人生でこんなに腹が立ったのは初めてではないか、とクリスは思った。
医者の診断を、母親とグルになった策謀だ、などと、どこの世界の人間が思うだろうか。
基本的にジャルジェ家の人々は常識が世間一般と大きくずれていると認識していたが、ここまでとは思わなかった。
馬鹿にしている、というよりは、あまりに相手の方が馬鹿だ。
クリスは衛兵隊の本部から乗った辻馬車をすぐにジャルジェ家に向けて走らせた。
ジョゼフィーヌが、自分の屋敷ではなくこちらに来ているのは聞いていたし、この際ジャルジェ夫人や他のお姉さま方にも、この重大な事態の変化を報告する義務があると考えたからだ。
「お引っ越しはできません。オスカルさまは、今動かせません」
と告げねばならない。
せっせと準備に励んでおられる皆さまはどんなに驚かれ、落胆されるだろう。
ジョゼフィーヌが、クリスの手を取って、涙ながらに御礼を言ってから、わずか一週間。
流産の危機です、などと申し上げなければならないなんて…。
言いたいことを、決して包み隠さず、率直に述べるジョゼフィーヌは、クリスのパトロンとして、精力的に援助の手をさしのべてくれていた。
「女の軍人の姉ですもの、女の医者のパトロンをしても、なんにも不思議はないわ。」
ジョゼフィーヌは、コロコロと笑って言ったのだ。
「クリス、自分の信じることをなさい。わたしはあなたが大好きよ。」
どこの貴婦人が、こんなことを正々堂々と、相手の目を見て言えるだろうか。
クリスは、こう言われたときの感動と感謝を生涯忘れないだろう。
案の定、ジャルジェ家の貴婦人方は、クリスの報告を聞くと、全員蒼白になってしまった。
「なんと言うことでしょう!もうすっかり準備も整ったのに…!」
マリー・アンヌはガラガラと音を立てて崩れていく自身の予定調和に言葉が続かない。
「それで、オスカルの様態は?命の危険などないのでしょうね?」
真っ先にオスカルを案ずる言葉を発したのはカトリーヌだ。
「はい。決して動かないようお願いして参りましたから、それを守ってくださってさえいれば、母子ともに大丈夫だと存じます。」
クリスはきわめて事務的に返答した。
「まったく、正真正銘の馬鹿だわね!」
一刀両断に切り捨てたのは、ジョゼフィーヌだった。
クリスは、心底同感し、失礼と思いつつ大きくうなずいた。
「お母さまがお聞きになったら、どんなにご心配なさるでしょう。それでなくともひきこもりのお父さまにつきっきりで疲れておいでなのに…。」
カトリーヌがオスカルに続いて母を思いやる。
「お父さまだって、ようやく出発を決断してくださったのに…。」
これまた予定通りに進めていたことがつまずいた繰り言が、マリー・アンヌの口からこぼれ出る。
「しかたありませんわ。とりあえず、お父さまとお母さまだけでご出発なさるか、それともオスカルが動けるようになるまで、こちらにお留まりになるか、それをご相談しなければ…。」
ジョゼフィーヌは結論を急ぐ。
「どちらがいいかしら?」
カトリーヌが首をかしげた。
「アラスには7月初めに到着、とすでに連絡済みだわ。」
マリー・アンヌがため息をついた。
「本当に、馬鹿につける薬をつくってちょうだいな、クリス。」
ジョゼフィーヌが真顔で言ったので、クリスは思わず
「かしこまりました。」
と答えそうになり、あわてて思いとどまった。
「とにかく、今からお母さまの所にまいりましょう。クリス、悪いけど、同席してくださるかしら?医師としてのあなたの判断が一番重要ですからね。」
ジョゼフィーヌの言葉にクリスは、今度はきちんと声を出して答えた。
ジャルジェ夫人は、娘の言葉を聞くや、フラフラと倒れかけた。
あわててカトリーヌが駆け寄り、長椅子に座らせた。
「なんということでしょう!」
それだけ言うと、夫人は両手を胸の前に組み祈りの言葉を続けた。
「奥さま、どうかご案じなさいませんよう。オスカルさまが安静にさえなさってくだされば、きっとご無事に臨月をお迎えいただけます。」
クリスが心のこもった言葉を夫人にかけた。
「そうなのですか?」
夫人がいかにも心細げに尋ねた。
「はい、さようでございます。わたくしもできるだけオスカルさまのもとにまいるようにいたしますし、わたくしの都合がつかないときは、替わりのものをまいらせます。どうかお気をお取り直しくださいませ。ご心痛から奥さまがお倒れになどなりましては、皆さまがあまりにお気の毒でございます。」
三人の娘はそろって感謝のまなざしでクリスを見つめた。
そしてマリー・アンヌが母に進言した。
「ことがこうなりました以上、ご出立を延期なさるか、それともお母さまとお父さまだけが先に行かれるか、ご決断いただかなくてはなりません。」
夫人は顔を上げた。
「そんな危険な状態のオスカルをどうして置いていけましょう。たとえお父さまが行くとおっしゃってもわたくしは残ります。」
迷う隙間などこれっぽっちもない決断だった。
どこまでも、いつまでも、という美しい決意も、娘の命の危機の前にはなんの力もないようだった。
「お母さまが残られるなら、お父さまもお残りね。」
ジョゼフィーヌが当然のように言った。
マリー・アンヌとカトリーヌも躊躇なく同意した。
「さて、では、今から予定変更を皆に告げてこなくては…。」
「まったく、何もかも一からやりなおしね。」
「クロティルド姉さまやオルタンス姉さまにお手紙を書き直さなくてはならないわ。」
三人はこれからすべきことを次々と語り続けた。
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