「イングランドの劇作家シェークスピアについては、今更語るまでもない。好きな作品を挙げよと言われれば、どれにするか誰もが迷うだろう」

オスカルが雄弁に演劇論を語り始めたので、アンドレは目をぱちくりさせてしまった。
そして自分と並んで聞かされているラソンヌ医師を気の毒そうに見やった。
案の定、めがねの奥で温厚な目が何度かまばたきしている。
「だが、わたしとしては、この際、他人が好きなものなんぞどうでもいい。とりあげたいのは『ロミオとジュリエット』だ」
「え?」
アンドレは思わず声を出してしまい、あわてて両手で口元を隠した。
知らなかった。
てっきり歴史物が好きだと思っていたのに…。
オスカルは厳しい一瞥をアンドレにくれたのち、口を開いた。
「この話、先生はご存知ですね?」
医師はこくりとうなずいた。
ちょっと失礼な質問である。
「結構。それなら話は早い」
いとも満足そうにオスカルは続けた。
「ジュリエットが修道僧にもらった薬が欲しい」
「えー!!」
今度は医師もアンドレと同時に声を出した。

ベルナールの所から戻ってきたオスカルは、夜分に失礼だと諭すアンドレを無視して、医師の部屋を訪ねた。
内々のお願いがある、と言われれば、医師も断れず、二人は室内に通された。
滞在させてもらっていることからして、大概迷惑をかけているのだが、ジャルジェ伯爵夫人からの、依頼状というよりは嘆願書に近い手紙がすこぶる医師の心を動かし、もはや親族のような扱いを受けることができていた。
「仮死の水薬…ですな?」
「さよう。確か42時間」
「なんとも…」
答えようがないに違いない。
いくらなんでもそんなものがこの世にあるわけがない。
アンドレはオスカルにかけるべき言葉が見つからなかった。
「あるはずですね?」
オスカルがたたみかけた。
「昔、軍にいたころ、聞いたのです」
「う…む」
医師が答えに詰まっている。
本当にそんなものがあるのか。
またあったとして、手に入るのか。
「できるだけ早く入手していただきたい。費用はいくらかかってもいいのです。わたしの全財産をはたいてもかまわない。わたしの弟子の命がかかっているのです」

医師は何度か目をしばたいた。
オスカルは今度は根気よく待っていた。
さすがにこういう駆け引きはうまい。
押すべき所と引くべき所を心得ている。
長い沈黙の後、医師は顔を上げた。
「クリスと相談させてください。あれも口は堅い。薬を作るには彼女の助力が必要です」
オスカルの満面に笑みが広がった。
大したものだ。
ついさっきベルナールを陥落させたばかりだというのに、今度は医師を落とした。
着々と打つべき手を打っている。
オスカルがすでに戦闘態勢に突入していることに、アンドレはようやく気づいた。

−ふん、今頃気づいたか?

オスカルは心の中でつぶやいた。
だが、アンドレは、その進軍ラッパを吹いたのが自分だとは気づいていない。
自分なら愛する人の為に歌いながら死んでいくという話が、オスカルをここまで駆り立てたのだ。

−耳元でおまえが思いっきり出動命令を出したから、わたしはそれに従ったまでだ。

オスカルはアンドレにクリスを呼んでくるよう命じた。
夜も遅いのに、一応女性の部屋を、一応男性が一人で訪ねてよいものか。
しかも、独身の女性と既婚の男性である。
だが、妻が夫に行けというのだから、よいのだろう。
アンドレは渋々席を立った。

「クリスは宵っ張りですからな。大丈夫、起きていますよ。まあ、随分とふくれっ面でやってくるでしょうがね…」
ラソンヌ医師がフッフッと笑い、オスカルもつられて笑った。
「感謝しています。色々、すべてのことに…。わたしにはこれほどのご恩義を頂いても何一つ返せないというのに…」
散々無理を言ってきたことに対する自覚はあったらしい。
オスカルの殊勝な面持ちに、医師は再び穏やかに微笑んだ。
「いえいえ、オスカルさま。わたしはあなたのご両親から受けた恩をこういう形でお返ししているのです。むしろお役に立てて嬉しいくらいです」
医師とジャルジェ伯爵夫妻との交流の歴史は、かつてアンドレが医師から聞かされたことがあった。
だが、オスカルは何も知らない。
だから両親がかつて医師に何をしたのか、検討もつかない。
だいたい両親もそういう話を好んでするタイプではない。
きっと世の中には知らないこと、知らなくても良いことがあり、それでもそれがまわりまわって自分助けてくれることがあるのだろう。
そういうすべての力を借りてでも、ルイ・ジョゼフを助けたい。
オスカルはそれだけを念じていた。

やがてふくれっ面どころか、もはや完全な仏頂面でクリスがアンドレとともにやってきた。
「アンドレが人畜無害であるということを、何も奥方がこういう形で証明しなくても良いんじゃないかと思いますけれど…!」
開口一番、盛大な皮肉である。
だがオスカルはまったく無視した。
「イングランドの劇作家シェークスピアについては、今更語るまでもない。好きな作品を挙げよと言われれば、どれにするか誰もが迷うだろう」
そこから始めるのか?もう一度?
のけぞるアンドレを尻目にオスカルの演説は続く。
「だが、わたしとしては、この際、他人が好きなものなんぞどうでもいい。とりあげたいのは『ロミオとジュリエット』だ。この話、知っているな?」
その失礼な問いかけは、ラソンヌ先生だから笑って過ごして下さったんだ。
相手を見てものを言え。
アンドレは背筋に汗が流れるのを感じた。
クリスは沈黙したままだ。
うなずくことすらしない。
「ジュリエットが修道僧にもらった薬が欲しい」
オスカルは本題に突入した。
「仮死の水薬ですか?」
「そうだ。軍ではあると聞いた」
「確かに…。けれど危険です。保証はありません」
よどむことなくクリスは答えた。
「わかっている。試すことができないからな」
「服用する人間の体重はわかりますか?それで分量が変わってきます。無論一人分ですよね?」
「そうだ。一人だ。ここで世話になっていたルイ・ジョゼフ・ド・ブリエに服用させる」

今度こそアンドレは顔面蒼白になった。
タンプル塔にいるルイ・ジョゼフ!
彼に仮死の薬を?

「幸い、身代わり作戦は成功した。ルイ・シャルル殿下はバルトリ侯爵によって無事ノルマンディーで保護されている。つぎに救出すべきは当然ルイ・ジョゼフ・ド・ブリエだ」

オスカルたちがルイ・ジョゼフの引き替えに連れ帰ったルイ・シャルルは、一週間ラソンヌ邸に滞在した。
その間に、バルトリ侯が船でセーヌを上ってパリに来た。
そしてたくさんの積み荷に混じってルイ・シャルルも乗船し、船はノルマンディーにとって返した。
ルイ・シャルルの世話係として侯爵はニコーラを同船させていた。
子守上手なニコーラは、ルイ・シャルルの世話係兼教師としてうってつけだった。
ルイ・シャルルの今後の身の振り方について、オスカルは義兄に一任した。
侯爵ならば、マリー・アントワネットの姉であるナポリ王妃とも連絡がつく。
これまたうってつけだった。

「わかりました。10日の猶予をください。それでなんとかしましょう。ただしそれなりの費用がかかります」
クリスはまるで風邪薬でも処方するように説明した。
「糸目はつけない。いくらでも請求してくれ」
オスカルもまるで湯水でも配るように答えた。
「かしこまりました。では、失礼致します。おやすみなさい」
扉まで行ったクリスは振り返った。
「おじさま、早くお休みにならないと明日に障りますわよ」
その言葉にアンドレは、ようやく我に返り、オスカルを促して医師の部屋を出た。
もうどっぷりと夜が更けていた。



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セピア色の化石

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