アランは、誰よりも早く健康診断を終えると、小さな紙片を握りしめて、兵舎を飛び出した。
牢獄の昼食に出された、普段よりずっと美味だったパン。
そのパンの中から出てきた新聞の切れ端。
誰が書いたのか。
誰が配ったのか。
自分たちの命の恩人を見つけ出したい。
会ってどうしたいのかはわからないが、とにかく会いたい。
その一念で彼は、馬をとばし、パリの留守部隊に向かった。

「今日は、仕事は免除だ、兵舎でゆっくり休め」と、ダグー大佐からありがたい指示が出ていたおかげで時間はある。
今日いっぱい探せばきっと見つかるはずだ。
馬に厳しい鞭をあて、アランはパリの街に入った。
留守部隊の馬小屋に息の荒い馬をつなぐと、久しぶりにパリの営舎に駆け込んだ。

選挙期間中、ともにパリ市内巡視の仕事をし、最後の日には隊長とのお別れ昼食会までした留守部隊の兵士たちは、アランの顔を見ると一斉に駆け寄ってきた。
「アラン!今日釈放だったんだろう?」
「よかったなあ!元気そうじゃないか?」
心から祝福してくれる仲間の暖かい言葉に礼を述べながら、アランは握りしめた紙片を見せた。
「この新聞、誰が書いたものかわからないか?」
どれどれ、という風に複数の頭がのぞき込み、そのうちの一人が声をあげた。
「これなら俺も読んだよ。本来なら取り締まりの対象だからな。没収と言いながら実は俺たちも皆回し読みしたんだ」
一人の兵士が部屋の隅の棚から、一枚の新聞を取り出してきた。
「ほら、これがその新聞だ。どういう経緯でおまえたちが牢獄なんかにぶちこまれたのか、みんな気になっていたからな。」

アランは新聞を受け取った。
一面にでかでかとした文字が広がった。
「フランス衛兵隊の釈放を要求する」
アランはくしゃくしゃになった紙片と比べてみた。
同じものだった。
「発行者は、ベルナール・シャトレ…。」
アランが声に出して読むと、目の前の男がああ、と教えてくれた。
「新聞記者だ。なかなか鋭い記事を書く。街頭演説もよくしているしな。これを読んで市民が集まったんだ。非番の者の中には参加した奴もいたんだぜ。」
口ぶりから、この兵士も平民だと察せられた。

新聞の記事は非常によく取材がなされていて、どういう経緯で衛兵が捕縛され投獄されたのかがわかりやすく書かれていた。
平民代表の議員に武力を行使しようとする国王の横暴と、それに反抗した我らが英雄たる名もなき兵士達、彼らがこのまま銃殺にされるのを見過ごしてよいのか…。
一言一句が心ある市民をかき立て、行動に移させる熱を持っていた。

「どこにいけば会えるか知っているか?」
「新聞の末尾に発行元の番地が書いてあるんじゃないか?」
確かに、パリのとある番地が発行元として載せられていた。
「一言礼を言ってくる。おまえたちもありがとうよ」

アランはその新聞を手にまたもや外に飛び出した。
そんなに遠くはないので馬は置いていった。
もうすぐだ。
もうすぐ目的の人物に会えるのだ。
ハアハアと息切れし、びっしょりと汗をかいたまま、アランは裏通りの小さな家の扉をたたいた。

「すいません!シャトレさんはいますか?」
ドンドンとやや乱暴に扉を叩き、何度も叫んでいると、中から声がして、扉が開いた。
金髪のきれいな女性が立っていた。
大きな瞳が驚いたようにアランを見つめている。
「ここはシャトレさんのお宅ですね?いらっしゃいますか?」
アランの必死の形相にちょっと驚いた風に小首をかしげた女性は、アランが握りしめた新聞を見て、にっこり笑った。
「ええ、ちょっとお待ち下さいね。」
女性は一旦室内に引っ込み、今度は黒髪の男性が出てきた。
「わたしがシャトレだが…。」
少しアンドレに似た面差しのスラリとした男が、怪訝そうにアランの上から下までを見下ろした。

「突然すみません。俺は、アラン・ド・ソワソン、フランス衛兵隊の兵士です。」
男の目が大きく見開いた。
「ようこそ!一班の班長だね。入りたまえ。」
男は驚くほど親しげにアランを室内に招き入れた。
「ロザリー、お茶を煎れてくれ。衛兵隊の兵士だ。アラン・ド・ソワソン…班長だ。」
「えっ…、いいんですか?」
突然訪問しておきながら、思わぬ厚遇にアランの方がびっくりした。
「もちろんだ。無事釈放おめでとう!さあ、中へ…!」

ベルナールに引きずり込まれるようにしてアランは中に入った。
質素でこぎれいな室内は、不思議なほど暖かな雰囲気に包まれ、ずっと以前から知っているような気持ちにさせられた。
「あの、この新聞…。」
アランは握りしめてきた新聞を差し出した。
「あなたが書いたものですよね?」
「そうだ。」
「なぜ?なぜ俺たちのためにこんなことを…?」
「ああ、それが知りたかったのか。」
「見ず知らずのあなたがこんなにまで俺たちの釈放を要求し、実現させてくれた。理由を知りたいと思うのは当然です。」
「ふむ。それもそうだ。では、まずかけたまえ。」

ベルナールはアランに椅子をすすめ、自分もテーブルをはさんで向かいにどっかりと座った。
オスカル・フランソワが言っていたとおりの男だな。
根っからの軍人だ。
粗野だが、下品ではない。
貴族育ちで士官学校卒だと聞いたが、なるほどうなずけるものがある。
ベルナールは記者魂を発揮して、じっくりとアランを観察した。

「まあ、なんだな。一宿一飯の恩義に報いたということだ。」
ベルナールは明るく言った。
本当は一宿一飯どころではなく、銃創が癒えるまでのかなりの期間逗留させてもらったのだが、そういうことにはこだわらないベルナールである。
「恩義?誰へのですか?」
「知りたいか?」
「もちろん!」
ベルナールはなぜかちょっとくやしそうにその名を口にした。
「オスカル・フランソワだ。」
「…!」

ベルナールは、自分たち夫婦が人には言えない恩を、あのオスカル・フランソワから受けたこと、今回、部下釈放のために動いて欲しいと頼まれたことを簡潔に語って聞かせた。
話の折々に自身に都合の悪いところがあるらしく、そのあたりはうまくはしょっていたようだが、大体の流れをつかむには充分だった。
やはり隊長が…。
アランは驚きつつも納得していた。
一体隊長の他に誰がこの世で自分たちのために必死で動いてくれるだろう。
やはりそうだったのだ。
大貴族の後継者であり、フランス軍の准将である人が、パリの下町の新聞記者夫婦と懇意だというのは、にわかに信じがたいことだったが、目の前の記者夫婦は、なかなか訳ありげで、ただの市井の庶民というわけではなさそうだから、きっとなにがしかの関わりがあったのだろう。

「そうでしたか。やはり隊長が…。」
「正直、わたしはあまり彼女が好きではないんだが…。」
ベルナールが言いかけたところに夫人が出てきた。
「あら、そうなの?あんなに素晴らしい方をそんな風に言うなんて、失礼よ。ねえ?」
優しい顔に似合わぬきつい口調で夫人は夫をたしなめ、それから極上の笑顔でアランに同意を求めた。
「妻のロザリーだ。差し入れのパンは妻が焼いた」
アランはびっくりしてロザリーを見た。
「お口に合いましたか?」
ロザリーがにっこり笑って尋ねた。
「今までで最高のパンでした。とても勇気づけられた…。」
「まあ、嬉しい!オスカルさまのために心をこめて焼いたのよ。思いが通じて嬉しいわ。」
ロザリーは菫色の瞳を細めた。

「本来なら新聞社の番地を書くべき所なのだが、今回だけはわたしが一存で引き受けたことなので、自宅の番地を書いたのだ。それが正解だったな。こうして君が訪ねてきてくれて、ロザリーとも会えたのだから…。」
ベルナールは本当に嬉しそうだった。
自分が心血そそいで動いた結果が目の前にいるのだ。
ロザリーの眼前で自身の功績を証明しているようで自然に笑みがこぼれてくる。

「平民議員への武力行使命令を拒否する勇敢な兵士だ。衛兵隊にそういう人間がいると知ってわたしがどれほど感動したかわかるだろうか。」
ベルナールは他人行儀な口調からざっくばらんな口調になって賞賛した。
アランは照れを隠すようにうつむくと、ぼそっと言った。
「俺たちの代表だから…な。殺されたってできないものはできない。」
アランもいつもの言葉遣いになっていた。
ベルナールはそんなアランを暖かく見つめた。
そして思い出したように言った。

「戻ってオスカル・フランソワに会ったら伝えてくれ。約束は守った。今度はそちらの番だ、と。」
「約束?」
「ああ、それでわかるはずだ。」
「交換条件か?」
アランが即座に聞いた。
こいつ、なかなか鋭い、とベルナールは感心した。
「まあ、そんなところだ。」
「聞かせてもらえないか?」
「なぜ?」
「俺たちの釈放のために、隊長がのんだ条件だ。俺には知る権利がある。いや、知る義務がある。」
「なるほど…゜。一理あるな。」
ベルナールは顎に片手をやった。
そして、チロリとアランを見やると簡潔に返答した。
「オスカル・フランソワの除隊だ。」
「…!!」

「驚いたか?無理もない。彼女は生粋の軍人だし、見たところ君も同類のようだ。だが、考えても見て欲しい。彼女自身の処分は王妃の寵愛で取り消されたという。自分の処分は王妃によって、そして部下の釈放は市民によって、というのは、あまりに都合がよすぎないか?われわれ市民が今誰と戦っているかを知っていたら、決してそんなことはできないはずだ。」
「…。」
「本当に部下を助けたいなら、王の庇護から抜け出せ。俺はそう要求した。暴動につながれば人命にかかわることを市民に依頼するのだ。それぐらいの覚悟がなくて誰が動ける?市民に呼びかけて部下を救って欲しい、という彼女の要求は、フランス軍の准将としての立場でできるものではない。」

ベルナールはとうとうと述べ立てた。
この調子で市民に演説してくれたのだろう。
アランは、異を唱えることはできなかった。
まったくの正論だ。
市民は王に対し、釈放を要求してくれたのだ。
自分たちの代表に刃を向けることを拒否した兵士たちに同感し、その釈放に向けて集まり行進してくれたのだ。
場合によっては暴動に発展し、軍の標的になったかもしれない危険をおかして…。
それはひとえに、自分たちの味方と信じる兵士のためだ。
決して王妃の寵臣のためではない。

「わかるな?」
ベルナールはおだやかに聞いた。
アランはこくりとうなずいた。
「オスカル・フランソワもわかった。君と同様にね。そして受け容れた。約束は成立し、俺は自分の仕事を果たした。こうしてここに無傷の君を迎えることができたのは、大きな喜びだ。」

アランは何も言うことが出来なかった。
「必ず助け出してやる、待っていろ!」
二階の窓から大声で叫んだ隊長は、その言葉通り、自分の職務をかけてその約束を果たし、そしてこれから、市民との約束を果たすのだ。
隊長…、あなたは馬鹿だ…。
俺たちのために、華々しい自身の経歴を捨てるのか。
そうまでしてでも俺たちを…。

黙り込んだアランにロザリーが言った。
「オスカルさまは、あなたたちが釈放されるまで、ご自分も食事や睡眠はとらない、とおっしゃったそうです。アンドレが無茶ばかりするとこぼしていました。お元気そうなあなたたちを見てどんなに喜んでらっしゃることでしょう。お身体にご無理がなければいいのですが…。」
ベルナールの除隊につづくこの言葉は一層アランの心を重いものにした。
隊長はいったいどれほどのものを自分たちのために捨てたのだろう。
アランは、丁寧に礼を述べシャトレ家を辞した。














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葛  藤 

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