なんの話かと、そろって身構えたふたりに対し、バルトリ侯の口ぶりは意外なほど軽いものだった。
「そんなに真剣な目つきをされると話しづらいな。大したことではないのだ。ただちょっと確認したいというか、教えてもらいたいことがあってね。」
穏やかな侯の瞳に、オスカルもアンドレも肩の力を抜いた。
革命の現実を思い知らされ後だっただけに緊張したが、さほどのことではないようである。

「今回のローマでの買い付け後、わたしは母の実家があるナポリに回った。」
侯の母上がナポリ出身だったことはニコレットから聞いている。
「君も知っての通り、ナポリ王妃はアントワネットさまの姉上だ。祖父が元気な頃には、何度かともなわれてわたしも宮廷にあがっている。」
それもすでに知っている話である。
「今回はクロティルドが初めて同行したのでね、一度雰囲気に触れさせてやりたい、と久しぶりに、宮廷に出向いた。」
なぜナポリ宮廷の話が始まるのか。
オスカルは、出歩けない自分にイライラしているところである。
姉が外国訪問して、楽しんだというようなたぐいの話なら、ごめん被りたい。

「あちらはフランスほど大きな国ではないから、宮廷もこじんまりしていて、新顔はすぐ目につく。案の定、クロティルドは大勢の婦人方に囲まれた。」
いよいよオスカルは、面白くない顔をしている。
アンドレは気が気ではない。
「すると、その中の一人が、お懐かしい、といって突然妻の手を取った。ナポリに一人の知り合いもいないと思っていた妻は、とても驚いていた。無論わたしも驚いた。」
ほんの少し、オスカルも興味を引かれたようである。
「彼女は私たちを人気のないバルコニーに連れ出すと、妻に向かってこう言った。お母さまのジャルジェ夫人はお元気ですか?それに美しい近衛士官だったオスカルさまは?と。」
オスカルはすっと前に向き直り、聞く姿勢に戻った。
遠いナポリで自分を知っている人などいただろうか。

その貴婦人は、うっすらと目に涙を浮かべながらクロティルドに語った。
自分は元々、フランス宮廷で、アントワネットさま付きの女官だった。
アントワネットさまがまだ王太子妃でいらしたころにおそばにあがったので当時女官長をしていたジャルジェ夫人にも随分世話になったらしい。
そして時折母のもとを訪ねてくるオスカルに胸をときめかせていた。
ジャルジェ夫人はやがて退官したが、彼女は一生アントワネットにお仕えすると決めていた。
宮廷での女官暮らしが気に入っていたのだ。
ところが、思わぬことでその予定が大きく変わってしまい、このナポリで暮らすことになったのだという。

それから長々と聞かされた女官の身の上話は、今ここでは必要ないということで、侯はあえてオスカルには話さなかった。
これはなかなかありがたい配慮だった。
他国に行った女官の話など、オスカルには一向興味がない。
だいたいが、こんな話を本題と位置づける義兄のほうがどうかしているとすら思っている。
現在の一大関心事といえば、フランス全土に広がりつつある暴動以外無いではないか。
話に来てくれたのが侯ひとりで正解だった。
もしクロティルドが一緒に来ていたら、このらちもない話ばかり聞かされたことだろう。

「そこで確認したいことなのだが…。王妃さまの兄上である神聖ローマ帝国皇帝がフランス宮廷にいらした折り、当然きみも王妃さまのおそばにいたはずたね?」
随分昔の話が出て驚いたが、オスカルはよどみなく答えた。
「無論です。神聖ローマ帝国皇帝であり、かつ王妃の兄上でもある、ということで、ベルサイユでは連夜の歓迎晩餐会でした。当然わたくしは王妃さまの護衛として終始おそばに控えておりました。」
今、思い出しても疲れる日々だった。
美しい近衛隊士は王妃の自慢で、兄を案内する際は、いつもオスカルが同行を命じられたのだから。

皇帝は、母マリア・テレジアの命令で、子宝に恵まれない妹夫婦に助言するためにやってきた。
1777年の話だ。
体質的な問題を抱えていた義弟に適切な忠告を与えた彼のおかげで、妹夫婦は翌年めでたく王女を授かった。
以後夫妻には王子二人、王女一人が誕生しているのだから、皇帝の渡仏は大成功だったといえよう。

「ならばその後に、宮廷から姿を消した女官が本当にいたかどうかおぼえているかね?」
なるほど、ナポリで出会ったその女性の話の真偽を確かめたかったわけか。
母や自分のことを覚えている上、クロティルドまでをも覚えていたのならば、虚言とも思えないが…。
オスカルは、侯の訪問の目的を察し、記憶の糸をたぐってみた。
「いえ…、そのようなお話を漏れ聞いた記憶はございません。」
自分は終始アントワネットの側に控えていたが、女官の話は聞いていない。

バルトリ侯爵は、さもありなん、という顔で義妹の返答にうなずいた。
それから、オスカルの隣にいるアンドレに視線を向けた。
「君は、オスカル・フランソワとは違う記憶があるのではないかね?」
侯の言葉に、オスカルの方が驚いてアンドレを見た。
アンドレはビクリと肩を揺らした。
「おまえ、何か覚えているのか?」
オスカルに詰め寄られ、アンドレは,困ったように眉をひそめた。

「実は…、ちょっと心当たりがございます。」
侯爵は深くうなずき、続きをうながした。
軍務に関しては文句のつけようのないオスカルだが、こと宮廷の人間模様についてはとんと疎かったことを、侯は知っていた。
この昔話に手応えがあるとすれば、当時宮廷を、オスカルとは全然違う角度から見ていたであろうアンドレの方だと、はじめから踏んでいたようだ。

「確かに、王妃さま付きの女官がひとり、皇帝が帰国なさってしばらくして宮廷を去りました。」
「ほう…。」
「王妃さまのお気に入りでしたし、特に不始末を犯したという話もありませんでしたから、どうして急に辞めたのだろう、と噂になりました。」
「なるほど。」
「あるいは、この女官がナポリにいたその女性では…ということはあり得ます。」

王妃は好き嫌いのはっきりした女性である。
嫌いなものは遠ざけ、気に入ったものはとことんひいきする。
したがって、おそば近くにいたものが突然解雇されたとなると、よほどのことがあったと推測された。
そして、そういう場合、王妃はあまり隠し立てのない開けっぴろげな性格であるから、どのようないきさつであったかを、側近のものに必ず打ち明けるのが常だったが、そのときだけは王妃の口からひとことも話がなかった。

「それで?本当に理由はわからなかったのか?宮廷のことだ。そのまま皆が受け入れたとは思えない。なにがしかのそれらしい話は流れたのではないか?」
そう聞かれたアンドレは、隣のオスカルに目をやり、とても言いづらそうにした。
「おまえだけが知っていたからといって、僻むわたしではない。遠慮無く話を続けろ。」
オスカルが口をとがらせた。
アンドレは渋々といった風で、重い口を開いた。

「侯爵は、その、いわゆる『鹿の園』をご存知ですか?」
「『鹿の園』だと〜!」
言われた侯爵ではなく、オスカルのほうが大声を出した。
アンドレはやっぱり、とため息をついた。
だから言いたくなかったのに…。

『鹿の園』とは、ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人が作った施設である。
30歳を過ぎ、王の寵愛を失うことを恐れた夫人が、地位の安泰をはかろうと、あえて王に自分の息のかかった若い女性をそこであてがった。
ベルサイユの森の中にあったといわれているが、詳細はわからない。
1764年に夫人が亡くなると、すぐに取り壊されたからだ。
ポンパドゥール夫人の死後まもなく、あらたな寵姫デュ・バリー夫人が登場した上、もともとあまりおおっぴらにできる施設ではなかったから、正式な記録は残っていないのである。

「もちろん。わたしは15世陛下にお仕えしていたのだからね。説明は省いてかまわない。そのまま続けてくれ。」
侯は、いきりたつオスカルをなだめるように先を促した。
男装しているとはいえ、女性であることに間違いない。
まして身ごもっているのだ。
その手の話には通常以上に嫌悪感を示すのも無理はない。
さらっと受け流してくれた侯の助け船に、アンドレはホッとして続けた。

「姿を消した女官は、実はこの『鹿の園』で生まれたと…。そしてそれが王妃さまの耳に聞こえて、おそばからはずされたのだ、と…。そういう噂が流れました。」
侯爵の顔色が心なしか少し変わった。
「本当に?本当にその女官は…そこで生まれたのか?」
「確証はありません。そこにいた女性や生まれた子どもたちのその後について完全に把握していたのはおそらくポンバドゥール夫人のみだったと思われますから、夫人亡き後、そこにいた人間がどうなったのかは誰にもわかりません。ただ女官の辞職があまりに唐突であったことと、事情を王妃が話されなかったことで、そのような噂がたったのでしょう。王妃さまはきわめて潔癖なお方ですから…。」
「ふーむ…。」
侯はそう言ったきり押し黙ってしまった。

侯爵が黙ってしまったのでは、アンドレとオスカルも話のつなぎようがない。
沈黙が流れた。
やがて、侯爵は首を振りながら立ち上がった。
「いや、ありがとう。参考になったよ。」
何か心に決めた様子だったが、二人はそれについて何も聞かなかった。
もし自分たちに深く関わることなら、またあらためて話があるはずだ。
ここへ来たのは、単に情報が欲しかったのだろう。
そのために、本当ならあまり聞かせたくないフランスの現状を、交換条件で教えてくれたというわけか。

侯が帰るとオスカルは少し厳しいまなざしをアンドレに向けた。
「わたしにはまったく記憶のないことなのだが…、おまえ、よく覚えているな。随分昔の話なのに…。そんなに目立つ女官だったのか?」
よほど記憶に残る女官、つまりは美人だったのか、ということを暗示しているらしい。
アンドレは苦笑いした。
突然、勘が鋭くなったようだ。
これも妊娠のたまものだろうか。
以前のオスカルなら絶対にそういうことに気が回らなかった。

アンドレは少し遠い眼をした。
女官は確かに美人だった。
年齢は、自分たちとそう変わらなかったはずだ。
出生についての艶めいた話も相まって、当時の宮廷では、いろいろな意味でなかなか評判の女官だった。
ルイ15世とポンパドゥール夫人がもう少し長生きしていたら、彼女にも良き縁談があったかもしれない。
母親の身分はどうであれ、王の庶子だ。
繋累になりたいものは、いくらでもいる。
だが、夫人も15世も亡き後は、さしたる後ろ盾もなく、身一つで彼女は宮廷を渡っていかなければならなかった。
だからこそ一生懸命王妃に仕えていた。
そのけなげさが、また若い男性陣の関心を引き、アンドレの記憶に留まる理由になっていた。
もしも生まれが原因で追放されたのだとしたらかわいそうなことだと、そのときのアンドレは思ったものだ。
誰だって親を選んで生まれてくるわけではない。

だがそんなことを今、オスカルに話したところで理解されるとは到底思えない。
「あの頃、おまえはおまえのつとめに必死だった。俺は、立場上、女官や侍従たちと控えている機会が多かった。それだけの違いだろう。」
アンドレは穏やかに笑った。
とりあえず、自分たちは今、ここにこうしている。
生まれの違いも、身分の差も、何もかもを乗り越えて…。
それだけで充分だ。
あとは生まれ来る子どもが、自分の子だということで、つらい思いをしないように、そのために、自分は譲られた領地を守っていかねばならない。

アンドレの固い決意を知ってか知らずか、オスカルは長く座っていた体勢に疲れて、そのまま長椅子に横たわった。
「長話で疲れた。このまま少し休む。食事ができたら起こしてくれ。」
アンドレは、すく゜に寝室に行き、掛布を持ってくると、すでに寝息を立て始めているオスカルにそっとかけてやった。
彼女の腹部はほんの少しふくらみ始めている。
それだけで、アンドレはなんでもできる気がするのだった。













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