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50才を目前にしたコンスタンス・ド・ソワソンはかつてなく充実した日々を送っていた。
6月23日にアラン捕縛の知らせを受けて、ひとりで過ごす不安に耐えきれず身を寄せたラソンヌ医師宅は、ゆっくりと自身の悲劇に浸る暇を与えてくれないほど忙しく、立っている者は親でも使えのことわざ通り、ディアンヌにこき使われる羽目になった。
医師が独身であったこと、クリスの外勤が増えたこと、ディアンヌが看護師に専念したがったことで、ラソンヌ家の家政をとりしきる人物が必要とされたためである。
いつの間にか家中の人たちからマダム・ソワソン、あるいは簡単にマダムと呼ばれ、ディアンヌとともにほとんど帰宅することなくこちらで過ごすようになっていた。

とるにたりない弱小貴族の奥方ではあったが、過去に使用人を使っていた経験があり、また二人の子供を育てた経験もあり、医業を生業とするラソンヌ家にはもってこいの人材と評価されたのだ。
貴族としての不必要な自尊心さえ捨て去れば、仕事を持つというのは、むしろ人間としての自尊心を深く大きく自分に与えてくれるものだ、ということに、娘に引き続いて気づくのに時間はかからなかった。
必要とされる場所で必要とされる仕事をするのは、なんと甲斐あるものだろうか。
今まで一人で漫然と暮らしていた自分が信じがたいほどの変化だった。

「マダム、ちょっとこちらへ」
いつになく小さな声でクリスがソワソン夫人を私室に呼び入れた。
公明正大なクリスは、誰がどんなことをしているかを皆が知っておけるように、指示を出すときは大きな声ではっきりと言うのが常である。
このように人の目のないところに呼ばれるのはめずらしい。
ソワソン夫人はただならぬ気配を察してすぐにクリスの部屋に入った。
「何かありましたか?」
端的に質問した。
忙しいクリスに用件だけを言わせるためである。
クリスはこの人のこういう配慮が大変気に入っていた。

「マダムを見込んでお願いがあります」
クリスはまっすぐに夫人を見た。
「あなたのお願いならば、どんなことでもいたします」
若いクリスを人生の師とも慕う夫人は迷うことなく言い切った。
「絶対に他言無用です。たとえ我が子といえども…」
クリスの視線は一層鋭さを増した。
「それがご指示ならば、棺の中まででも持って参りましょう」
夫人も鋭く返答した。

「実は…」
クリスは簡潔に事態を説明し、今日これから夫人にやってほしい事柄を述べた。
一瞬驚愕の体を表に出した夫人は、しかしすぐに平常心を取り戻し、短い返事をして、退室した。
一切の質問はしなかった。
指示されたことが全てだった。
中身の詮索は自分の仕事ではない。
感情を仕事に持ち込まない、という姿勢を夫人は貫いた。

その後ろ姿を見送りながら、クリスは大きくため息をついた。
「常軌を逸した方が、すんなり事態を受け容れてくださればよいのだけれど…」
珍しく悩ましげに独り言をいって、それから、急いで自分も出かける仕度を始めた。
母親が実家に戻りっぱなしの間に、ジョゼフィーヌの次男のシャルルが高熱を出した、との知らせがブラマンク伯爵家から迎えの馬車つきでやってきたのだ。
同じ知らせは当然ジャルジェ家にも届き、ジョゼフィーヌも急遽実家から自邸に戻っているはずであった。

症状を聞く限りでは当節流行のタチの悪い夏風邪である可能性が高く、今夜は伯爵邸に泊まり込むことになるだろうと判断した。
が、そうなると、毎日の日課である衛兵隊司令官室横の仮眠室に往診に行くのは難しい。
今日明日は往診を控えるか…。
だが、あの方は目を離すと何をしでかすかわからない。
多分、お小さいときから、アンドレや周囲の目を盗んで、相当無鉄砲なことをしでかしてこられたに違いない。
何と言っても医師の診断を頭から嘘だと思いこむ程である。
毎日様子を観察し、決して無理をしないよう言い聞かせなければ、またぞろ勝手な判断で動き回る可能性は哀しいくらい大であった。


沈思黙考の果てに、苦肉の策として、クリスは代理のものを行かせることを考えついた。
そしてソワソン夫人に白羽の矢を立てたのだ。
本来ならラソンヌ医師が最も適任だが、自分がいないのだから、病人を放って伯父は行けない。
当然伯父の片腕であるディアンヌも手が離せない。
ディアンヌは優秀な看護師だった。
となれば、ここは妊娠、出産の経験のあるソワソン夫人に行ってもらうしかなかろう。

夫人の息子が、ジャルジェ准将の部下であることは、この際、目をつむるしかなかった。
固い口止めが効果を持つものかどうか、不安がないわけではない。
だが、クリスは夫人の人柄を信じることにした。
アランもディアンヌも、クリスの見るところ、心根の真っ直ぐな人間である。
そろって卑怯なことが大嫌いだ。
であるならば、その二人を産み育てた夫人は、当然、卑怯なことが嫌いな、心根の真っ直ぐな人間だとクリスはふんだ。
今は自分の目を信じるしかない。

表へ出ると、ちょうどソワソン夫人が辻馬車に乗って出発するところだった。
振り返った夫人とチラリと目があった。
まったく冷静な夫人の態度に安心して、クリスはブラマンク家の迎えの馬車に乗った。
7月に入ってからのパリの治安は日に日に悪化している。
妹が以前パリでひどい目に遭った経験から、ブラマンク家ではわざわざ辻馬車を買い取り、それをクリスの送迎用にあててくれている。
中の人物が貴族かどうかなどおかまいなしに、仕立てが豪華であれば襲われるご時世なのだ。
自分が田舎から出てきたときとは比べものにならないほど治安は悪化していた。

クリス自身、伯父が今診ている患者と、これから向かうブラマンク家の御曹司に、人間としてなにほどの違いがあって、このように待遇が違うのか、と思わないではなかったが、医師というものは、目の前の患者を診るのが仕事である。
たとえ、平民でも、貴族でも、求められれば行かねばならない。
そう、患者が、まったくこちらの言うことを聞かない頑固な女性軍人であったとしても…。
クリスは、心中そっと十字を切り、ソワソン夫人の健闘を祈った。







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