連鎖の輪

オスカルは生徒を見くびっていた自分を恥じた。
ルイ・ジョゼフは、ひとしきり双子と楽しむと、すぐに汗を拭き、自室に引き上げた。
「先生のご都合のよいときにおいで下さい。わたしは部屋でお待ちしています。」
彼の残した言葉に深く心打たれたオスカルは、すぐに自分も立ち上がり、ルイ・ジョゼフの後を追った。
もちろん両手に用意した書物と書類をしっかり抱えるのを忘れなかった。
このために来たのだ。
師弟揃って真面目を絵に描いたような光景だった。

アンドレはいつものように同行しようとしたが、それまで機嫌のよかったノエルが、父親が席を離れ扉に向かうのを見るや、火がついたように泣き出した。
隣のミカエルがびっくりしている。
考えてみれば、この部屋にいるのは、いかに親戚とはいえ、双子にとっては見慣れぬ顔ばかりだ。
母はともかく、頼りの父の不在はさすがに心許なかったのだろう。
クロティルドに「おいてきぼりはかわいそうよ。」とたしなめられて、アンドレは客間に残ることにした。
再び戻ってきた父に抱かれるとノエルはピタリと泣き止んだ。

「なんだか母親そっくりね。」
クロティルドがあきれた。
「あなたが戻ってきたら、あっけなく機嫌がなおって…。」
「でも、戻ってくるだけで良かったみたいね。もう降ろしてほしそうよ。」
母の言葉をニコレットが受けた。
事実、ノエルは足をばたつかせて降ろせと主張している。
アンドレはそっとかがんでノエルをミカエルの横に座らせた。
「いるだけでいい、ということか。」
ニコーラが感心している。
遊び始めたノエルの眼中にすでにアンドレはいない。
目の前のミカエルが持っていた人形をとりあげようと狙っているのがありありとうかがえた。

アンドレはどんな顔をしていいかわからず、困り果てた。
父がいるだけでいい娘。
その娘が母親似というならば、つまり、オスカルは「夫がいるだけでいい妻」ということになる。
何も求められない夫というのは、はたしていいのか悪いのか。
複雑この上ない心境だった。
助け船はやはりバルトリ侯だった。
「幸せ者だね、アンドレ。」
侯は優しくほほえんだ。
「えっ…?」
「いてもいなくてもいい、のではなく、いなければならない、ということだからね。わたしのように、しょっちゅう留守をしていて、家族にとっていないのが当たり前の人間からすれば、うらやましい限りだよ。」

ああ、そういうことか…。
本当にそのとおりだ。
アンドレは肝心なことに気づかない自分が恥ずかしかった。
アンドレは静かにうなずいた。
「あら、お父さま。お父さまの存在感は圧倒的ですから、ちょっといらっしゃらないくらいが、ちょうどよろしいのよ。どんなにお留守をなさっていても、わたくしたち、誰もお父さまを忘れたりはいたしませんもの。」
ニコレットがいつものようにかわいい顔で笑った。
侯爵は娘の言葉に目を白黒させた。
クロティルドは困り顔をしつつ、だがあまりに正解で深くうなずいてしまっている。
さらにニコーラが付け足した。
「確かに、ニコレットの言うとおりだ。父上が留守をなさるおかげで、わたしは領地のことも船のことも、責任もって取り組むようになったのだから。」
「兄妹そろってなんとも見事な分析をしてくれるものだね…。アンドレ。今はこんなに愛らしいミカエルたちも、十数年すれば、こうなるのだ。よく覚えておきたまえ。」
侯爵のわざとらしく悲しげな顔に、アンドレは再び笑ってうなずくしかなかった。

「ところで、オスカル・フランソワは随分とたくさんの書類を持っていたけれど、今日は何の講義の予定?」
ニコレットがアンドレに問いかけた。
「ああ、あれは先日のナンシーの叛乱に関するもので…。」
「ナンシーの叛乱?ブイエ将軍が鎮圧したという…?」
「そう。多くの死傷者が出て、オスカルはとても気に病んでいた。なんと言っても直属の上司だった人だからね。」
アンドレが答えると、今度はバルトリ侯が尋ねた。
「確か、ブイエ将軍は、ラファイエット侯と親戚だったね?」
「はい、そうです。今回の件も、実はラ・ファイエット侯の指示だったとのことです。」
「そうか…。王と国民が分断されなければよいが…。」
侯爵は深い憂慮を示した。

オスカルの気がかりもまさにそこにあった。
市民に理解を示しつつ、国王の名誉と地位にも配慮するラ・ファイエット侯やミラボー伯の存在が、ぎりぎりの均衡をとっていることで、現在のフランス政権はかろうじて機能している。
だが、もし彼らがどちらか一方に寄れば、離れた方からの突き上げは際限なく厳しいものとなるだろう。
それはやがて均衡を破り、両者の対立を生む。
だが、市民と王とが再び対立してしまったとき、もはや間をとるものはいない。
今回のできごとは、まさにその可能性を大きく秘めていた。
市民から見たとき、ラ・ファイエット侯爵は完全に国王側に寄ってしまった、となるのだ。
事実、ミラボー伯爵は、王妃との距離を縮めていた。
「王の周りには一人しか男はいない。それが王妃だ。」
彼はそう書き残している。

危険な兆候だった。
ラ・ファイエットとミラボーが危険なのではない。
貴族出身の彼らが、共和制樹立に動くこと自体に無理がある。
彼らが、国王派と見られることが危険なのだ。
国王派が市民派と対立するものと捉えられることが危険なのだ。
ラ・ファイエットとミラボーに裏切られたと思った市民は、同時に、王に裏切られたと思う。
そのとき王に向けられる批判の渦は、はたしてどれほどの激しさをともなうだろうか。

怒りが怒りを呼ぶ。
市民は思い出さなくても良いことまで思い出す。
王妃は外国人だ。
フランスのことなど愛してはいない。
きっと母国をつかってフランスをつぶしにかかる。
革命をつぶしにかかるのだ。
その推測が単なる被害妄想なのか、それとも当たらずとも遠からずなのか。
遠くノルマンディーにいるオスカルには、すでに王妃の真意は測れない。
善意の連鎖があるように、悪意の連鎖もこの世にはある。
幸福の輪があるように、不幸の輪もある。
オスカルが今、ルイ・ジョゼフに講義しているのは、この現実だった。

一時間後、オスカルとルイ・ジョゼフが再び客間に戻ってきた。
深刻な講義だったはずだが、二人の表情に暗さはなかった。
そのことにアンドレは誰よりもホッとした。
「早かったな。」
お茶をいれなおしてやりながら声をかけた。
「準備運動でバテたようだからな。今日は半分で終わった。あとは宿題だ。」
オスカルが片目をつぶった。
「すみません。」
ルイ・ジョゼフが小さな声で謝った。
「お勉強もいいけれど、あなたはまず身体を丈夫にするのが先決ね。」
ニコレットが弟の肩を抱くようにルイ・ジョゼフの背後に回った。
「その通りだ。頭を使うのは体力勝負だ。こんな時代を生き抜こうと思えば、子どもの相手ぐらいでへばっていてはならんぞ。」
オスカルが師匠らしく厳しく言い渡す。
するとさらに厳しい口調でクロティルドが言った。
「あら、馬車の中ですら子どもの相手ができない人が、随分ご立派なことをおしゃいますこと…!オスカルにだけは言われたくない言葉よねえ。ルイ・ジョゼフ。」

グーの音も出ない、とはこのことだ。
オスカルは絶句し、客間は大きな笑い声に包まれた。
やはりここは幸福の連鎖、幸福の輪だった。
アンドレはこめかみをびくつかせるオスカルを促し、帰り支度にかかった。
ミカエルとノエルの目が眠たげに閉じ始めていた。










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