ベルナールの話は、衝撃的だった。
相当、いや、おそらく決定的にアランを打ちのめした。
部下を救うために、我が身を賭けた隊長の姿は、客観的に見れば、これほど潔いものはなく、賞賛に値する。
アランとて、他人事ならば、なかなかの人物だな、と彼なりに最大級の賛辞を送ったに違いない。
だが、当事者なのだ。
隊長辞職の原因を作った張本人なのだ。
到底まっすぐ本部へ戻る気になれず、アランの足はしばらく街中をさまよった挙げ句、知らず知らず実家に向かっていた。
貴族の邸宅というにはほど遠い、粗末な、母とディアンヌが住む家…。
自分が育った家…。
三部会が開会されてから一度も帰っていなかった。
母も妹もアランが収監された話は聞いていただろうし、釈放されたことも知っているはずだった。
実際、班員の家族の中には元気な顔を一目見ようと兵舎まで訪ねてきたものも多数いて、感激の再会を果たしていた。
だが、アベイ牢獄の出口にも、営舎の広場にも二人の姿はなかった。
おそらく妹は仕事が忙しくてそれどころではなかったのだろう。
自分も新聞のことで頭がいっぱいだったから、身内が来ていないことは、全然気に止めなかった。
だが、今から思えば、ディアンヌはともかく、母も来なかったことが、寂しいと言えばかすかに寂しい気もしないではなかった。
無論、アランのことだから、そういう感情は一瞬のうちに奥深く封殺し、すぐさま実家に立ち寄るべき大義名分考え始めた。
市民のデモ行進を受けて釈放されたのが昼過ぎだった。
その後健康診断を受け、パリに向かいシャトレ家を探し出したのがついさっきだったから、結局朝から何も食べていないわけで、腹がすいてくるのも当然だった。
それなら一旦家に帰り、そこで食事をとってからベルサイユに戻るのがこの際最も好都合だ。
空腹だったから、という完璧な理由ができて、アランは自然と早足になりながら家路を急いだ。
どんなときでも自分に素直になれないアランである。
迎える母の驚く顔を想像しながら扉を叩いた。
だが、返事はなかった。
再び、少し強めに叩いた。
そしてしばらく待ってみたが、やはり何の反応もなかった。
「留守か…」
あきらめて帰ろうとすると、折良く隣家の女房が買い物籠をさげて出てきた。
「おや、アラン。お母さんなら、ディアンヌのところだよ。一緒に手伝ってるんだって。こんなご時世で随分病人が多いらしいよ」
意外な答えにすぐに言葉が出なかった。
とりあえず礼を言って、走り出した。
後方から、
「あんた、釈放されたのかい?みんな心配してたんだよ」
という声が聞こえたが、アランの耳にはほとんど届いていなかった。
おふくろが?
ディアンヌのとこに手伝い?
つまり、医師の仕事を手伝ってるっていうのか。
にわかに信じがたい話だった。
働くなど、貴族のすることではない、と言い切っていた母である。
だが、以前帰ったとき、母は生まれ変わったように晴れ晴れとした顔で自分を迎えてくれた。
貴族をやめて、自分のことは自分でするのだ、と爽やかに笑っていた。
自分のことだけではなく、人のこともしようと思い始めたのだろうか。
確かに、じっと誰もいない家にこもっているよりは、たとえどれほど役に立っているかは不明でも、人と接し、話をし、身体を動かすことは悪いことではなかった。
アランは以前に医師宅を訪ねたときの理由を思い出し、少し気後れしたが、思い切って呼び鈴を鳴らした。
あのときは隊長の様態を医師から聞き出そうとして、きっぱりと断られたのだ。
そしてディアンヌに散々からかわれた。
自分の恋愛であんな大騒動を起こしておきながら、けろっとして兄の純情をいたぶる妹に、女の恐ろしさを垣間見たものだった。
「はあい…!」
と大きな声で返事をしながら出てきたのは母だった。
「まあ、アラン!」
「お、おふくろ…!」
二人はまじまじと見つめ合った。
それから母はバンバンとアランの肩をたたき、続いてぎゅっと抱きしめた。
「無事に解放されたのねえ!ああ、よかった…。ほんとに…よ…かった…」
最後は涙声になりそのままオイオイと声を上げて泣き出した。
アランは呆然とされるがままになっていた。
母がこんな風に自分を抱きしめるのは何年ぶりだろう。
覚えがないほど遙か昔、そう、父が死んだとき以来だ。
玄関先での大きな泣き声に、奥から人が出てきた。
「お兄さま!」
ディアンヌだった。
こちらも一瞬で大きな瞳に涙を浮かべ、母とアランに抱きついた。
「ああ、よくご無事で…!」
そしてあとは、母同様言葉にならないようだった。
アランは黙って天井を見た。
目頭が熱くなってポトリと雫が落ちるのをふせぐため、決して瞬きしないで天井をにらみつけた。
二人の泣き声が、どんなに心配してくれていたか、雄弁に語っていた。
母がここに来ている理由もわかった。
おそらく息子の安否が心配でいてもたってもいられなかったのだ。
一人でまんじりともせず時を過ごすのに耐えかねて、母はここへ身を寄せたのだ。
診察室の入口にラソンヌ医師が立っていて、目を細めて親子三人を見つめていた。
気づいて動こうとするアランに、そっと手をあげて止め、二、三度うなずいて、再び診察室に戻っていった。
しばらくして、母と妹はハンカチで目を押さえながら、アランを解放した。
「心配かけちまって、すまなかったな…」
アランは珍しく素直に謝罪した。
二人は大きく首を横に振った。
それだけで、二人が自分のしたことを理解してくれているとわかった。
言葉はいらなかった。
親子兄妹の血が、それ以外の媒体を必要としなかった。
「お兄さま、さきほど衛兵隊の方がいらして、クリスを連れて行かれましたのよ。隊長が倒れた、とおっしゃって…。お兄さまはご存知ですの?」
まだ涙を拭きながら、それでもしっかりした口調でディアンヌが言った。
「えっ?」
アランは耳を疑った。
「隊長が…?」
「あれは、ジャンとミシェルでしたよ」
母が驚くほど正確にアランの同僚の名前を告げた。
「ジャンとミシェル?」
「一緒に投獄されてた人たちでしょう?随分疲れているのでしょうに、血相変えて飛び込んできてクリスを連れて行ってしまったわ。おかげでこちらは先生ひとりでてんてこ舞い…!」
「もっときちんと聞かせてくれ。隊長がどうしたって?」
アランは母の悠長な説明を打ち切り尋ねた。
「詳しくはわからないの。ただ隊長が倒れた、と叫んで入ってきて、それを聞いたクリスが恐ろしい顔つきで馬車に飛び乗って…。ここのところジャルジェ家のお屋敷には先生ではなくてクリスが定期的に通っていたの。そのうえ最近はジャルジェ家以外のお屋敷にも行くようになっていて留守が多いのよ」
ディアンヌは、クリスの往診が増えて人手不足になったのを補うためにも母の応援は重宝されたのだ、と付け加えた。
「クリスは何か言ってなかったか?」
「すごく怒っていたわ。ちょっと真似できないほど厳しい言葉でオスカルさまを非難していて、それに驚いたくらい…」
「わかった。来たばっかりだが、今から兵舎に帰る。心配かけてすまなかった」
二人はそろってうんうんとうなずいた。
元気な顔が見られたのだ。
互いにすべきことがある以上、ゆっくり話す必要はない。
アランは母を見た。
「いい顔してるぜ。元気そうだし…」
息子の思わぬ賛辞に母は少し顔を染めた。
「まあ、ありがとう。私やディアンヌのことは何も心配いりませんからね。あなたが何をしても、何をしなくても、いつだって応援していますよ。それを忘れないで」
慈愛に満ちた瞳で母はアランを見つめ、ゆっくりと言って聞かせた。
その母の言葉が力をくれた。
シャトレ家での話、そしてここでの話、どれも重いものだった。
隊長が辞職する。
隊長が倒れた。
ただごとではない。
実際の所、どう対応していいか、まだ見当も付かない。
だが、自分をこの世に生んでくれた人が、全面的に、絶対的に、自分の味方であると言い切ってくれたことが、困難に立ち向かう勇気をくれた。
事態を受け止めるのに葛藤がないわけではない。
むしろ葛藤だらけだ。
だが、逃げずに向かっていくしかない。
この世に生まれたのならば、進んでいくしかないのだ。
アランは再びパリの街を、流れる汗をものともせずに走り抜け、留守部隊につないでいた馬に飛び乗ると一路ベルサイユを目指した。
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