翌朝、クリスは普通に診察室に出ていた。
昨夜あれほど異常な会話をしたにもかかわらず、いたっていつも通り、次々と訪ねてくる患者を丁寧かつ迅速に診察している。
この診察室は、実はジョゼフィーヌの援助でラソンヌ邸の隣を買い取り改築したものだ。
使い勝手がよいため、いつの間にかラソンヌ医師も自分の診察室をこちらに移してきて、今では二人の医師がそれぞれの部屋で患者を診る体制になっている。
もとの診察室があった建物は関係者の居宅として使われるようになり、ラソンヌもクリスもここから隣に出勤する。
現在のラソンヌ家の顔ぶれは、二人の医師、産婆兼看護士のディアンヌ、家政全般を取り仕切るソワソン夫人。
そこにクリスやディアンヌを手伝うため、ロザリーが息子を連れてシャトレ家から通っている。
つまり総勢5人と子どもひとりということになる。
だが、実際は、ノルマンディーからオスカル、アンドレ、ルイ・ジョゼフ・ド・ブリエが出てきて居候したり、ディアンヌがタンプル塔に行ってしまったり、ルイ・ジョゼフ・ド・ブリエがルイ・シャルルと入れ替わったり、さらにはルイ・シャルルがバルトリ侯によってノルマンディーに連れて行かれたり…とめまぐるしく入れ替わりが繰り返されている。
バスティーユ襲撃で負傷したため衛兵隊を除めたジャンが、一時ここで下働きをしていたが、一年ほど前に良縁があって結婚し、その後、妻の実家である地方に越していった。
そのかわり、というわけではないが、靴屋のシモン親方のあとを継いだフランソワ・アルマンが、店の休みのたびに顔を出して、薪割りなどの力仕事をしている。
しばらくタンプル塔で偽装夫婦としてディアンヌと過ごした彼は、ラソンヌ邸で半ば家族のような扱いを受けており、とくにソワソン夫人にかわいがられていた。
こういう日常の中で、クリスが承諾したオスカルの依頼は、どうにも浮世離れしているとしか、アンドレには思えなかった。
42時間仮死状態…。
意味不明である。
だが、オスカルもラソンヌ医師も、クリスまでもが、その薬の存在を否定しなかった。
オスカルはともかく医師である二人が、あると思っているわけだ。
ならば、あるのだろうか。
アンドレは日頃フランソワ・アルマンが担当している仕事をしながら、さりげなく、しかしじっくりとクリスを監視していた。
だが変わった動きはなかった。
昼食もまともにゆっくり取れないほど患者がたてこみ、クリスが何か特別なことをしている様子はまったくなかった。
あれこれ雑用を作り出しては診察室周辺をうろつくうちに一日の診察が終わり、医師とディアンヌは隣家に帰った。
あわててアンドレも引き上げた。
ソワソン夫人から夕食の時刻が告げられ、アンドレは時間通りに食堂に入った。
オスカルは自室で書き物をしていたらしく、皆が席に着く頃階段を下りてきて、アンドレの隣に座った。
食糧事情は相変わらず芳しくない。
じゃがいもをふかしたものと、野菜のスープ、そしてパン。
ルイ16世治下となにほども変わらない。
いや、確かに良くなったものもいるのだろう。
革命政権の中枢部に入り込み、さまざまな汚職にまみれながら財をたくわえている新興商人の噂は、パリに住んでいて知らぬ者のない事実だ。
一方で、そういうことを忌み嫌うロベスピエールの対応が過激に走り、政敵を次々に断頭台に送っていることも、現実だった。
革命に理想を求めたもの、権利を求めたもの、財力を求めたもの、権力を求めたもの。
求めて得られたもの、求めたのに得られなかったもの。
そして今なお求め続けているもの。
時代が変わる時と言うのは、きっといつもそうなのだろう。
粗末な食事に誰一人不平を言うこともなく、静かに皆がスープに口をつけたとき、ベルナールが飛び込んできた。
「ロベスピエールが逮捕された!」
アンドレはとっさに隣のオスカルを見た。
顔色がサーッと変わって、白い肌に青みが増していた。
「裁判は?」
青ざめた表情のまま、オスカルはベルナールに問いかけた。
ベルナールは黙って首を横にふった。
「今、コミューンの連中がかろうじて身柄を国民公会から市庁舎へ移した。緊急避難措置だ。だがこれで落ち着くとは思えん」
「そうか。おまえはこれからどうするのだ?」
「すぐに市庁舎に行く。一部始終を見届けるのが記者の仕事だ」と言いながらロザリーに近づいた。
「ということで、しばらく帰れないかもしれない。おまえとフランソワはおれが帰るまでこちらに泊めてもらえ。先生、よろしく頼みます」
子供用の椅子に座らされたフランソワの額に軽く唇を寄せると、ベルナールは一同に頭を下げ、あっという間に立ち去った。
「とりあえず食事をすませてしまいましょう。冷めたスープなどとても頂ける味ではございませんからね」
ソワソン夫人の声で、皆、我に返った。
そして再びスープに口をつけた。
今度は誰も飛び込んでは来なかった。
皆、黙々と食事を続けた。
スープのお変わりがありますよ、とソワソン夫人が声をかけたが、希望するものはなく、早々に食事は終わり、それぞれ部屋に帰っていった。
その夜、アランが率いる国民衛兵が市庁舎に駆けつけロベスピエールの護衛を申し出たが、ロベスピエールは頑として受け入れなかった。
そして国民衛兵があきらめて深夜に引き上げると、反ロベスピエール派の派遣軍が市庁舎を占領し、ロベスピエールの身柄は再び反対派の手に渡った。
ロベスピエールが処刑されたのはその翌日である。
予想できないことではなかった。
エベールの処刑以後、ロベスピエールの権力は大きくなりすぎていた。
次は自分かと恐れるものたちが、疑心暗鬼の中で手を結び決起した結果だ。
ルイ16世即位の際、見事な祝辞を述べた弁護士志望の青年は、やがて自分が褒め称えた王を処刑し、替わって権力者となり、そして自らも処刑されたのだ。
1794年7月27日、このとき処刑された人間は22人、翌日に70人、そしてさらにその翌日に20人。
三日間で100人を超える命が断頭台に消えたのである。
「たとえ誰がこの先断頭台にのぼろうとも、わたしはアントワネットさまにつながるお方の血だけは、決して二度と流させないぞ」
オスカルは事の次第を告げる新聞を握りつぶすと、心配そうに見つめるアンドレの胸に顔をうずめた。
アンドレはオスカルの手からくしゃくしゃになった新聞を取り上げ、長椅子に投げ捨てた。
それから優しく彼女の全身を受け止めた。