吐き気は、昼になってもおさまらなかった。
天候不順で雨が多い。
湿気が満ちて健康なものでも憂鬱な気分に引きこまれる。
そこへ持ってきてジャルジェ家コック曰くの正体不明の特製ジュースを多量に飲んでしまった。
原因はあまりに明らかだ。
だが、昨日の自分の仕事の結果は見届けねばならない。
オスカルは兵士達に封鎖を命じた議場に向かった。
案の定、驚き困惑する平民議員の姿があった。
力あるものが、力なきものに圧力を加える際の最も直接的にして、かつ相手への打撃の最も大きい方法が武力行使である。
単に議場の扉を閉じたことが、即武力行使とはいえないが、封鎖を現実に執行したのが兵士である以上、それは武力行使とよばれても仕方がないと思われた。
強大な力のもと、立ちすくむ弱者…。
だがそのオスカルの想像は完全に覆された。
平民議員は、ジュー・ド・ポームに集まり、憲法制定まで決して解散しないことを誓い合った。
作用反作用の法則のごとく、踏みつける力が大きければ大きいほど、反発する力も大きいのだということを、彼らは為政者に見せつけた。
「踏まれてもへこまない。踏まれる痛みにただ耐えるのではなく、踏み返す。それくらいの意気込みがなければ平民議員などつとまらない、ということか。」
アンドレがひとりごとのようにつぶやいた。
平民議員の芯の強さは、彼にとっても、驚きだった。
貴族の屋敷に仕える平民、という立場は微妙である。
主である貴族のおかげで暮らしが成り立ったいる一方で、貴族は平民からの納税で生きている。
つまりは平民に寄生する貴族に、さらに寄生する平民、と言えなくもない。
切ない立場である。
まして貴族の女を愛し、その夫となった我が身となれば…。
微妙な立場のどこで平衡を保ち、自身を維持していくのか。
アンドレは考えれば不毛にならざるを得ないこの思考の循環にはまりこむのを防ごうと、救いの女神に視線を移した。
女神は青い顔をして自分を見つめていた。
「貴族は、踏みつけているという自覚すらない。だから、ますます足に力を入れる。いつか踏み返される日が来るのだろうか。」
青い瞳が自分ではなく、どこか遠くを見つめていることに気づき、アンドレはオスカルの肩に手を置いた。
「部屋に戻ろう。ジュー・ド・ポームへの警護をどうするか、検討せねばならんだろう。」
アンドレは、話題を現実的なものに戻した。
オスカルはこくりとうなずいた。
並んで歩きながら、アンドレは朝から気になっていたことを尋ねた。
「あのジュースのことだが…。」
オスカルは顔を上げた。
「なんだ?」
「本当に大丈夫か?」
「どういう意味だ?」
「いや、あれは本来俺への贈り物で、俺が飲むべきものだった。だが…。」
「おまえの味覚にはあわなかった。そしてわたしにはそれほどでもなかった。だからわたしが飲んだ。それだけのことだ。」
「無理をしたのではないか。」
アンドレはオスカルの顔をのぞきこんだ。
あのすっぱさは尋常ではなかった。
「そんな物好きではない。わたしにはそこまで不味いとは思えなかったのだ。無理などしていない。」
「そうか、それならいいのだが。」
アンドレはそれ以上この話題を続けることをあきらめた。
ル・ルーも不味くない、と言っていた。
あの血筋にはあうのかも知れない。
これだけは千差万別だからな、とアンドレは自分を納得させた。
司令官室に戻ると、ダグー大佐を呼び、昨日の件を素直に詫びた。
報告書作成を押し付けるような形で帰宅してしまっていたからだ。
大佐は、とばっちりへの苦情は一切言わず、急遽代役で作成した議場封鎖の報告書を差し出し、問題なければサインをお願いします、と言った。
その文書は、まったくもって完全に事務的なもので、作業にあたった兵士の数と、要した時間を箇条書きにしただけの極めてシンプルなものだった。
「大佐の書類作成能力は見事だな。」
オスカルは思わず口にした。
「恐れ入ります。」
「まったく無駄というものがない。」
「事実の報告をするのが部下の勤めでございますから。」
大佐はさも当然のことと返答した。
「いや、まったくその通りだ。ありがとう。これをブイエ将軍に提出してくれ。」
オスカルは、サラサラとペンを走らせてサインをし、大佐に手渡した。
大佐が退出すると、オスカルはため息をついた。
「事実か…。」
兵士が出動し、板とトンカチと釘で議場の扉を打ち付け、開かないようにした。
本当に簡単なことだった。
報告文の行数にしてみればたったの数行だ。
だが、その間の兵士達の心情は…。
そしてそれを見ていた市民の感情は…。
どこにも書かれていない。
書くべき事ではない。
まして、議場への入場を拒否された平民議員の思いなど、あるはずもない。
「事実が真実とは限らない。」
アンドレが言った。
「?」
オスカルが驚いてアンドレを見た。
「議場封鎖、平民議員締め出し、これが事実だ。だが、議員は燃えるような情熱で徹底抗戦を誓った。こちらが真実だ。」
そうだ、そのとおりだ。
そして歴史は事実の裏側にある真実によって動かされていく。
事実は結果に過ぎないが、真実は原因となり、次の事実を引き起こす。
「では、次におこる事実はなんだ?」
オスカルは聞いた。
「さあな。この議員達の情熱という真実に、宮廷がどう対応するか。それにかかっているだろう。」
「確かに…。どう出るか…な。」
「このこと以上にわからない事実と真実があるのだが…。」
アンドレが言った。
「なんだ?」
「特製ジュースだ。」
「!」
「マリー・アンヌさまのご命令…これはおそらく事実だろう。だからジョゼフィーヌさまが俺のためにわざわざジュースを作り届けてくださった。これも事実だ。だが、真実はなんだ?マリー・アンヌさまはなぜ俺をいたわれとおっしゃったのだ?」
「わたしにわかるわけがない。もともとが姉上達の突飛な行動は、余人に理解しがたいことの一覧表のようなものなのだからな。」
散々苦労させられてきたと言わんばかりにオスカルが語気を強めた。
「もうひとつ。色々あって忘れかけていたが、オルタンスさまがお帰りの際におっしゃったマリー・アンヌさまからのご伝言。」
「そういえばそんなものがあったな。」
「替えはないようだからよろしく頼む…だった。」
二人は顔を見合わせた。
「謎だな。」
「ああ。ただ手がかりはある。どれもマリー・アンヌさまから出たものだ、ということだ。そして俺に対するもの、ということも。」
「何を考えておられるのだろうな、マリー姉は…。」
「事実はたくさん目の前にあるのに、裏に隠れた真実が一向に見えない。」
「だから次がどうなるかわからない。」
二人は黙り込んだ。
「とりあえず悪意はないはずだ。ジョゼ姉だけなら悪意しかないが、マリー姉やオルタンス姉にはそれはない。」
「うむ。むしろ善意しかない。」
自分たちの結婚への過程を見ればそれは明らかだった。
ちょっと普通ではないが、愛情に満ち、結果的には幸福をもたらしてくれる姉上達からの恩恵は、有り難く受け入れて害のあるものではないはずだった。
「雨も降れば風も吹き、晴天もある。それが自然の恵みであるなら、姉上たちの想定外の行動もまた、自然の恵みと思っておくしかなかろう。雨が降る理由はわからんが、それで大地は潤うのだ。替えがあるかないか知らんし、不味いジュースにどんな意味があるかも知らんが、なにがしか良き恵みも与えてくれるのだろう。」
オスカルの言葉にアンドレは心底意外だ、という顔をした。
姉上方のなさることをこれほど前向きかつ善意に解釈するオスカルは珍しい。
むしろそれはひねくれた受け取り方だ、と指摘せねばならない時の方が多いのだ。
「随分優しくなったな。」
アンドレが言った。
「失礼な…、もともとからして優しい性質だ。」
オスカルはニヤリと笑いながら返した。
議場封鎖に落ち込むオスカルを、少なからず引き上げてくれた姉上たちに、アンドレは、やはり自然の恵みに違いないと、心の中でそっと感謝した。
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自然の恵み
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