紺 碧 の 空
1789年5月5日、ロテル・デ・ムニュの大広間において三部会の開会式が挙行された。
大歓声に迎えられた国王と、凍るような沈黙に包まれた王妃の登場場面の格段の違いが、さすがに無頓着なアントワネットにもこたえたが、国王の悲しげな表情に同情した一部議員から、王妃万歳の声があがり、結局深刻な事態への認識はその場限りのものとなった。
ただ、あえて王妃のために弁明するならば、このときの彼女の最大の関心事が重篤の王太子であることは、一女性としても一母親としても当然のことで、世紀の式典が時を同じくして行われる事態こそが不運と言うよりほかなかったのだ。
予測されたことではあるが、三部会は当初から波乱含みで、何らの決議をあげることもないまま、ただ混乱だけが続いていた。
衛兵隊員は、交代の時も武装解除せず、常に非常事態発生に備えるよう指示されていて、会議場の周囲に常時配置されていた。
オスカルはアンドレを伴い、警備にあたる彼らのもとを巡回し、議場内の情報を収集して、時代の流れの行く先を見据えようと試みていた。
会議の様子を知りたいのは、何もオスカルに限ったことではなく、兵士たちは、議場内の声が聞こえる持ち場にあたったものを見つけては、その討議の内容を知ろうとした。
中にはちゃっかりと情報料をせしめて一稼ぎしているところをオスカルに見つかり、結局無料でオスカルに本日の会議報告をさせられるものもいたりして、厳しい状況ながらも、衛兵隊員の日常は規則正しく過ぎていった。
アランも衛兵隊入隊以来かつてなかった勤勉さで任務に励んでいた。
もともと軍人としての能力は充分に持っていたが、なすべきことに対する意欲を完全に喪失していたためにいい加減な態度をとっていただけで、現在のように、俺たちの代表を守るのだ、という動機付けが明快になれば、誰よりもまじめかつ熱心に仕事をしている。
とはいえ、フランソワやジャンにしてみれば、本来曲がりなりにも貴族である彼が、俺たちの代表、と言うときは、平民議員をさすのか、貴族議員をさすのか、どっちだろうね、とこの日もこっそり笑いあった。
急に真面目になった彼に対するささやかな反抗だったが、談笑していた二人は頭を両側から突然押さえ込まれ、
「平民に決まってるだろうがあ!」
と怒鳴りつけられた。
「ヒェ〜!アラン。どっから湧いてきたの?」
フランソワが叫んだ。
「うるせえ!人をボウフラみたいに言いやがって…」
この野郎、この野郎、と一層アランは頭を押さえつけた。
「ボウフラみたいにちっちゃくないじゃないか」
ジャンが小声でつぶやいた。
「俺をボウフラ以下と言うかあ?!」
アランは大声で怒鳴り、頭を押さえた上に足蹴りまで始めた。
「こらあ!何をじゃれあっておるかぁ!」
オスカルとアンドレが近づいてきた。
「もう、アランが大声出すから隊長に見つかっちゃったじゃないか…」
フランソワがブツブツとこぼした。
「仲間内でもめてどうする? ん? 班長、おまえがそれでは示しがつかんぞ」
オスカルはようやく二人を解放したアランに向かって言った。
アランはプイと横を向く。
「どうしたんだ?」
オスカルは仕方なくフランソワに聞いた。
「アランはすぐ俺たちの代表って言うけど、それって平民議員と貴族議員のどっちだろうって話したら…」
「なるほど」
「フン!俺は貴族なんかじゃない」
アランが毒づいた。
おふくろだってやめたぐらいだ、俺がやめないでどうする?と、鼻息の荒いアランである。
「そうか。アランは貴族をやめたのか…」
オスカルはアランの言葉を繰り返した。
「でもさあ、貴族って勝手になったりやめたりできるものか?」
フランソワが素朴な疑問を口にした。
オスカルはハッとしてアンドレを振り返った。
勝手にやめられたら…。
けれど一瞬で表情を戻し、つとめて冷静にフランソワに言った。
「普通は国王陛下のご命令で決まる」
「けっ、人の人生、いくら国王でも勝手に決められてたまるかってんだ。貴族か平民かなんぞ馬鹿らしい。俺は俺だ。そしておれが第三身分の議員を自分の代表だと思ってれば、それで俺の中では決まりなんだよ。そんなこともわからねえのか?」
アランはやってられない、とばかりに背を向け、
「持ち場に帰るぜ」
と言うと、足早に立ち去った。
「アラン、待ってよ〜!」
と叫んでフランソワとジャンも走り去った。
その後ろ姿を見送りながら、オスカルは何かとても大切なことを教えられたように感じた。
「そういう考え方もあるのだな」
オスカルはアンドレの隣に並びポツリと言った。
「なかなか刺激的な意見だ」
アンドレが言った。
だが、貴族のアランだからこそ、俺は平民だ、といえるのだ。
平民の自分が、俺は貴族だ、と言うことは決してできないのだ、とアンドレは知っている。
やはり身分は勝手に決められていて、そこから解放されることはない。
国王陛下のご命令…。
身分は国王陛下の思し召し。
貴族の結婚には国王陛下のご許可。
国王の名のもとに定められたさまざまな呪縛。
動きだした時代のうねりは、こういう規定の価値観をもくつがえしていくのだろうか。
そんなことができるのだろうか。
「アランの言うとおりだ。わたしはわたしだ。貴族とか平民とか、そういう類で分類されるのではなく、わたしという一個の人間が、自分の道を決めていけばいいのだ」
いつの間にか殻にこもっていたアンドレにオスカルが淡々と語った。
「ふむ。人間という分類では、貴族も平民も同じだということか」
「そう。どちらも猿ではないからな」
「はっは…!」
アンドレは力なく笑った。
「アンドレ、お互い猿でなくてよかったな」
オスカルがアンドレの背中をポンとたたいた。
「?」
「猿と人間では結婚できないが、人間同士なら誰にも文句は言われない」
貴族と平民は同じ人間でも…とアンドレが思いかけたとき、オスカルが言った。
「アランに感謝する。わたしの身分はわたしが決める。わたしはわたしだ。そしておまえはおまえだ」
「俺のこともおまえが決めるのか?」
アンドレはオスカルの言葉尻を捉えて言った。
オスカルはチロッとアンドレを見やり
「不服か?」
と返した。
そして腕組みをし、本来なら上から見下ろして言いたいところ、物理的に不可能なことがさもくやしそうに、威厳を持って言った。
「おまえはわたしの半分だ。心臓の半分と言ってもいい。だからおまえのことをわたしが決めても何ら不思議はない。不服を言うな。」
アンドレは沈黙した。
それからクスクス笑い出した。
「おまえにはかなわない。」
「あたりまえだ。昔から勝負にはならなかっただろう。」
オスカルはしたり顔で言った。
議場内が休憩に入ったらしく、正面の扉が開いて、中から議員たちが出てき始めた。
「オスカル。」
アンドレがオスカルを促した。
「ああ、すぐに兵士達に集合をかけねばならん。」
オスカルは走り出した。
五月の風に金髪がゆれ、アンドレの鼻先をかすめる。
アンドレはオスカルより先に集合場所へ向かうため、彼女を追い越した。
「こいつ!」
という顔で再び横に並んできた負けず嫌いのオスカルにアンドレはささやくように言った。
「オスカル、悪いが、おまえは俺の半分ではない。」
オスカルはギロっとアンドレをにらみつける。
「おまえは俺のすべてだ。」
そう言うとアンドレは一気にスピードを上げた。
やられた…!
走り去るアンドレの背中を見ながら、今回ばかりは自分の負けだと認めた。
おまえはわたしの半分…という自分のことば。
おまえは俺のすべてだ…という彼のことば。
やりこめられてこんなに爽快な気分になったのは出会って以来これがはじめてだ。
わたしは負けず嫌いのはずだが…。
オスカルは再び走り始めた。
頭上には紺碧の空が広がっている。
そうだ。
もともと人の頭を押さえつけるものはない。
あるのは高い高い空だけだ。
「議場から出た議員をひとりひとり確認しろ!敷地の外には絶対出すな!無理を言う奴には、命の保証はせんと言え!!」
オスカルはすでに集結している兵士達の前に立つと、大声で命令を下した。