セピア色の化石

−8−

いわゆるテルミドールのクーデターでロベスピエールが処刑されてから、タンプル塔内での王子と王女の待遇ががらりと変わった。
徹底的に平等主義であったロベスピエールと違い、没落していたとはいえ元は名門貴族の出身であるポール・バラスが権力の中枢部に入ったためである。
「バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ」が正式名称である彼の評判は決して良いものではなく、むしろ賄賂や汚職、公金横領など、とかくお金に汚いことで有名で、ロベスピエールはそういうバラスを嫌い、近々処分しようとしていたところに、逆に返り討ちにあってしまったのがテルミドールのクーデターだった。
いつの時代も「清」が「汚」に勝つとは限らない。
行きすぎた正義のあとには必ず揺り戻しがやってくる。
だがとにもかくにも汚職まみれとはいえ彼は貴族の出身で、王家に対して邪険な姿勢は取らなかった。
ロベスピエールが他の囚人と同様の待遇しか与えなかったマリー・テレーズとルイ・シャルルに、王族として接した。
ために、ベルナールから医師の派遣についての問い合わせを受けたバラスは、断ることはなく、適当な人材を探して世話係につけ、できるだけ早く医師に診せるようにとさえ指示した。

早速ベルナールを通じてラソンヌ医師とクリスがタンプル塔に派遣された。
老医師は王子に、クリスは王女にと担当をわけ、それぞれに診察、処方を行う許可もおりた。
王女は女医というものを初めて見たらしく、当初は随分驚いていたが、肌を見られるわけであるから、見知らぬ男よりははるかに安心だとすぐに察し、すべてをクリスに委ねた。
クリスは本来なら町医者だが、ジャルジェ家一族との交流もあり、立ち居振る舞いに不足はない。
少しずつ王女の心を開き、言葉を交わせるようになるのに時間はかからなかった。
また老医師は、もともと自宅で居候していたルイ・ジョゼフ・ド・ブリエをよく知っている。
顔を見てひどくびっくりするルイ・ジョゼフに、そっと目配せをして診察を受けるよう導いた。
聡明なルイ・ジョゼフは、詳細は不明ながら、おそらく師であるオスカルの差し金であろうことを理解し、実際体調も相当不調であったため、言われるままにおとなしく診察を受けた。
そして、医師とクリスはそれぞれ報告書に待遇の改善と定期的な診察の必要性を書いた。
これでルイ・ジョゼフ・ド・ブリエを取り巻く状況も飛躍的に良好になる。
おそらく今は非常に衰弱しているだろうが、定期的にラソンヌが通うことで体力も回復し、彼自身が将来の展望を持ってくれるに違いない。
ロベスピエールの死によって、事態は徐々にオスカルの望む方向に展開していった。
それはロベスピエールの精神を高く評価していたオスカルにとってあまりに皮肉な展開ではあったが、オスカルは良き結果のみを、神の恩寵として受け入れることに決め、事実そうした。

大したものだ。
アンドレは、密かに感嘆する。
あまり露骨に賞賛すると、オスカルは照れてしまうし、逆に調子に乗ってどんどん過激な計画を立てられても困るので、密かに感嘆するのだが、困難の中にあって、強い意志で現状を打破する精神力は掛け値なしに素晴らしいと思う。
決してあきらめない。
そのうちに周囲が引きずり込まれ変わっていく。
アンドレはそういう場面を何度も見てきた。
14歳の少女が近衛隊で王太子妃警護にあたったときも、王妃の寵愛により昇進することでやっかみを受けた時も、衛兵隊で手荒い歓迎を受けたときも、オスカルは苦難に耐えあきらめず前向きだった。
そしていつの間にかその地位を安泰なものに変えてきた。
それが今、革命の嵐の中にあってさえも遺憾なく発揮された。
口には出さずとも、賞賛の気持ちが表れていたのだろうか。
オスカルがめずらしく、自分から上機嫌に話しかけてきた。
ここしばらくオスカルの機嫌の良い顔にご無沙汰だったアンドレはそれが嬉しく、こちらも笑顔で応対した。
「どんどん事態が良くなっていくようだな。どうだ?」
「ああ。ルイ・ジョゼフのためには本当に良かった。フランソワとディアンヌが解雇されてからは、気が気ではなかったからな」
「ふん!鼻歌を歌いながら死んでいくなんぞと平気で言うような奴にはわからんだろうがな。人間はあきらめたらそこで終わりだ。たとえ石にかじりついても、脳みそを絞り出して最善の策を考えるんだ」
オスカルの皮肉たっぷりな忠告にアンドレは目を丸くした。
鼻歌を歌いながら…
今回の情熱の源はそこだったのか。
あの話が許せなくて、仮死の薬だのなんだのと、いわばなりふり構わぬ攻勢に打って出ようとしていたのか。
アンドレは深く反省した。
本音だったとはいえ、うかつなことを言ってしまった。
以後は重々気をつけて、決してオスカルを危険に駆り立てるような原因を他ならぬ自分自身が作り出してしまう愚挙はするまい。
「だがな、まだまだだ。ここからが大勝負だ」
オスカルは鋭い視線をアンドレに向けた。
「まさか薬が手に入ったのか?」
「いや、まだだ。いつになるかも聞いていない。」
それはそうだろう。
簡単に手に入るはずがない。
「これについては待つしかない。クリスを信じるのみだ」
めずらしくオスカルが待ちの姿勢に入っていた。
だがただ待つだけならオスカルではない。
その間に動けるだけ動く。
というか、動かす。

ラソンヌとクリスの次に動かされたのはニコーラだった。
彼はノルマンディーから呼び寄せられ、元王子ルイ・シャルル、実はルイ・ジョゼフの世話係としてタンプル塔に入った。
ノルマンディーでルイ・ジョゼフとニコーラはまさしく兄弟のように暮らした仲だ。
貴公子ではあるが、器用な彼はルイ・ジョゼフの世話係に適任だった。
問題はあまりに貴公子すぎて周囲から浮いてしまい、怪しまれないか、という一点のみ。
だがそれは些細なことだ。
世話係が美形過ぎるからとクビになったりはしない。
ニコーラには仮死の薬の話しもしてある。
できあがり次第クリスがニコーラに届け、ルイ・ジョゼフに服用させる。
そして…。
すべてがそんなにうまくいくのだろうか?
だがこれを成功させなければノルマンディーには帰れない。
ミカエルとノエルはどんなに大きくなっただろう。
ニコーラはノエルのおしゃべりがうるさいくらいだと言っていた。
ミカエルは逆に無口で、でもいつもニコニコしているからバルトリ家では一番の人気者らしい。
1790年の公言祭に生まれた二人はもう4歳だ。
アンドレは不安を心の中から追い出した。
こうなったらやるしかない。
だいたいオスカルがやると言っているのだ。
だったらやるのみ。
ようやくアンドレにも闘争心が湧いてきた。
鼻歌はミカエルとノエルの顔を見てからだ。




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