1789年1月半ば、婚約破棄から自殺未遂を経て、ディアンヌがラソンヌ医師の元で助産の仕事に携わるようになった頃。
突然オスカルがス衛兵隊ベルサイユ駐屯部の司令官室で珍妙な一覧表をアンドレの眼前に突きつけた。
アンドレはオスカルのためにいれてきたショコラを、まさにテーブルに置こうとしていたところだったので、危うく絶品のそれを床一面にまき散らしかけた。
「なんだ、それは?」
危機一髪、ギリギリのところで救ったショコラを、今度はしっかり安全確認してからテーブルに置いて、聞いた。
「面接日程だ」
「面接?なんの?」
新兵入隊の面接は随時行われているが、オスカルが直接関わったことはない。
隊長が面接するのは士官以上だ。
「そんなに大勢の士官候補が来てるのか?」
いたってシンプルな思考の持ち主であるアンドレは素直に尋ねた。
「違う。兵士の分だ」
「おまえがするのか?」
それは越権行為だ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
オスカルのまなじりがつり上がり始めていたからだ。
「つべこべ言わずとにかく見ろ」
説明するのがおっくうなのか、適温の間にショコラを飲みたいのか、おそらく両方の理由でオスカルは命令だけして口を閉じた。
そしてカップを手に取り、ぬるめのショコラを堪能した。
間に合った。
もう少しするとぬるくなりすぎるところだった。
アンドレはじっくりと書類に目を通している。
「どうだ?」
悦に入った顔でアンドレの反応を確かめる。
「要するに、現在在籍している兵士を面接するということだな?」
「そうだ。個人面接だ」
「なんのために?」
「質問の多い男だな…」
いきなり紙一枚突きつけられたのだ。
これくらいの質問はさせてほしい。
とは言わず、アンドレはオスカルの返答を待った。
「ディアンヌのことで、思うところがあった。こんなに日々顔をつきあわせているのに、わたしは部下のことを何も知らない。命を預かる立場にいるというのに…。あまりに無責任だと思った」
真面目だな。
アンドレはため息をつきたかった。
もちろんつかなかったが…。
この忙しい日々の中で、部下全員と面接など、どう時間をやりくりするというのか。
だいたい、部下だって気後れするだろう。
オスカルと一対一の面接なんて…。
時間は取られるし、もしかしたら怒鳴られるだけかもしれないし…
いや、案外喜ぶのかもしれない。
最近の奴らはとみに可愛らしくなっており、牙を抜かれた獣のごとき様である。
隊長は美人だ、と公言するものも出始めている。
つまり、女と認識しているわけだ。
大したものだ。
であれば…。
美人から興味をもってもらい、関心をもってもらえるなら、万々歳…という側面もなきにしもあらずである。
「どうだ?無理か?」
少し不安げに聞かれると、つい正直に答えてしまった。
「案外いいのではないか。奴らも喜ぶかもしれんし…」
「そうか!」
オスカルの顔がたちまち輝いた。
アンドレのお墨付きが出たのだ。
早速実行にうつそう。
近衛の時は、隊士ひとりひとりについて、身分、家柄、時に家族構成から姻戚関係まで把握できていた。
というか、それらすべてに基準があり、一定レベルを満たしていなければ近衛兵になることはできなかったのである。
そういう意味では、不始末をしでかすと、一族郎党に迷惑がかかるため、一人一人に自律を生み、規律が保たれていた。
国王の身辺に仕えるのであるから当然といえば当然の仕組みであった。
だが衛兵隊は違う。
皆、生きるため、もっとはっきり言えば食うために入隊した。
だから食えればいい。
取る側も、使い捨ての兵隊と思っているから、ヘタな個人情報はかえって邪魔になる。
同情してしまえば使えないし捨てられないからだ。
兵士は名前と年齢と出身地だけを聞かれて採用される。
過去は問われないのだ。
どんなにならずものでも、時に前科者でも採用だ。
アンドレがなんの軍務経験もなく、また当時30才を過ぎた年齢でも入隊できたのは、もちろんジャルジェ将軍の肝いりによるところが大きいが、ある意味、こういう衛兵隊のもつ事情も大きかった。
オスカルはそのいわば不文律を破ろうというのである。
「まずはダグー大佐の意見を聞いてみないとな…」
アンドレは当然の流れとしてオスカルに提案した。
「そうか。大佐に聞くべきか…」
「おまえが言い出せば絶対反対とはならないだろう」
「わかった。では大佐を呼んできてくれ」
オスカルは完全に冷めてしまったショコラの最後の一滴を飲み干した。
※ このお話も第1部の「パリ巡回」前後に入るものです
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