岐  路
 

〜それぞれの…〜

しのつく雨の中、豪奢な馬車がジャルジェ家の門前に止まった。
こんな天気の日に誰だろう、といぶかしがる門番に、仕立ての良いお仕着せを着た御者が、マリー・アンヌの来訪を告げた。
驚いた門番が大急ぎで門扉を開け、雨のため門番小屋で油を売っていた庭師が、全速力で廷内に連絡に走った。
予定調和を何より大切にする公爵夫人が、前触れなしにお来しになるのはことのほか珍しく、というか、かつてなかったことで、使用人たちもみな仕事の手を一旦とめるほど驚いた。
が、そこはよく仕込まれている一同、手際よく応接室を整え、極上のお茶の仕度をし、ジャルジェ夫人が姿を現したときには、まるで連絡済であったかのように、接客の用意ができていた。

夫人が腰掛けるのとほぼ同時に、マリー・アンヌが執事の先導で部屋に入ってきた。
「足下の悪い中、どうしたのですか。」
母がゆったりと尋ねる。
「突然申し訳ありません。どうしても気になることがございまして…。」
夫人は扇を揺らして座るよう長女にすすめ、それからもう一度尋ねた。
「さて、なにごとでしょう。」
マリー・アンヌは母の向かいの椅子に座った。
そして執事に退室するよう目配せした。
彼は慇懃に指示に従った。

「オスカルは、いつも通り出仕したのでしょうか。」
二人きりになると、母の問いにすぐには答えず、マリー・アンヌは逆に問いかけた。
「もちろんです。」
夫人は茶器を手に取った。
「今日は、国王陛下のもと、すべての議員が集められているのでございますね。」
マリー・アンヌは扇を開きながら言った。
「そのようですね。」
それが何か?という風に夫人は娘を見た。
「オスカルの任務は大層厳しいものでございましょう。」
長女の六女への思いやりに母はほろりとする。

わが娘ながら、見事な貴婦人である。
生まれてまもなく許婚者を決め、若くして家格の高い家に嫁がせた。
先代当主の意向は絶対だった。
夫も名誉なことと手放しで賛成していた。
男の思惑に否応なく従い、人知れぬ気苦労を重ねたであろうに、それらを吸い上げて咲く大輪の花のように、娘は押しも押されもしない公爵夫人としての地位を築き上げた。
長女は長女の、六女は六女の人生の艱難があったと感慨深く娘を見つめた。

「先日、オルタンスにアンドレへの伝言を頼んだのですが…。」
娘の言葉に夫人はカップを置いて、クスリと笑った。
「ああ、あれね。」
「ご存知でしたか?」
「ええ。オルタンスは確かにアンドレに伝えていましたよ。でも…。」
ほっとした様子の娘に母は付け加えた。
「ちっとも通じていませんでした。」
「え?」
「だって、前後の説明が全くないんですもの。あれでは何のことだかさっぱり…。」
「やっぱり…。オルタンスに頼んでから、思ったのです。人選ミスかもしれない…と。」
「まったくその通りでしたよ。」
マリー・アンヌはがっくりと肩を落とした。
「申し訳ありません。」
「わたくしに謝ることではありません。あなたの愛情は充分わかっています。」
「お母さま…。」

「それで、今日はどうしたのです?」
なかなか本題に入らない娘をうながした。
「実は、オルタンスに頼んだのはアンドレへの伝言だけではありませんでした。」
「?」
「姉妹の家を順番に回ると聞き、それぞれに伝言を頼んだのです。」
「そうでしたか。あなたらしい配慮ですね。」
「恐れ入ります。カトリーヌとジョゼフィーヌには、アンドレをいたわってやって欲しい、と伝えさせました。とても大変な立場に追い込んでしまっていますから。」
「なるほど。それで?」
「昨日カトリーヌにあいましたら、オルタンスの説明がなかなか理解できなくて困ったと笑っていました。」
「でしょうねえ。」
「アンドレについては、決して心配はいらない、というのがカトリーヌの申し分でした。わたくしたちよりずっとオスカルのことをわかってくれているのだから、と。そして変にこちらが気を使うと、かえって負担をかけるから控えた方がよい、とも申しました。」

母ですら、公爵夫人である長女には若干の遠慮があり、なかなか思うまま意見できないときがあるのだが、四女のカトリーヌは、たおやかでありながら言うべき事はしっかり姉に言っている。
夫人は密かに四女に拍手を送った。
「カトリーヌはなかなか申しますね。」
「はい。けれども正しい意見ですから…。」
懐の深い返答をする長女を、夫人はあらためて見直した。
見た目だけではなく中身もまた、母の知らぬ間に大きく成長している。
「さすがですね。」
母の賞賛に少しはにかんだように笑いながら、マリー・アンヌは続けた。
「おそらくカトリーヌの言うとおりだと思い至りまして、今日ジョゼフィーヌのもとに参り確認いたしました。わたくしの伝言で何か行動をおこしたか、と。」
夫人のカップを持つ手が止まった。
それを見て、マリー・アンヌは扇を閉じ、膝に置くと、頭を下げた。
「申し訳ありません。ジョゼフィーヌは素直なよい子です。わたくしの言いつけをすぐに実行に移してくれたようで…。」
「それはもう見事なくらいでしたよ。家中大騒ぎになりましたから。」

ジョゼフィーヌはオルタンスからマリー・アンヌの伝言をきき、特製ジュースを作り、毎日届けさせた。
そのジュースは激務で帰宅しないオスカルとアンドレの口には入らず、善良なる使用人を次々と撃沈させていった。
栄養満点かつ美味ならざることこの上ない代物だったからである。

「よい子なのです。」
「わかっています。」
「悪意はありません。」
「重々承知しています。」
「随分ご迷惑をおかけしたのではありませんか?」
「無害であったとは申せません。ただ…。」
「何か?」
「不思議なことに、当のオスカルには害がなかったようです。」

マリー・アンヌが大声を出した。
「それなのです!」
夫人が驚いて目を見開いた。
「どれです?」
「オスカルが苦もなく飲み干したということですわ。」
「味覚は人それぞれですからね。」
「ジョゼフィーヌは勝ち誇ったように申しました。オスカルがありがたく飲んだ、と。まあ、日頃の二人の関係からして、オスカルがおとなしくジョゼフィーヌからの差し入れを口にするなどあり得ないことですから、それだけ美味であったということだ、とあの子は大喜びでございました。」
「なるほどね。」
「正直申しまして、ジョゼフィーヌのジュースは人間の飲めたものではございません。わたくしが昨年の今頃体調をこわしましたとき、あの子は同じものを届けてくれました。気持ちは大変有り難かったのですが、回復よりは悪化の手助けをしてしまう、というものでございました。」
それはおそらくそうであろう、と夫人は大きくうなずいた。。
あれを飲んだ使用人達の顔がまったくもってはっきりとそれを証明している。
もちろんあからさまに夫人に向かってまずいというものは一人もいないが…。
そして夫人自身は決して口にしていないので、評価することはできないのだが…。

「ところが、そのときわたくしの侍女のひとりが、すっぱいけれどおいしい、と申しました。」
「まあ…。」
「その侍女は…。」
マリー・アンヌはゆっくりと続けた。
「昨年末、出産いたしました。」

夫人は大きく息を呑み、娘を見つめた。
雨の中、前触れもなしに、公爵夫人たる娘が息せき切って自分のもとにかけつけてきた真の理由を、ジャルジェ伯爵夫人はようやく理解した。





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