、オスカルは涼しい顔をしている。
実際、手ほどきをするだけで、相手をしているわけではないらしい。
アンドレが想像していたものとは随分違うが、これはこれである意味一家団欒なのかもしれない。

「あの二人を見ていると、つい昔を思い出す」
オスカルが風で乱れた金髪に手をやった。
アンドレはテラスにオスカルを誘い、テーブルを挟んで腰掛けた。
金髪の双子の天使たちは、確かにオスカルの幼い頃にそっくりだ。
オスカルに追いかけられた自分が、ミカエルにだぶりアンドレは苦笑した。
勝ち気で剣が好きで、常に相手を求めていたオスカルと、全然そんな気はないのに、無理矢理剣を渡され毎日相手をさせられたアンドレ。
確かによく似ている。
「一世代移ったんだな」
アンドレはしみじみと歳月の移ろいを感じた。
「ああ、まったくだ。わたしも二人に自分たちがだぶってしかたがない」
「おまえもそうか、オスカル」
「もちろんだ。くやしかった日々がよみがえる」
「え?おまえがくやしかったのか?」
意外な台詞だ。
こてんぱんにやられていたのは俺のほうだったのに、とアンドレは首を傾げた。
「決して負けてはいないが、なにせ年が違うからな。どうしても力負けした」
「いや、そんなことはないだろう」
5歳から剣を持ったオスカルは、8歳のアンドレと出会ったとき、すでにキャリア2年の使い手だった。
少々の年齢差や体力差など補ってあまりある経験があったはずだ。
「2年の差は大きい」
オスカルが力説する。
「そうだ、おまえのほうが2年先輩だった。だから断然おまえの方が強かった」
アンドレは強く同調した。

「なんの話だ?」
「え?」
「ジョゼ姉はわたしとちょうど2歳違い。5歳と7歳では話にならなかったぞ」
「ジョゼフィーヌさま?」
アンドレは意表をつかれた。
ここでジョゼフィーヌの名前が挙がることは想定していなかった。
突然話が見えなくなった。
「そうだ。姉上はとにかくわたしがすることなすこと、同じようにやりたがった。しかも自分のほうが何でもうまい、と思い知らせるようにしかけてくるのだ」
オスカルは忌々しそうに顔をしかめている。
ほんの少し、話が見えてきた。
「ひょっとして、ジョゼフィーヌさまも剣の稽古をなさったのか?」
「そうだ。わたしが5歳の誕生日に父上から剣を頂くと、自分もほしいと駄々をこねてな…。父上が渋々一振り渡されたのだ」
知らなかった。
5女のジョゼフィーヌと6女のオスカルが何かにつけて張り合っていたのはもちろん知っていたが、剣までそうだったのか。
「で、ミカエルとノエルが、おまえとジョゼフィーヌさまにだぶるのか?」
ちょっと雰囲気が違うようだが、オスカルにはそう感じられるのだろうか。
「手加減も何もなく、大上段に剣を振り下ろしてくるのだ。身長はあっちが大きいから、はじめは足がすくんだものだ」
アンドレは感心して聞いていた。
ジョゼフィーヌの対抗心はそこまでだったのか。
ジョゼフィーヌにやられるオスカルを想像するとなぜか微笑ましい。
「もちろん、すぐにわたしのほうがうまくなった。何しろ取り組みの心がけが違うのだから。あっちは妹憎さだが、こっちはジャルジェ家の名前を背負っているのだからな。いずれ近衛隊で指揮を執るためにも、絶対に腕を上げねばならない。遊びではないのだ。結局、姉は3カ月で剣を放り出した。負ける回数が増えて嫌になったのだろう。所詮その程度だったのだ」
いつもながらオスカルのジョゼフィーヌ評は辛辣である。
アンドレは返す言葉がなかった。

「だからな、ミカエルが今、ノエルにやられていても案ずることはないのだ。本気でやればすぐにうまくなる」
オスカルの結論はそれだった。
だが、やはりちょっと違うんじゃないか。
ノエルはジョゼフィーヌのように途中で投げ出したりはしないだろう。
彼女こそ、剣が好きでやっている。
「俺はてっきり、ノエルがおまえで、ミカエルが俺だと思ったよ」
何気なく口にしてオスカルを見ると、びっくり、という顔をしている。
つゆほども、そういう想定はなかったらしい。
そのほうがよほどびっくりだが。
「だって、そのほうが似ているだろう?ノエルがジョゼフィーヌさまというよりは…」
「失敬な!わたしはあんな風におまえをとっちめたりはしていない」
「え?そうだったっか…」
しまった、と思ったが、口が先に言葉をもらしてしまった。
「わたしは、初心者のおまえにそれは丁寧に教えたぞ」
アンドレは今度こそ声をもらさないよう、固く口を引き結んだ。
オスカルは真剣に言っている。
真実、優しく指導したと思っている。
疑う余地はないのだ。
アンドレが死ぬんじゃないかとすら思っていたことは、オスカルには通じていなかったのだ。

「おまえはジョゼ姉よりはずっといい相手だった。初めのうちこそ剣先が震えていたが、すぐに腕を上げた」
そうだったろうか?
そのあたり、アンドレには記憶がない。
記憶というものがいかにあいまいで、手前勝手なものかを思い知る。
「確かに、俺とおまえは、同時に剣を始めたミカエルたちとは、随分状況が違ったな」
とりあえず逆らわず同意しておく。
オスカルはわが意を得たりと大きくうなずいた。
「わたしと姉が同時に始めたのだ。そして力負けしていたわたしがすぐに逆転した。おまえが来たとき、姉上は剣など持ったこともない、という顔をしていただろう?」
「ああ、完全なる淑女でいらした。だが、ではノエルかジョゼフィーヌさまのようになるのか?ちょっと違和感があるが…」
「そんなことはわからん」
身も蓋もない返事だ。
「絶対になってほしくはないがな」
と付け加えるあたり、なってほしくないという強い希望はあるらしい。

「どっちかというと俺にはやはりノエルのほうがおまえに似ていると思うぞ」
「そうか?わたしはあそこまで強情ではなかった気がするが…」
今度こそアンドレは口に封をした。
自己分析というのがこんなにも困難なものだったとは…!
オスカルほどすぐれた軍人、優秀な指揮官にしてこれなのだ。
アンドレは、自分が描く自分像も、実はまったく的はずれなのかと空恐ろしくなった。
「だが、確かにミカエルは、わたしにというよりはおまえに似ているかもしれん」
どんぐり屋敷とバルトリ家においてすでに万人が認めていることではあったが、オスカルはやっと気づいたようだった。
「そう…か。そうかもな…」
アンドレはようやく共感できる会話になったことに真底安堵した。
「まあ、どのみち、わたしに似ているにしろお前に似ているにしろ、ミカエルは上達するということだ」
オスカルは満足そうに笑った。

厨房の扉が開く音がして、キャッキャッとはしゃぐ声が聞こえてきた。
「どうやら水分補給が終わったようだ」
「ああ、うん?何か持ってるぞ」
駆け寄ってくる双子の手にはそれぞれグラスが一つずつ。
「父さま、母さま、コリンヌが飲み物をくれたよ」
「新作だって」
ミカエルがオスカルに、ノエルがアンドレにグラスを手渡した。
不思議な色を湛えた液体が入っていた。
「これは…?」
「ジョゼフィーヌおばさまから送られた作り方の通りに作ったんだって!」
「好物だから作ってあげなさいって書いてあったんだって!」
オスカルとアンドレは手渡されたグラスを見つめた。
「あの特製ジュースだ」
アンドレが恐る恐る受け取った。
「ジョゼ姉の野郎〜!!」
子どもの前では決して使うべきではないオスカルの言葉を、だがアンドレもあえて制止しなかった。
キラキラした四つのつぶらな蒼い瞳が、両親が飲み終わるのを今か今かと待っていた。




※特製ジュースについては「自然の恵み」をご参照ください




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