四人乗りの馬車が屋敷に近づいてきた。
バルトリ一家が来たと誰もが思った。
そして想像通り、侯爵一行だった。
ただ、てっきり使用人だと思った御者が、他ならぬ侯爵自身だった。
しかも馬車から降りたのはクロティルドとニコレットの二人だけだった。
「お兄さまならあとからおいでになるわ。ほら、うしろ。」
門を開けに走ったマヴーフが外に目をやると、一頭立ての小さな一人乗り馬車を御してニコーラがこちらに向かっているのが、遠くに小さく見えた。
わざわざ四人が二台の馬車に分かれ、しかも、それぞれの御者を侯爵とその御曹司がつとめている。
いくら地方とはいえ、ここまで気さくなのはめずらしい。
出迎えのばあやとアンドレがびっくりしているのを尻目に、クロティルドは夫と娘をおいていち早くばあやのもとに駆け寄ってきた。
「長旅、大変だったでしょう。ごめんなさいね。オスカルのために無理をさせてしまって…。」
それからクロティルドはニコレットをばあやに紹介した。
ばあやは侯爵とその令嬢に丁寧に挨拶をはじめたので、こんなところで立ち話をしないでとにかく中へ、とアンドレがうながして、皆を案内した。
オスカルはひとり客間で待っていた。
夜着の上にゆったりとガウンを羽織り、肘掛け椅子に腰掛けていたオスカルは、皆が入ってくると、ゆっくりと立ち上がった。
その落ち着いた様子に侯爵夫妻は心から安堵したようだった。
「おや?おひとかた、足りませんね。」
オスカルも、ニコーラの姿を探した。
「ニコーラは別便で来るわ。」
クロティルドが答えたとき、扉が開いて、ニコーラが入ってきた。
「ごきげんよう、オスカル・フランソワ。」
童顔がはじけるように笑っている。
何度か見舞いに来てくれたニコレットによって、この甥と姪から名前で呼ばれることにオスカルはすっかりならされてしまっていた。
軍隊を離れた今、准将という呼称も昔のものとなった。
単純に名前で呼ばれることは、むしろ潔いようにも思われる。
実際、オスカルはベッケル夫婦にもダルモン夫婦にも、奥さまとは呼ばせていない。
どうしても自分のことだと思えなかったからである。
最初はとまどっていた彼らも、今ではオスカルさまと呼んでいる。
たぶん奥さまと呼ぶのも違和感があったであろうから、案外これは一番すっきりと落ち着くところに落ち着いたといえるかもしれない。
「父上、馬車は庭番小屋の横の納屋に入れておきました。馬は馬小屋です。」
ニコーラが勧められた椅子に座りながら父に告げた。
侯爵は、これから領地の検分をするにしてもとにかく足がいるだろう、と馬車を一台、馬ともども都合してくれたのだ。
なまじ二人乗りにすると、オスカルも同乗しかねないので、できるだけ小さいのを、とクロティルドが進言したため一人乗りの馬車が用意された。
それで、ニコーラが一人で乗って来てくれたのだ。
こちらに越してきたときに、馬を一頭もらっていたが、馬車はなかったので、大いにありがたい話だった。
これで馬も二頭になり、モーリスが食材を調達に行ってしまうと誰も屋敷から出かけられないということもなくなる。
オスカルとアンドレは、そろって礼を述べた。
ダルモン夫婦が、お茶を運んできた。
かいがいしく給仕する二人に、侯爵一家は気軽に声をかける。
もともとバルトリ家の厨房にいたのを、侯爵がオスカルのためにこちらにまわしてくれたのだから、互いによく知った仲なのだ。
「ねえ、モーリス、オスカルはうるさくないかしら?」
クロティルドは意味ありげに尋ねる。
「姉上、わたしは軍人です。どのようなものでも文句を言ったことはありません。それにこのモーリスは、さすがにバルトリ家で修行をつんだだけあって、腕は確かですぞ。」
思いがけず賞賛されたモーリスはすっかり恐縮している。
オスカルのこの言葉遣いに最初は驚いたが、料理人としては腕前さえ認めてもらえればそれでいいのだから、まして、元の雇い主の前でこんな賛辞を送られて、モーリスが嬉しくないわけがない。
彼は満面の笑みを隠しきれなかった。
「まだまだ未熟ものですから、ばあやさんに色々と教わりながら、つとめさせて頂いております。」
料理人は、謙虚に元の奥さまに返答した。
「あら、ここのばあやはお料理もするの?」
ニコレットが口をはさんだ。
「ばあやはね、ジャルジェ家に60年も勤めているから、何でも知っていて、どんなことでもできるのよ。」
クロティルドが教えた。
「まあ、生き字引っていうわけね。」
ニコレットは尊敬のまなざしをばあやに向けた。
その言葉に柄にもなくばあやが照れているのが、オスカルにはなんともいえず幸せだった。
「せっかくだから、マヴーフとアゼルマもここへ呼んでらっしゃいよ。」
クロティルドがモーリスの女房に声をかけた。
「承知いたしました。ふたりとも、ばあやさんがあんまりお達者なんで、負けてられないとはりきってるんですよ。」
コリンヌが笑いながら出て行った。
「ばあやってすごいのね。」
ニコレットがまたもや感嘆した。
「確かに、庭が随分手入れされてきれいになっている。あの二人、畑仕事はもうきついと言っていたんだがね。」
侯爵もうなずいた。
「みなさま、そんなにおだててくださっても、お茶よりほかに何にも出ませんでございますよ。」
ばあやがまんざらでもなさそうにしながら、ピシッと言い渡し、一斉に笑い声が起きた。
「随分ふくらんだんですね。」
ニコーラがしげしげとオスカルの腹部を見つめた。
「もうあと一月半もすれば、かわいい赤ちゃんが生まれるのね。」
ニコレットも目を細めている。
誰も父親が平民だからとさげすまない。
ベケット夫婦やダルモン夫婦からだんなさまと呼ばれているアンドレを、当たり前のように受け入れてくれている。
だがばあやにしてみれば、自分の孫がだんなさまなんかになっていようとは、ノルマンディーに来るまで想像もしていなかった。
ただ漠然と、無事の出産のためにベルサイユを離れただけだと思っていた。
だから、二人が本当に夫婦として暮らしているこちらの生活は、最初はとまどうばかりだった。
しかも主人夫婦としてなのだ。
それなのに、こちらの人々は、自然に二人を受け入れてくれていた。
マヴーフとアゼルマが、コリンヌにつれられて恐る恐る部屋に入ってきた。
主人一家とともにお茶を頂くなど、ありえないことだ。
いくら気さくな侯爵一家でも、さすがに自分の屋敷ではここまではしない。
この小さな別邸だからこそのひとときだ。
もし王家の人たちが、いや、アントワネットが、王族の責務として、市民との交流を嫌悪せず、王宮の庭園にやってくる市民と親しく交わっていたら…。
貴族と平民の婚姻が許されていて、双方が血のつながった親戚になれていたら…。
国王陛下は、何よりも国民が好きだというお方だ。
その国民との対立をどのように悲しく思っておられるだろう。
オスカルは、自分たちの幸せを感じれば感じるほどに、遠いパリのテュイルリー宮殿にいる国王一家に思いをいたさずにはいられなかった。
「オスカル・フランソワ。どうなさったの?せっかくのお茶が冷めてしまいましてよ。」
ニコレットの声でオスカルは我に返った。
「田舎暮らしもなかなかいいものでしょう?」
姉の言葉に、オスカルはにっこりと笑った。
「ええ。素晴らしいと思います。」
素直な妹の反応にクロティルドは満足そうだった。
「ね、アンドレ、わたくしが以前手紙に書いたとおりでしょう?本当に美しいのは、ベルサイユではなく、わたくしの領地にある、と。」
領地を譲るという手紙で、確かにクロティルドはそう書いていた。
一度来ればわかる、とも。
「はい、クロティルドさまのお言葉どおりです。」
クロティルドが一層満足そうに胸を張った。
バルトリ一家の帰りの馬車は、ニコーラが御者台にのった。
オスカルは、アンドレとともに門まで出て一家を見送った。
ニコレットが何度も窓から手を振ってくれていた。
「あれはあれで、まあ、なかなかかわいげがあるのかもしれんな。」
オスカルがぼそっと言ったので、アンドレは思わず吹き出した。
午後のひととき