あるものは、時の流れが我慢ならないほど遅い、といらだち、またあるものは刻一刻と変わる情勢に到底ついていかれないほど早いとあせっている。
ただ自分の住む社会がかつてない規模の変革期に入っていることだけは、すべてのものの共通認識かと思われた。
上は王妃から下は靴磨きの少年まで、このままではすまない、というおぼろげではあっても肌で感じる気配があった。
そのような情勢の中にあって、もし唯一それを感じ取れないものがいたとしたら、それは、誰あろう、この国に君臨し支配する国王ルイ16世そのひとかもしれなかった。
彼は日々のできごとを記録する日記を残しているが、そこには「なし」と書かれている頁が少なからずあった。
それが狩りの獲物を表しているということが、平時であれば微笑ましいが、この国難のときにあってもそうであることが、彼の不幸の根源であり、フランス国民の不幸の根源でもあったと言えよう。
もしへんぴな田舎の領主として生まれていたならば、彼は良き執事と堅実な妻を持つだけで充分幸福な人生を送ったはずである。
決して贅沢ではないし、心根は優しく、穏やかな性質で、趣味は狩りと錠前作りといういたって質素なものであり、なおかつ家族思いで領民思い、とくれば、申し分ない領主と慕われたことであろう。
だが、彼は贅沢の限りを尽くしたルイ14世を先祖として生まれ、愛人に政治を任せることを厭わぬ祖父ルイ15世の皇太子として育ち、フランスが後生まで世界に誇る絢爛豪華なベルサイユ宮殿の主、ルイ16世となった。
しかも良き臣下はつかず、堅実な妻を持つこともかなわなかった。
彼はおそらくすべてのひとが一生に一度は得てみたいと思うものを、生まれながらにことごとく持った一方で、彼自身が最も望んだささやかなものたちを得ることなく生きた。
ひとりの人間の資質と、その人間が置かれた立場のギャップが生み出す不幸の中でも最大の例が彼の一生であったと言えるかも知れない。
貴族に充満する不満を解消し、無理のある予算を承認させるために応急処置的にとった三部会開会という方法は、当初の目的を達成するどころか、およそ正反対の方向へ時代を動かす、はじめの第一歩となってしまっていた。
こんなはずではなかったという国王周辺のいらだちは、一部貴族僧侶の助力を得て国民議会と名乗り始めた平民代表に対し強い態度に出るべきだという進言になり、王はいつものようにそれに乗った。
まして、このたびは王妃も同様の意見であったから、彼には否という選択肢のあろうはずがなかった。
そして彼が強硬手段にウイと言った結果、衛兵隊には議場の扉を閉鎖せよ、という命令が下された。
その命令書を手にしたブイエ将軍に対し、オスカルがどれほど筋の通った反対意見を述べようと、当然一顧だにされるはずもなく、彼女は断腸の思いで部下に命令を伝えた。
軍人は上意下達の世界である。
兵士達は、自身のみじめさと同等、あるいはそれ以上のものを隊長も感じていると思って、民衆からの石と言葉の飛礫(つぶて)に耐え、議場の扉を封鎖した。
フランソワの額が切れ、鮮血がほとばしった。
それでも黙々と任務に従う部下の姿が一層オスカルの心を刺し、深い怒りがこの命令を出したものに向かっていくのをとめようとして、彼女は懊悩と葛藤にさいなまれた。
「わたしたちは国民の代表を踏みにじっている。」
アンドレにつぶやいたオスカルの言葉の重みを、アンドレもまた噛みしめていた。
少年から青年への輝く日々、心をこめて仕えた国王夫妻に、怒りの感情を持つことが、どれほどオスカルにとってつらいものであるかは、直近で見守ってきたアンドレが一番知っている。
ひとりの人間として見たときの国王夫妻の優しさを認めているがゆえに、下された命令の非情さと非道さに言葉を失わざるを得ないのだ。
王太子を失い、悲痛の極みにいるであろう夫妻は正常な政治的判断能力を失い、とりまきたちのいいなりになっているのであろうか。
であるならば、それはそれで統治者としてのあるべき姿ではない。
武官が感情で行動するものではない以上に、王たるものは私情に揺らいではならないのだから。
だが、このような要求が現実の国王夫妻にとって過酷なものであることもまたオスカルは承知していた。
誰よりも人間的で、本性に素直でありたい王妃の人となりからすれば、冷静な判断など望むべくもなかったし、それに沿った行動も期待できなかった。
王妃にとって、王妃としてのあるべき姿と、自分のありのままの姿とを同一化することこそが、即位以来の願望ですらあったのだ。
将官の目にあふれる涙が、飛礫を止め、フランソワの額の傷に追い打ちをかけることを防いだものの、それは何の解決にもならなければ、何のなぐさめにもならなかった。
「きつい任務だったな。」
アンドレはほどよい暖かさのショコラを、苦悩に満ちたオスカルの執務机に置いた。
すでに窓の外には夜の帳がおりている。
「これしきでまいっていては持たないとわかってはいるのだが…な。」
オスカルは両手で前髪をかきあげた。
「こんなことは序の口だ。」
顔を上げきっぱり言い切った。
そうだろう。
今日のこの一手で、国王側の本心は明らかになった。
国民のすべての意見に耳を傾ける…という布告の詔が偽りに満ちたもので、今後は増長した平民議員を押さえるための更なる強行姿勢が貫かれるはずだった。
今日閉じられたのは単なる議場の扉ではなく、対話による解決への扉でもあったのだ。
「顔色が良くない。」
アンドレはぽつんと言った。
言いたくはなかったが、言わずにはいられなかった。
「ふむ、お見通しだな。」
万全の体調とは言い難い。
血が足りないとクリスに言われたときは笑止千万だと歯牙にもかけなかったが、最近では血の気が引いていくのが自分でもわかる。
最初は、あまりに耐え難いことがおこるからだと思っていたが、回数は間違いなく増えている。
ルイ・ジョゼフ殿下の薨去も相当にこたえていた。
「休めないのはわかっている。手を抜けないことも…。それでも言わないでいるよりは言っておくほうがいいと思う。」
「雷を落とされても…か?」
オスカルはニヤリと笑った。
「覚悟の上だ。」
アンドレは笑ったオスカルに安堵して、芝居がかった顔を作った。
「知っているか?おまえの顔色も相当悪いことを…。」
オスカルは反撃に出た。
「おまえと連動しているんだ。」
アンドレはさらりと答えた。
「フフっ…。なかなか鋭いところをつく。」
オスカルは自分の不調は甘受するが、アンドレの不調は放っておけない。
アンドレの不調の原因が自分だと言われれば、無理をおすことは難しい。
我が身をダシにするのは最低だと思いながらも、それでもアンドレがその手を使うのは、それだけ状況が緊迫しているからだ。
でなければ彼はそんな手段を取るはずがない。
オスカルにもそれはわかっていた。
「方法がないのだ。」
オスカルはそう言うとショコラを飲んだ。
個人の力でどうなるものでもないのは百も承知しているが、だからといって唯々諾々と命令に従うことが、果たして本当にフランスのためになすべきことなのか。
方法も答えもない。
八方塞がりだった。
アンドレは自席に戻り、黙ってオスカルを見つめた。
そして、めずらしく自分の分も煎れてきた彼は、少し冷めたショコラをゆっくりと飲んだ。
使用人が主人と同席して同じ物を飲食することは祖母に固く禁じられていた。
けれど、昨年のノエル以来、ごくたまにではあるが、オスカルのために自分もそうしたほうがいいと判断したときだけ、彼は同じ物を用意し、口にした。
ノエルの夜、二人は神の認める夫婦になった。
夫婦なら同じ物を食べても何の不思議もない。
そうでないほうがおかしい。
そういうアンドレの変化をオスカルはとても好ましく受け止めていた。
夫として言っている、というデモンストレーションだな、と思うと一層むげにはねつけることは難しい。
「今日はできるだけ早く帰宅する。それでいいか?」
冷めた最後の一口を口元に運びながら、ギリギリの妥協点を提案した。
アンドレはにっこりと微笑んだ。
そしてあっという間に二人分のカップをトレイに乗せると
「馬車の用意をしてくる!」
と言って部屋を飛び出していった。
電光石火の早業だった。
「今帰るとは言ってないぞ!おい!!アンドレ!!!」
司令官室にオスカルの怒声が鳴り響いた。
やられた…。
こんなに仕事を残して帰って明日どうなっても知らんからな。
今日の報告書はどうするんだ。
ブイエの親父は、あとで報告を聞く、と言い捨てたんだぞ。
無視するのか。
まあ、あとはダグー大佐がなんとかしてくれるだろう。
大佐、恨むならわたしではなくアンドレを恨んでくれ。
ぶつぶつ言いながらオスカルは机の上を片付け始めた。
もとより書類仕事は大嫌いだ。
口では文句を言いながら顔は笑っている。
心身が健康でなければ正常な判断は下せない。
6月に入ってから、一日の休みもとっていなかった。
というより、ほとんど出ずっぱりで屋敷に帰ることすらできていなかった。
あるべき司令官の姿と、ありのままの自分の姿を思い浮かべ、あるべき姿を維持するためにも、ありのままの姿を大切にする瞬間が必要だ、と判断した。
そう、自分で判断したのだ。
決してアンドレに乗せられた訳ではない。
ダグー大佐、やはり恨むならわたしを恨んでくれ。
オスカルは部屋の燭台を自分で消した。
ほどなくして司令官室の扉はバタンと閉じられた。
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