オスカルはよく眠っていた。
「まったく…。人の気も知らないで…。」
どんなに心細く思っているだろうと、急ぎ足で戻ってきたら、オスカルはすやすやと寝息を立てていた。
「それでこそオスカルだがな。」
やれやれ、とアンドレは寝台脇の小さな椅子に腰掛けた。
先ほどは最後まで顔を見せてはくれなかった。
掛布を頭の上までかぶり、声も出さなかった。
唯一与えられたのは、手のひらで、自分はそれを大切に握りしめくちづけた。
無理もないことと思い、決してとがめず、顔を見せるよう促すこともしなかった。
あれほどあり得ないと否定していたのだ。
今さら見せる顔がないのだろうということは明らかだった。
わざと知らないふりをして、あえて事務的なことだけを話題にした。
そしてその事務的なことを急いで片付けて戻ってきたら…。
寝顔は落ち着いていた。
衝撃は大きかっただろうに、苦悩の影は見えなかった。
むしろ満ち足りたように、笑みすら浮かべているように、穏やかな様子だった。
何か吹っ切れたのだろうか。
もともとオスカルは決断が早く、それにともなう覚悟も時を待たない。
そういうところは本当にだんなさまとよく似ている。
軍人として必要不可欠な資質ではある。
戦闘時は、振り向く暇なく前進し、活路を見出さなければ、命の保証がないのだ。
すぐれた軍人ほど、切り替えが早いものだ。
だんなさまもオスカルも、全力疾走で人生を駆け抜けてきた。
卑怯なことを嫌い、手抜きを退け、全身全霊を任務に捧げてきた。
これはきっと神さまの下さった休暇なのだ。
フランスという国家が、有史以来の想像もつかない混迷にはまりこみ始めたこの時期に、先頭を切って飛び込んでいくに違いない父子に、それまでのけなげな生き方に免じて、神が救いの手をさしのべてくださったのだ。
オスカルの体内に宿った命は、神からの使いに違いない。
この命はジャルジェ家の救世主なのだ。
そしてその父親役に自分が選ばれたのだとしたら、なんと光栄なことだろう。
アンドレはそっとオスカルの頬に手を添えた。
軍を辞めることも、大勢の親しい人と別れることも、ベルサイユを去ることも、哀しい切ないことに違いないが、それらを補って余りある恩恵が与えられたのだ。
今は、ただ無事に…。
母子ともに健康に…。
それのみを願い、そのためだけに動こう。
子の父に選ばれた誇りを胸に秘めて…。
そのためには、だんなさまや奥さま、そして姉上方のお力添えを、遠慮無くお願いしよう。
また、多くの仲間に秘密を抱える後ろめたさにも甘んじて耐えよう。
きっとそれら一切を神はお許しになるだろう。
なんといっても、神が授けたもうた命なのだから…。
白い頬をさすっていると、オスカルの瞼がわずかに開いた。
アンドレは黙ってのぞきこんだ。
「アンドレ…。」
オスカルは、小さい声で呼んだ。
「おとなしくしていたぞ。」
えらいだろう?と言わんばかりの口調に、思わずアンドレの口元もゆるんだ。
「いばるな、あたりまえだ。」
たしなめる言葉を口にしながらも、愛しさがこみあげてくる。
「今度のことでつくづく感じたのだが…。」
オスカルが笑いながら言った。
「この世に母ほど恐ろしいものはないな。」
アンドレは、今度こそ吹き出した。
自分は早くに母を亡くした。
覚えているのは、優しい面差しと、自分を呼ぶ柔らかな声。
それとて、記憶のかなたに消えかけて、今では、おばあちゃんの顔とだぶってしまい、思い出そうとしたことを激しく後悔するのがオチだった。
「まあ、俺のおばあちゃんへの恐怖感と似たようなものか…。」
つい情けなさののこもった返答をしてしまった。
今度はオスカルが吹き出した。
「母上が聞いたら絶句なさるだろうが、確かに共通点が多い。いや、酷似している。」
「それ、あまり言わない方がいいぞ。おまえも母になるのだから…。」
オスカルはびっくりして、それから笑い出した。
「なるほど。そう言われればそうだ。まったく実感はないがな。」
それでいい。
実感などしなくていい。
おまえは、ただ心安らかに、身体をいたわっていればいい。
あとのことはすべて俺が引き受ける。
「俺だってそうだ。」
安心させるように優しく言った。
そして掛布をそっと肩までかけなおした。
「もう一度眠った方がいい。」
「ああ、そうしよう。良い夢を見られそうだ。」
仮眠室の開け放した窓から、涼しい風が吹いてきた。
サワサワ、サワサワと枝を揺する音が子守唄のように聞こえ、レースのカーテンが幸福な二人を包み込むように翻った。
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