帰 去 来
「たった今、伯爵の称号と領地を捨てる、と宣言したのだぞ!どの面下げてこんな豪華な馬車に乗れと言うのだ?!」
本部の正面ではなく、裏口に一応こっそり≠ニいう形で用意された馬車を見て、オスカルは激しく抗議した。
こっそり≠ヌころか、甚だしく存在感を誇張する大型四頭だて馬車は、ジャルジェ家所有の中でも、もっとも豪華なものだった。
「これくらい頑丈で安定性がなければ、危険でございます。マリー・アンヌさまはもっと上等のものを公爵家で用意してご自身がお迎えに来られる、とおっしゃいました。それをわたしがお止めしたのですから」
これでも妥協の産物だと言わんばかりの勢いでクリスは装飾満載の扉を開けた。
日頃は父の将軍が謁見などの公式行事で宮廷に参上する際使うものだから、オスカル自身もそうたびたび使用したことがあるわけではないが、内装、外装ともに豪華絢爛、スプリングも抜群に安定感がある逸品だった。
「もっと質素なものがあるだろうに…」
恨めしそうにオスカルが馬車をにらみつける。
「せっかくご帰還できるほどに落ち着かれたのです。帰路の馬車で万一のことがありましたなら、奥さまやお姉さまがたがどんな思いをなさることか…」
クリスは、背後にジャルジェ家の女性陣をしょっているかのように発言する。
「安静にさせるためなら、何をしてもいい」というお墨付きを与えられているのだ。
当然ながら、オスカルの帰宅用の馬車には最高級のものを要求した。
「オスカル、皆さまのお心遣いだ。抵抗はあるだろうが、ここはお言葉に甘えよう」
アンドレが、そっと背中を押した。
こんなところで揉めている方がよほど目立つ。
オスカルは渋々ステップを上がった。
「もしおつらければ、横におなりになってもよろしゅうございますよ。わたしとアンドレはこちらに座りますから」
クリスは、アンドレと並んで進行方向に背を向けて席をとった。
そしてオスカルはアンドレがちょうどいい具合に組み合わせてくれたクッションを背中にあてて、幾分足を投げ出すようにして座った。
車内は充分に広く、3人が乗ってもいささかも窮屈ではなかった。
部下に退任挨拶をし、それから久しぶりに自分の足でここまで歩いてきて、さすがに疲れていた身体には、手の込んだつくりが優しくありがたい。
くやしいが、クリスの判断は正しかった。
「さあ、できるだけゆっくりと出してちょうだい」
クリスが窓から顔を出して御者をうながした。
ガラガラと車輪が回り始め、大型馬車は超低速で動き出した。
目立たぬよう、裏手を回り、人通りのもっとも少ない門から宮殿の外に出た。
御者と衛兵とのやりとりから、宮殿を出たと察したオスカルは窓を開けるようアンドレに言った。
中の人間が誰だか気づかれないためにきっちりと閉めていたのだが、宮殿を出てしまえば、締め切っておくのはさすがに暑い。
アンドレはすぐに実行した。
豪華な宮殿が窓枠いっぱいに広がった。
ブルボン王朝の権力の粋を集めて造られた、比類無き建築物、ベルサイユ宮殿。
ルイ14世、15世、16世という三代の栄華を誇示してやまない華やかな王宮。
オスカルの青春のすべてが、ここにあったと言っても過言ではない。
近衛隊として、あるいは衛兵隊として、この宮殿の内外を文字通り身命を賭して守ってきた。
それらが守るに足るものだったのかどうか、最後に王命に背いた身としては悩ましくも切なく、早急な判断はできない。
それでも、自分は一片の悔いもない、とオスカルは思った。
神の愛に報いる術も持たないほど小さな存在ではあるけれど、自己の真実のみに従い一瞬たりとも悔いなく生きた。
愛し、憎み、泣き…。
人間が長い間繰り返してきた生の営みを自分はまさにここで、一人の人間としてなしてきたのだ。
それは間違いのない真実だった。
今、こうしてここを去れば、再び戻ることはない。
二度とお目にかかることのない人々の面影が次々に浮かんだ。。
愛を込め仕えたロココの女王マリー・アントワネットさま、ルイ16世国王陛下、ルイ・シャルル王太子殿下、マリー・テレーズ内親王殿下、そして、そしてフェルゼン伯爵…。
遠ざかる宮殿が、日の光に輝く。
まぶしい夏の日差しが、庭園の緑にふりそそいでいる。
こうして袂を分かっても、自分はいついつまでもあなたたちの幸福を祈り続けるだろう。
すべての人をへだてなく照らすこの陽光のように…。
オスカルは、馬車が向きを変えて見えなくなる寸前まで、目をこらして宮殿を見つめ続けた。
そんなオスカルの様子をアンドレは一言も発することなく見守っていた。
アンドレとてここで青春を過ごしたのだ。
オスカルのあるところ常に彼の姿があったのだから…。
それは近衛兵であるオスカルの従僕としてであったり、あるいは衛兵隊長であるオスカルの部下としてであったり、というふうに彼女の変遷とともに姿を変えながら、けれどもそばにいる、という一点において、終始かわることなく、彼はあり続けた。
アンドレの青春の全てがオスカルとともにあった。
青い瞳を輝かせ、ブロンドの髪をひるがえし、馬上豊かに指揮を取るオスカルの姿が思い出された。
その姿はさながら天に吼ゆるペガサスの心ふるわす翼にも似て、魂身を捧げるに一片の迷いもなかった。
長い片恋の日々、報われて余りある日々。
重ねてきた日々のすべてにオスカルがある。
そして悔いはない。
アンドレの瞳は遠ざかり行くベルサイユ宮殿ではなく、ただ目の前のオスカルにそそがれていた。
これからオスカルがどこに行くのか、どのように生きていくのか、考えるべきことは山積みだ。
けれどもたとえどんな展開になっても自分はオスカルとともにあるだろう。
それが自分にとって最高の幸福だと、アンドレは知っている。
時を経て変わらぬ思い、変わらぬ愛しい人、それを得ている幸福は何ものにも変えがたい恩恵だ。
彼は誰にも聞こえないよう、心の中で、そっと、けれども力強く、彼自身の思いを言葉にした。
常に思ってきたこと、そしてこれからも思い続ける、彼の信念ともいうべき言葉だった。
「ときはめぐりめぐるとも 命謳うものすべてなつかしきかの人に 終わりなき我が思いをはこべ…」
軍を去り、王宮を去り、過去に連なるすべてに決別して、新しい道へ旅立つ。
フランスが新しい道を模索しているように、オスカルの人生もまた手探りしながら築いていかねばならない。
その第一歩として、何よりも、まず、無事に出産しなければならない。
オスカルの手は、いつの間にか、下腹に添えられ、無意識のうちにそこをかばう体勢となっていた。
静かに馬車が止まり、御者が屋敷に到着した、と告げた。
車内は不思議な静寂に包まれ、誰も動かなかった。
それぞれが、それぞれの中で何かを噛みしめるような沈黙が続いた。
「帰って…きたんだな」
オスカルがポツリとつぶやいた。
部下釈放の知らせを受けて飛び出してからちょうど10日。
オスカルとアンドレは、新たな出発をするために、帰宅した。
「出て行くために帰ってきたわけか…」
複雑な表情を浮かべるオスカルに、アンドレが明るく言った。
「オスカル、とりあえず回復できて、無事に戻って来られたのだ。先のことを考えるのはあとまわしにして…」
アンドレは、御者が開けてくれた扉からさっと降り立った。
そして、オスカルに向かって迷うことなく真っ直ぐに手を差し出した。
「さあ、帰ろう」
※帰去来について…
「帰りなんいざ、田園将に蕪れなんとす、胡ぞ帰らざる」という陶淵明の「帰去来の辞」にある有名な語。うかうかと面白おかしく歳月を送るのは止めにして、人間本分の事に帰ろうよというものだそうです。この場合のアンドレならば「生命将に産まれなんとす、胡ぞ帰らざる」というところでしょうか。
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「帰去来〜かへりなん、いざ」…さあ帰ろう≠フ意。
き きょ らい