お と ぎ 話

三部会開催を前に、議員一同がそろってベルサイユのサン・ルイ教会のミサに参列するための行列は、沿道の市民の沸き立つ歓声の中、粛々と歩を進めた。
アルトア州平民代表のロベスピエールは、定められた質素な黒マントに身をつつみ、沿道警備のオスカルにさりげない目配せをして通り過ぎた。
オスカルより少し年若い彼が、やがてフランスの支配者になるなど、夢想だにしないオスカルは、未来の為政者は、不治の病に苦しみつつも、この行列を見学するためにムードンから戻ってきているルイ・ジョゼフ殿下であるべきだと、切ないほどに希望していた。

日頃の訓練と、オスカルの涙ぐましい事前調整の賜物で、衛兵隊と外国人部隊による沿道警備はつつがなく任務を終了した。
日もどっぷりと落ち、すべての予定を終了して再び整列した衛兵隊員に向かい、オスカルは心からねぎらいの言葉をかけた。
そして、今日で終わりではなく、今日が始まりであることを各人がしっかりと自覚して、明日の開会式以降の任務に細心の注意と緊張感を持って当たるよう訓辞した。
兵士たちは、まる一日の激務を終えてすっかり疲労していたが、実際に誇らかに行進していた自分たちの代表である平民議員を目の当たりにし、その警護をするのだ、という任務の意義をしっかりと認識したことで、誰もが晴れやかな顔付きになっていて、オスカルの解散の号令に見事な敬礼で答えた。

夕食を終えると夜勤のものをのぞき、兵士は全員営舎にひきあげ、オスカルも司令官室に戻った。
アンドレは一隊員として営舎に寝台が割り当てられているので、そちらに行かねばならない。
まさか司令官室で供寝をするわけにはいかないのは当然のことだった。
オスカルは仮眠室として使用している続きの小部屋に入り、軍服の上着だけ脱ぐと、倒れ込むように寝台に横たわった。
身体は疲れ切っているのだが、張り詰めた精神状態が、快適な睡眠から彼女を遠ざける方向に作用し、目は閉じたものの、頭は休息してくれない。
だが、とにかく身体だけでも休めなければ明日から持たない、ということは疲れた頭でもよく理解できるので、彼女は絶対に目を開けないよう心がけた。
眠れないときは、無理にでも目をつぶり、羊の数を数えるとよろしいんですよ、というばあやの教えを実践する絶好の機会だな、などと、心に余裕を持たせて、羊が1匹、羊が2匹…と唱え始めた。

羊が756匹まで来たとき、仮眠室の扉が開き、うっすらと光が差した。
ここの合い鍵を持っているのは彼だけだ。
オスカルが固い決意のもとにしっかり閉じていたまぶたをそっと開けると、案の定、燭台を手にしたアンドレが半分開けた扉から中をのぞいていた。
「次は757匹めだ。」
と、いたって平静に言った、
「やっぱり起きていたか。」
と言いながら、彼は寝台の脇へやってきた。
その問いを無視して
「758匹。」
と小さく唱える。
するとアンドレが
「759匹。」
と続いた。
「760匹。」
と言いつつオスカルは笑い出した。
「一緒に羊を数えるためにわざわざ来たのか?」
幾分かの皮肉をこめた。
軍服のままのアンドレは片手で椅子を寝台脇に引き寄せ腰掛けた。
そして手近な小テーブルの上に燭台を置いた。
ゆらゆらと蝋燭の炎が揺れた。

「世紀の式典に興奮して、若い奴らがなかなかおとなしくならなくてな。」
アンドレがさも困ったように言った。
「いたしかたあるまい。」
と言いつつ、オスカルは実はそんなことにまで意識が及んでいなかった自分の、隊長としての不明を少しく恥じた。
そんなオスカルに頓着せずアンドレは続けた。
「なんとか全員寝台に放り込んで、ハタと気づいた。」
「なにに?」
「こいつらでさえこれなら、血は足りないけど血の気の多いかの人はどんなに眠れないことだろう、とな。」
声に笑いが含まれている。
オスカルががばっと起き上がった。
「わたしがあいつらのように興奮していると?」
「違うか?」
アンドレはオスカルの顔をにぞきこんだ。
「確かに…。疲れて眠れないのかと思ったが、興奮して眠れなかったのか。」
オスカルは冷静に自身を見つめ分析した。
「兵士たちには自覚して行動しろ、と言う割りにこれだからな。」
アンドレはクスクスと笑った。
「うるさい。」
オスカルはアンドレに背を向け、再び横になった。

「で、どんな方法でわたしの興奮をさまし、眠らせてくれるのだ?」
「選択肢は二つ。」
「言ってみろ。」
「子守唄か、おとぎ話。」
「古典的だな。」
「もっとも効果的な手段とは、もっとも単純なものなのだ。」
アンドレは神父のお説教のように断言した。
「ではおとぎ話を…。」

アンドレは向こうを向いたままのオスカルの髪にそっと手をやり、静かに撫でながら語り始めた。
「むかし、むかし、ずっとむかし…。」
オスカルの背中が震えている。
笑いをかみ殺しているのだ。
「あるところに美しいお姫さまがいました。お姫さまはわずか14歳で誰も知る人のない隣の国の王子さまのもとに嫁ぐことになりました。」
アンドレの静かな語り口に、オスカルははるか遠くに過ぎ去ったひとときを思い浮かべた。

「王子さまは優しい方でしたが、とてもおとなしい性格だったので、お姫さまは話し相手がほしくてたまりませんでした。」
フランスに来たばかりの輝くように愛らしかったアントワネットの姿が脳裏に浮かんだ。
ほがらかで愛嬌たっぷりのアントワネットにとって異国の宮廷はどんなに寂しいものだったろうと、今さらながら胸が詰まった。
「あるときお姫さまは自分に仕える美しい近衛士官に目をとめました。」
おお、わたしも登場するのか…、オスカルは目を閉じたままニヤリとした。
「この士官は大勢の近衛兵の中でもひときわ若く、お姫さまと変わらぬ年頃に見えました。」
当然だ、同い年なのだから…、とオスカルはうなずいた。
「美しい士官は、しかしまたひときわ無愛想で、お姫さまがにっこりほほえみかけても、すました顔をしています。」
失礼な!武官がヘラヘラしている方がおかしいのだ、とムッとするが、
頭に触れる大きな手が心地よく、険しい顔にはならない。
むしろ、少しずつ穏やかな心持ちになっていく。
そうだ、話の中身などどうでもいいのだ、肝心なのはこの声だ、とオスカルは思った。
静かで、落ち着いていて、主張がなくて、今日一日の興奮が吸い取られていく気がする。

「お姫さまはお優しい方だったので、こりずに何度も士官に声をかけてくださいました。そして士官の従者にまでも、天使の微笑みを与えてくださったのです。」
いよいよおまえも登場か…、フフ…。そういえば、アントワネットさまに直々にお声をかけられて、真っ赤になって返答していたな、おまえ…、オスカルは優しげな笑みを浮かべた。
「あるとき、お姫さまは馬に乗りたいとおっしゃいました。」
ああ、そんなこともあった…、オスカルの意識が少しずつ薄れていく。
横乗りの姿勢でアントワネットが乗った馬の手綱はアンドレがひいたのだ。
そして…。
オスカルの呼吸が穏やかになり、身体の緊張が解けていった。

「けれど、お姫さまのお乗りになった馬は、従者の不注意で暴走してしまいました。」
スー…っと寝息が洩れた。
もうアンドレの声はほとんどオスカルには聞こえていないと思われた。

アンドレは、静かになったオスカルの耳に顔を寄せ、オスカル、とささやいた。
だが返事はない。
「これからがいいところだぞ。」
と小さい声で言ってみたが、反応はなかった。
アンドレはそれには構わず話を続けた。
「その咎を問われ、死罪になりかけた従者のために士官は命がけで国王に直訴しました。それを見たお姫さまは、涙ながらに国王に取りなしてくださいました。」
アンドレは燭台を持ち、立ち上がった。
そして静かに眠るかつての美しい士官を見下ろした。
「命を救われた従者は、主人のためにいつか自分の命を捨てようと決心したのです。」
小さな声でつぶやくと、アンドレは扉に向かって歩き出した。

アントワネットさまのご恩を蒙ったのは、オスカルだけではない。
影のように側にいたアンドレにも有形無形に、アントワネットは便宜を図ってくれていた。
「お優しいお姫さまはやがて王妃となり、すべての国民に愛されて幸せに過ごしました。」
そう言ってから、アンドレは歩みを止めた。
本当にそうなってほしかった。
おとぎ話のお姫さまは皆幸せになるものと相場は決まっていたのだから。
あの頃は、長く続いたルイ15世の時代が終わり、若く美しいこの方が王妃になれば、どんなに明るい世の中になるだろう、と誰もが期待していた。
オスカルは誰よりもそれを望んでいた。
無論アンドレもそう信じていた。
この方が王妃におなりになれば…と。

彼は扉まで来ると再びオスカルを振り返った。
それからもう一度寝台に近づくと、ゆっくりとこちらに寝返りして美しい顔を無邪気に見せる愛しい人の頬にくちづけをした。
燭台のほのかな灯りに照らされたオスカルの姿は、夢か幻のような妖しさだった。
当然幸せになるはずだったお姫さまは、時代の流れに翻弄され、最愛の我が子の命すら明日をも知れぬ不幸の中にいた。

そして…。
そして決して起こりえないと思っていた奇跡が、こうしてアンドレの目の前に横たわっていた。
「士官は実は女性で、長く自分に思いを寄せた従者の愛に答え、二人は結婚いたしましたとさ…めでたし、めでたし。」
アンドレは小さく、おしまい、というと今度こそ部屋を出て扉をしめた。
夜のとばりが降り、オスカルの寝息だけが規則正しく聞こえていた。



                                  終わり
                               



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