情 愛
当然と言えば当然だが、ソワソン夫人が面会申し込み書に、希望対象者をジャルジェ准将と記入したときの事務官の顔は、
「このおばさん、暑さでついに…」
という同情に満ちあふれたものだった。
だが、当の夫人は哀れみの混じった冷たい視線をものともせず、堂々と許可証の発行を待っている。
事務官は、仕方なく自分の手で、ジャルジェ准将と書かれたところを、アラン・ド・ソワソンと書き換えてやろうとして、大声で怒られた。
「勝手に何をしているのです?!」
その声は、日頃のアランにそっくりで、通路を歩いていた周囲の兵士達が驚いて声の主に振り返った。
「何って、間違っているから訂正してやろうと…」
「間違ってなんかいません。よく理由の欄を見てちょうだい!」
ラソンヌ医師の指示により看護のため、とあるのを見て、事務官は目をむいた。
「さあ、わかったんなら、早く許可証を出してくださいな」
奪うように許可証を受け取ると、夫人はつかつかと司令官室に向かって階段を上がっていった。
7月1日付けで、衛兵隊の隊長にはダグー大佐が任命され、すでに司令官室ではなくなっている二階の元司令官室では、アンドレが引き継ぎ作業と残務整理にあたっていた。
ノックの音に、日課となっているクリスの診察時間だと思った彼は、顔も上げずに「どうぞ」と答えた。
だが、「失礼します」という声の低さに驚いて入室者を見た彼は、完全に言葉を失った。
「あ、あなたは…」
「クリスの指示で参りました。オスカルさまは?」
「…」
「クリスは仮眠室にいらっしゃると言っておりましたが…、どちらでしょうか?」
「…」
アンドレは口をパクパクとはさせるのだが、音声がついてこなかった。
目の前の男との意志の疎通は不可能と判断したのだろう。
ソワソン夫人は、おもむろに室内を見渡し、右手の壁に扉を発見すると、黙って近づきノックした。
「どうぞ」
オスカルの短い返事が聞こえた。
それでやっと正気に返ったアンドレは持っていた書類を放り出して夫人のあとを追った。
狭い仮眠室には、呆然とするオスカルとてきぱきと質問をする夫人の姿があった。
「クリスの指示を守っておられますか?」
「…」
「そのご様子では大丈夫なようですね。お顔の色もよろしゅうございますし…」
「…」
「昨日から今日にかけて出血はありませんでしたか?」
「…」
「なかったようでございますね。安心いたしました。ご気分は?何かお口になさいましたか?」
「…」
「まだ3ヶ月に入ったところということでしたら、しばらくはおつらいところですねえ。でも、何もご心配なさることはございません。お腹のお子様が元気にお育ちの証拠でございますからね」
「ソワソン夫人…」
一方的に話し続ける夫人に対し、オスカルはようやく声を発した。
「クリスの指示だということだが、なぜクリスがあなたに指示を出すのか、また、なぜあなたがその指示に従うのか、また…」
次々に湧き出る質問事項を述べ立て始めたオスカルに、夫人は手を挙げて制し、言った。
「これは失礼いたしました。あまりに仕事に専念しようと心がけたため、事情の説明を省略してしまっておりました」
夫人は寝台の上のオスカルと、その脇に立つアンドレを交互に見つめ、丁寧に話し始めた。
アランの投獄を聞き、とても一人ではいられず娘の勤め先に身を寄せたこと。
続いて、ただ世話になっているのも心苦しいので、何かできることを、と思って、とりあえずラソンヌ家の家庭内の諸々を引き受けたところ、忙しくなったクリスの事情もあって思いの外重宝され、そのまま家政を預かるようになったこと。
ジョゼフィーヌの子息が今朝になって高熱を発したため、クリスはブラマンク家に呼び出され、本日のこちらへの往診が不可能となり、さらにご時世から病人が増加していてラソンヌ医師とディアンヌはとても手が離せないので、亀の甲より年の功とばかりに、クリスがオスカルさまのご様子をしっかり観察して報告するよう自分に指示を出したのだ、ということを丁寧に話終えたところで、一旦夫人は口を閉じた。
理路整然とした説明に二人は、とりあえず納得した。
息子の投獄に衝撃を受けたという説明は、母の心情を慮れば、当然のことだったし、最近ジョゼフィーヌがクリスに肩入れしていることは承知していたから、シャルルが熱を出したとなれば、すぐに呼び出されることも納得できた。
また目の前のてきぱきとした夫人の様子を見れば、忙しい医師宅で女執事のように頼りにされることも、もっともに思えた。
なるほど、と感心して、それから、オスカルはもっと重大なことに気づいた。
「事情はわかった。それはわかったのだが、あなたは、その、つまり、わたしの身体のことを…、もちろん…」
オスカルは言葉を慎重に選びながら、だがうまく表現できず、言葉に詰まり、最後まではっきりと口にすることができないまま、黙って夫人を見た。
夫人はにっこり笑った。
「亀の甲より年の功、とただ今申し上げました。委細承知いたしております。クリスには我が子といえども口外無用と厳しく言い渡されました。どうぞご安心くださいませ」
ホーッと二人は同時に大きく息をはいた。
目の前の夫人が、べらべらと誰彼なく、ラソンヌ家で知り得たことを話して回る人物とは思わないが、事実だけを聞けば、これほどスキャンダラスなゴシップはない。
大貴族の継嗣たる女軍人が従僕の子を身ごもって、、あろうことか司令官室で臥せっている…。
大概のゴシップには慣れた宮廷でも、あるいは王妃の愛人一覧などを作って喜ぶような物好きな民衆にしても、この話が洩れれば第一級のネタとして、大騒ぎになることは明白だ。
よほど慎重に人間を選ばなければ秘密は守れない。
だが、目の前の夫人は、こうして話す限りでは、クリスの観察力を信じて良さそうだと二人は思った。
「オスカルさま、そしてムッシュウ・グランディエ、職務に忠実にと思うあまり、肝心のことをお二人に申し上げるのを忘れておりました」
夫人はあらためて姿勢を正し、続いて深々と腰を折った。
「ご懐妊、おめでとうございます」
オスカルとアンドレは、はじかれたように夫人を見た。
あまりに意外な言葉を聞いた、という風に…。
母も姉も、自分の妊娠をそれは喜んでくれていた。
だが、何と言っても、つまはじき状態だった父の手前、その表現は相当抑制されたものだった。
ばあやもまた、何も知らない同僚たちの中で、一切の感情をおくびにも出さない。
クリスは、医師として、淡々と診断し、指示を出すのみで、それ以上突っ込んだ話は一切しない。
二人は、今、初めて、今回の妊娠に対し、祝いの言葉を聞いたのだ。
しかも身内ではなく、他人から…。
充分に真心のこもった形で…。
「ソワソン夫人…。ありがと…う…」
オスカルは震える声で礼を述べた。
アンドレもまた同様の感激の中で、夫人に対し頭を下げた。
「ありがとう…ございます…」
夫人は優しくオスカルを見つめた。
勇ましい軍人だとかねて息子から聞いていたが、幾分やつれたその姿は、頼りなさも持ち合わせていて、背負ってきたものの重さを感じさせずにはおかなかった。
思えばこの二人との初対面はディアンヌの婚約が破談になったときだった。
身も世もなく泣き崩れる娘と、怒り狂う息子を前に、何も出来ず、ただ蝋人形のように立ち尽くすしかなかった母である自分…。
そこへ駆けつけてきたこの二人は、自死しようとした娘の命を救い、恨みから他者の命を奪おうとした息子の暴挙を制止し、新しい世界へ導いてくれた。
娘が誘われた世界に、今は自分までもが世話になり、生き甲斐をもらった。
まさしく大恩人である。
何としてもお幸せになっていただきたい、と夫人は衷心から思っていた。
「このような状態で、誰かに祝いの言葉をかけてもらうなど、思いも寄らなかった。本当にありがとう」
オスカルの言葉に、感激に浸っていたアンドレはふがいない己の立場に改めて思い至り、自分を責めた。
「父親が、こんな…」
オスカルの言葉を補おうとして、彼は情けなさに絶句した。
由緒ある家系のものが父親ならば、どれほど祝福を受ける懐妊であることか…。
間違いなく国王夫妻からも祝儀が届くに違いないのだ。
「アンドレ…!違う。そうではない」
オスカルはあわててアンドレに声をかけた。
「誤解するな。そういう意味ではない」
身分のことなど、全く思ってもいなかったのに、アンドレはそっちの意味で自分の言葉を受け取ってしまった。
オスカルは混乱した。
すると、突然、夫人がアンドレの背に手を伸ばし、ゆっくりとさすり始めた。
「正式にご結婚なさったと伺っておりますよ。公にするには時期が悪かっただけでございましょう?馬鹿息子たちがずいぶんご心配をおかけしたのですし…。お子様のお父さまがご自身をご自身で貶めるようなことをおっしゃるものではありません。そんなことではお母さまが安心して出産できなくなってしまいますよ」
その手は、暖かく優しく、まさしく母の手とはこういうものかとアンドレは思った。
言葉がその手を通して身体全体に染み渡り、すべてその通りだ、と素直に思うことが出来た。
「いずれ、全ての方々の祝福を受けて、お子様はこの世に誕生なさいます。そのためには、お母さまが心を安らかに持つことが何より肝心。そしてそのためにはお父さまが穏やかに守ってさしあげねばなりません。はばかりながら、わたくしなどでお役に立つことがございましたら、どんなことでもいたします。もちろんクリスは、万全の体制を整えようと奮闘いたしております。こんなおめでたいことはないのですからねえ」
夫人の言葉には媚びもへつらいもなく、心底祝福していることが、二人には感じられた。
ああ、そうだった。
子供を授かるというのは、無条件でめでたいことだったのだ。
両親の身分差や、母の職業や、貴族の体面や、あるいは時世など、なんの障害にもなりはしない。
生まれようとする命の尊さに勝るものはないのだ。
仕事にも就けず、閉鎖された狭い空間で、ただ横たわって何も出来ずに過ごすのは、ひたすらこの新しい命のためではないか。
二人は、思いがけない人物から、親としてのありようを教えられ、また救われた。
「ソワソン夫人、心から感謝する。何分知らないことばかりだ。よろしく頼む」
心からオスカルは言った。
「わたくしこそが、お二人にに子供たちとわたくし自身を救っていただきました。なんの御礼も申し上げずに今日までまいりましたことを深くお詫びせねばなりません。お二人はわたくしの大恩人でいらっしゃいます。今、ここで、あらためて、ようやく御礼を申し述べる機会を頂きました。ありがとうございました」
再び深く夫人が頭を下げ、ゆっくりと体勢をたてなおしたその時、窓の下から、
「一班集合!」
という割れるようなダミ声が聞こえてきた。
室内の三人は顔を見合わせ、にっこりと微笑みあった。
「遅い!!さっさとしろ〜!飯にありつけねえじゃないか!」
アランの怒声が次々と聞こえ、夫人が言った。
「あれはあれでかつては祝福された命だったのでございます」
オスカルとアンドレはこらえ切れずに爆笑した。
「口幅ったいことを申し上げますならば…、子供というものは、決して思うようには育ちません。ただ、育てたように育つのでございます」
夫人の意味深い言葉にオスカルは自身の生い立ちを思い浮かべ、アンドレに視線を移すと、大きくうなずいた。
back next menu home bbs