仮眠室の向こうの司令官室からパタンと扉の閉まる音がした。
どうやらアンドレは出て行ったらしい。
オスカルはそっと掛布から顔を出した。
額が汗まみれになっている。
腹部の違和感は随分おさまってきた。
てっきり遅れていたものがはじまったと思ったのに…。
そら見ろと、アンドレや母上たちの鼻をあかしたと思ったのに…。
そっと自分の腹に手をやってみる。
とりたてて膨らんでいるわけでもない。
むしろ食事が取れなくて常よりもやせているようにさえ感じられる。
つわりだったのだろうか。
だが、そう言われても、つわりの経験がないのだから、それがつわりかどうかわからないのは当然ではないか。
すっぱいものを欲するのは、妊娠の特徴だというが、ではル・ルーはどうなのだ?
いかにあいつが常人ではないとはいえ、いくらなんでも妊娠しているわけがない。
味覚など千差万別なのだ。
そんなことで妊娠だと言われても、到底信じがたいのは当然だ。
月のものは、いつだって不規則だった。
幸い、どこかが痛いとか、精神的につらいとかいうことも全くなく過ごしてきた。
分量や期間など考えたこともなかったが、おそらく人より少量で短期間に済むほうだったのだろう。
それは男として生きる自分に神が与えてもうた恩恵だった。
しかるに…。
これはまた、なんという恩恵であろうか。
自身の体内に新たな命が宿るとは…!
想像もしないことだった。
「おまえ、えらいところに来てしまったな。」
自分の腹を見つめながら、微笑みが洩れた。
子どもには親を選ぶことができない。
こんな無自覚な母のところに宿ってしまって、いきなり命の危機だ。
生まれながらにして、いや生まれる前から、ずいぶん過酷な運命だな。
男として育ったわたしより、まだひどい。
わたしは、生まれてからはともかく、少なくとも母の体内にいるときは、充分人並みに大切に扱われたに違いないのだから…。
「すまなかった。」
誰とも無く素直な詫びの言葉が口をついて出た。
新しい命に、両親に、姉たちに、部下たちに、そしてアンドレに…。
多大な迷惑をかけた。
蒙った恩恵に倍するだけの心痛を与えてきた。
今、こうして寝台の上でじっとしていると、諸々のことが頭に浮かび、そして消えていく。
怒濤のような日々。
息つく間もない任務と、複雑にからみあった人間関係。
走り続けてきた自分を、腹の中の、まだおそらく形にもならない小さな命が、ひきとめた。
止まれ、動くな、と。
じっとしているのが嫌いだった。
というよりも怖かった。
何かしていなければといつも焦っていた。
男であるために…。
そのままでいたら絶対に女だから、男になるためには何かしていなければならないと思っていた。
だが、今、動いてはならない。
じっと静かにしていなければ、この小さな命は天に帰ってしまう。
やらなければならないことは山のようにある。
軍隊を辞すことをダグー大佐や部下たちに告げねばならない。
そして後事を託さなければならない。
こんな時に…。
それだけが身を切られるようにつらい。
兵士の思いと反する命令が下される可能性はますます増している。
命令拒否者がまた出ないとは言い切れない。
ともにあってこそ、その痛みも悲しみも理解でき、また喜びをわかちあえるのに…。
だが、今は、全てのことに優先して、自分の体内の命を守る必要があった。
なぜなら、この命は自分とアンドレの命から生まれたものだから…。
あまりに意外で事態の受容に拒否反応を示してしまったが、さすがに腹は決まった。
腹の子が腹を決めてくれた。
フフフ、と笑い声がもれてくる。
オスカルは、優しく自分の腹部をさすった。
繰り返し繰り返し、壊れ物を触るように…。
そして母子ともに静かに眠った。
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