「おじょうさまあ〜!」
小さい身体のどこからそんな声が、と驚くほど大きな声で、ばあやが、久しぶりに帰宅したオスカルを出迎えた。
「ただいま、ばあや。」
と答えつつ、尋常ならざるばあやの態度に、オスカルはアンドレを振り返った。
アンドレも目をぱちくりさせている。
確かに帰宅は久しぶりだ。
帰れないことがあまりに続いて、アンドレだけが着替えをとりに馬をとばしたこともあった。
それからはオルガが気を利かして、1日おきに馬方のジャンを兵舎によこし、洗い物と汚れ物を交換してくれていた。
そうなると、一層帰宅することは往復の時間の無駄、というか、何が起きて呼び出されるかわからない以上、司令官室に詰めておく方が賢明だとも思われて、完全に自邸によりつかない日々ではあった。
それにしても…。
このばあやの歓迎ぶりは、ちょっと度が過ぎている。
よく見ればしわくちゃの小さい目には涙すら浮かんでいる。
「いったいどうしたのだ?」
と、聞こうとした矢先、執事のラケルが飛んできた。
あのジャルジェ将軍に長年つかえたおかげで、精神力を限界まで鍛錬され、よほどのことがない限り感情を表にあらわさない男が、これもばあや同様泣き出しそうな顔でオスカルを出迎え、さらには傍らのアンドレの肩をバシバシたたいてきた。
「アンドレ、よく戻ってくれた。待ちかねていたのだよ。」
領地で何か問題でも起きたのだろうか。
自分が歓迎されるときのパターンをいくつか思い起こして、アンドレは一番可能性の高そうな事柄を冷静に推測した。
だんなさまもオスカルも多忙で留守がちのときに、家を守る執事が、奥さまではなく自分をあてにする場合…。
それは家庭内のことではなく、遠方の領地がらみのゴタゴタであると判断してほぼ間違いない。
「執事さん、どこから手紙が来たのですか?」
アンドレは、執事の手をそっとはらいのけながら尋ねた。
「手紙ではない。手紙ならお断りもできる。」
ラケルの返事は、会話になっているようで、実はアンドレにもオスカルにも完全に意味不明、理解不能なものだった。
「とりあえずこちらに…。」
ラケルがアンドレに払いのけられた手を再び腕にまわし、引っ張った。
「申し訳ありませんが、オスカルさまもご一緒ください。」
ラケルはアンドレの腕を持ったまま、オスカルに言った。
「わたしもか?」
オスカルはいぶかしげな顔をしながら、ラケルがアンドレを連行しよようとする先を見た。
「て゜、どこへ行けばいいのだ?」
「厨房でございます。」
オスカルはラケルら聞いたつもりだったが、質問に答えたのはばあやだった。
「厨房?」
オスカルとアンドレは二重唱で聞き返した。
「執事さん、わかりましたから、腕を放してください。そして、わかるように話してください。」
アンドレは引っ張られながら言った。
「そうだ、わかるように話せ。」
オスカルが同じ言葉を続けた。
執事が厨房の扉を開けた。
コックや侍女が一斉に振り返り、そろって歓喜の表情を浮かべた。
「オスカルさま!」
「アンドレ!」
「ああ、神よ、感謝します。」
なぜ自分たちの名前のあとに神への感謝が続くのか、二人は皆目わからない。
留守の間に何があったのだろう、
二人はあらためて執事を見た。
すると彼は黙ったまま、つかつかと厨房の中央にデンと置かれた大きな作業台に近づき、やおらガラス製の大きめのピッチャーを抱えた。
「オスカルさま、ジョゼフィーヌさまからの贈り物でございます。」
恭しく、差し出したピッチャーの中には、赤く濁った液体がなみなみと入っていた。
「ジョゼフィーヌ姉上からだと?」
「はい、さようでございます。」
ラケルは慇懃に返答した。
「6月にはいりましてから、ジョゼフィーヌさまから御使者が参りました。」
ラケルに変わってばあやが話し始めた。
「なんでもマリー・アンヌさまからのお達しで、アンドレをいたわってやることになった。ついては特製ジュースを毎日送り届ける故、きっと飲むように。なお、ついでなのでオスカルの分もつくってやることにしたから、ありがたくいただくように、とのことでございました。」
ラケルのいたって丁寧な説明が終わると、しばらく沈黙が続いた。
使用人が事情を説明したのだ。
次は主人が返答する番だ。
だが、オスカルは話された言葉はわかるのだが、意味がわからない。
しかも、何から順番に聞けば、わからないことが明らかになるのかさえもわからない。
とはいえ、このままでは沈黙が続くばかりだ。
オスカルは声を絞り出した。
「マリー・アンヌ姉上がなぜアンドレをいたわれとおっしゃったのだ?」
「わかりません。」
「では、なぜこの特製ジュースとやらをアンドレは、いや、わたしもか。そのわたしとアンドレが毎日飲まねばならないのだ?」
「わかりません。」
フーとオスカルはため息をついた。
「これは毎日届けられるのか?」
「はい、毎日午後2時きっかりに届きます。」
「わたしたちが戻らなかった間はどうしていたのだ?」
「初めて届けられましたとき、オスカルさまはお戻りにはなりませんでした。それで奥さまにお伺いをたてました。すると時節柄生ものを置いておくわけにはいかない。オスカルが6時までに帰ってこないときは、屋敷内の誰かが必ずかわって飲むように、と言われまして…。」
「なるほど。で、おまえたちが飲んでくれていた訳か。」
「さようでございます。」
ばあやの後ろで使用人たちがそろって大きくうなずいた。
ここまで聞けば、アンドレには察しがついた。
おそらくこの特製ジュースとやらは、恐ろしくまずいのだ。
皆々、押し付けあっているに違いない。
使用人の力関係で、弱いものから生け贄となっていったのだろう、
だが、いよいよ順番は執事とばあやにまわってきた。
できれば勘弁してほしい、と切実に願っていたところへオスカルとアンドレが帰宅した。
あの大歓迎の意味がようやく腑に落ちた。
「最初は、ご主人様への贈り物をかわっていただくのだから、ひとりではもったいないとの理由で、使用人の数だけコップを用意し、全員で少しずつではありますが、ありがたくいただこうということになったのでございます。」
奥ゆかしいジャルジェ家の家風の賜物である。
麗しい光景がオスカルとアンドレの目に浮かんだ。
上位のものが独り占めすることなどあり得なかった。
ジョゼフィーヌさまが直々にお作りになったものを頂戴できる光栄に、一同感謝して、乾杯すらして飲み干したのだった。
そして、ゴクリという大きな音のあとに、うめき声が響き渡った。
そのあとの光景は、語るも無惨な物だった。
「確か、ル・ルーが、以前言っていたな。」
オスカルがつぶやいた。
「ああ。」
アンドレがうなずいた。
「自然のままの味だと。自分にはおいしいけれど、アンリとシャルルは泣きながら飲んでいる、と。」
「そう言っていた。」
「あれがうちに来たのか。」
「そういうことらしい。」
「おまえをいたわるためだそうだぞ。」
オスカルは腕組みしながらアンドレを見た。
「おまえの分もあるそうだ。」
アンドレも腕組みしオスカルを見下ろした。
「…。とりあえず、姉上の本命はおまえだ。おまえが飲め。」
「…。」
再び沈黙が訪れた。
厨房にいる全員の目がアンドレに集まった。
アンドレは黙って、執事からピッチャーを受け取った。
オルガがコップを持ってきた。
アンドレは底から2、3センチほど注いだ。
そして目を閉じ一気に飲んだ。
「うっ!」
声にならない声が漏れ、急いでコップを置いたアンドレは両手で口元を押さえた。
「こ、これはまた…。」
アンドレがうめいた。
「アンドレ、大丈夫か?」
オスカルが駆け寄った。
「ん…。」
まだ声が出ないらしい。
オスカルはアンドレの背中をさすってやった。
息を殺して見ていた使用人達が一斉に動いた。
あるものは水をくみ、あるものはハンカチをさしだし、そして皆でアンドレとオスカルを取り囲んだ。
「すごいだろう。」
コックが言った。
「俺は、大概のものなら、口にすれば材料がわかるんだ。だがこれだけはわからない。何をたせば、もう少しマシになるかもわからない。」
「栄養はあるそうでございます。」
ばあやが言った。
「お身体の弱かったシャルルさまも、これで随分丈夫になった、とのことです。」
「そうだろうな。」
ようやくアンドレが言葉を発した。
「たぶん、身体によいと言われるものを全部入れられたのだろう。ジョゼフィーヌさまなら充分考えられる。」
アンドレはオスカルに向かって冷静に自身が口にした物を分析して聞かせた。
「苦いのと酸っぱいのが一番強烈だが、それに徹しているわけではなく、変な甘みもある。今までに飲んだことがない味だ。」
「ジョゼフィーヌ姉上そのものだな。」
オスカルは端的な解釈を述べた。
「まあ、そんなところだ。」
アンドレも同意した。
ばあやが恐る恐るオスカルにコップを差し出した。
「おじょうさま、おやめになりますか?」
何でしたら全部アンドレに飲ませたってかまやしないんでございますよ、とばあやは続けた。
皆で分け合って乾杯したとき、ばあやは、身体に良いということで、一番多い分量を割り当てられた。
屋敷中のものが案じてくれているのが嬉しくも有り難く、ばあやは喜んで受け取り、口にし、そして悶絶しかかった。
身体に良いどころか、最悪ではないか、と思ったが、ジョゼフィーヌさまお手製となれば軽々しく批判を口にすることもできず、以後、なんだかんだと理由をつけて、若い使用人に押し付けてきた。
だが、オスカルさまに勧めるのはどうにも気が引けた。
もとはといえばアンドレへ、とのことだったのだから、全部彼が飲んでも不都合はあるまい。
ばあやは骨の髄までオスカルびいきであった。
「いや、アンドレにこれ以上毒味をさせるわけにはいかない。わたしも同じものを飲まねばな。」
使用人の手前、表だっては言えないが、さきほど営舎の司令官室で、二人してショコラを飲んできた。
それは夫婦として同じ物を、との意向の現れだった。
であればこそアンドレの進言を容れて帰宅したのだ。
ならば…。
オスカルは意を決して、アンドレの飲み残したコップを受け取り、再び濁った赤い液体を注いだ。
そして一瞬コップをにらみつけ、やがて一気に飲んだ。
固唾を呑んで一同が見つめた
「フー…。これはなかなか…。」
オスカルは一向に崩れなかった。
姿勢も声も、表情も…。
「そこまでひどい味とは思えぬが…。」
えーっ!!!
すさまじい叫び声が厨房に響き渡った。
「おじょうさまっ!大丈夫でございますか?ご無理なさることはないんでございますよ。そりゃあこんなご時世、食べ物を粗末にするのはもってのほかですけれどもね。ご気分を害されるくらいなら、あたしたちでなんとかいたしますから…ね、ね、オスカルさま。」
ばあやは夢中でオスカルにとりすがった。
「おおげさだね、ばあやは。確かに少し酸味がきついが、吐くほどではない。自然のものがふんだんに使われていて健康的ではないか。姉上のお志だ。アンドレが飲めないのならわたしが全部頂こう。」
同僚に背中をさすってもらっていたアンドレは、呆然とオスカルを見つめた。
本気か?オスカル、本気で言っているのか?これがまずくないと。
心配そうなアンドレはじめその場にいるすべての人が凝視する中、オスカルはピッチャーからなみなみとジュースを注ぎ、すっかり飲み干した。
常人ではない。
その日、すべての使用人がオスカルに対する畏敬の念に、今までと別種の要素を付け加えたのは疑う余地もなかった。
剣も学問も他に秀でた方だとは思っていたが…。
味覚もまた平凡ではなかったのだ。
そしてその夜、オスカルとアンドレは久しぶりに夜をともに過ごした。
そしてアンドレが早朝自室に戻ったあと、オスカルは強烈な吐き気に襲われた。
やはりジョゼフィーヌ姉上の作った物など口にすべきではなかったのだ。
あの姉からのもらいものにろくな物があったためしがない。
皆があれほどまずいといったものを、そうも思わず飲めたのは、よほど疲れて味覚が鈍っていたためだ。
オスカルは深く後悔した。
だが、皆の前であれほど堂々と飲んだ手前、吐き気について誰にも言うわけにはいかなかった。
そらみたことかと笑われるならまだしも、アンドレにいらぬ心配をかけたくなかった。
夜が明け、オスカルはいつも通り朝の支度をすませ、急ぐから、と朝食をほんの少し口にすると、アンドレとともに出仕した。
1789年6月20日の朝である。
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