幸  福

 


 

〈1〉 アンドレ復帰1日目






 

「おまえの言うことは金輪際、信じないぞ!」

アンドレの眼前で馬車の扉は思い切り音を立てて閉じられた。
呆然と取り残されたアンドレは、オスカルの捨て台詞の意味を理解しかねて一瞬首をかしげたが、すぐに頭を切り換え、今夜から明後日の朝までのめまぐるしくなりそうな自分の予定について考え始めた。

一ヶ月にわたる欠勤の後、久しぶりにオスカルとともに出仕したアンドレが、まず目にしたのは、司令官室の机上の未決箱に無造作に積まれた書類の山だった。
確か以前には一つしかなかった箱は、ダグー大佐が用意してくれたのだろうか、こぼれおちるのを防ぐため、二つに増えていた。
しかも一目見て上質とわかる紙が、書類はすべて公平に先着順とばかり、下の方に押し込まれていて、これでは日の目を見るのはいつになるか怪しいものであった。
アンドレは背中に寒いものを感じた。
こういう上等の紙で回ってきたものは、たとえ緊急のものではなくても、とりあえず目を通しすぐ処置を講じて報告書を出しておかなければ、あとでえらい目に遭う。
こういう上等の紙を使える方たちは、いつでも自分の用件が最優先されると確信しており、少しでも遅れればないがしろにされたと感じて、結局こちらの仕事を増やすという仕返しをしてくることを、アンドレは経験から熟知していた。

しかも、兵士たちの勤務日程表を見ると、自分の不在の間、ただの一度もオスカルは休暇をとっていない。
オスカルは休暇の取り方を知らないのだ。
勤務表を組みながら、このあたりなら休めるぞ、とアンドレが声をかけると、では、ということになり、それからの調整も全てアンドレが行った。
アンドレが、副官のダグー大佐と重ならないこと、本部の会議が入っていないこと、などさまざまな条件を整えてはじめてオスカルは休暇を取る。
だから、アンドレが欠勤している間、オスカルは休めなかったのである。

「まずはオスカルを休ませることからだな」
とつぶやいて、アンドレは日程表と格闘しはじめた。
なんとか二日くらいはとってやりたいが、このところの不穏な情勢に衛兵隊の警備部門の仕事量が増大していて、そのための各方面との打ち合せが立て込んでいる。
結局、急なことだが、明日一日なら休んでも大丈夫ということがわかった。
ダグー大佐に確認すると、なんと気の毒なことに大佐もオスカルにつきあって休暇をとっていなかったそうで、隊長の休暇は願ったりかなったり、できれば隊長のあとに自分も一日休ませてほしいとのことだった。

細かい字を見てはいけない、との医師の指示は、この際アルゴスに食べてもらうことにして、アンドレは書類の整理にとりかかった。
返答期限ぎりぎりのもの、すでに期限を過ぎているもの、まだ余裕のあるもの、と分類することからはじめた。
この分類だけで結局午前中いっぱいかかり、会議に出ていたオスカルが司令官室に戻ったときには、アンドレは書類に埋もれていた。
「細かい字は見るな、と言っただろう!」
オスカルはアンドレの手から書類をとりあげた。
「そうは言っても、この山積みを見たら放ってはおけない」
気遣いは有難いが仕事は仕事だ、とアンドレはもう一度オスカルから書類を取り返した。
「もし、また見えなくなったらどうするんだ?書類はそのうち私が片づける。おまえは触るな」
そのうち、というのがいったいいつのことやらとアンドレはため息まじりにつぶやきながら、しかし真剣に自分を案じてくれるオスカルの手前、とりあえず書類を離し、やっぱりこいつを休ませて、その間に片づけるしかないな、とあらためて決意した。

「午後の訓練がすんだら、今日は早めに切り上げて帰ろう。復帰早々無理はよくない」と、昼食をとりながらオスカルが言った。
「有難い話だが、俺は今日夜勤だ。欠勤中、随分みんなに迷惑かけたからな。少しでも借りを返したい」
「なにも初日に入れなくてもいいではないか」
オスカルの抗議を無視してアンドレは続ける。
「それから、おまえは明日は休暇だ。一ヶ月休んでなかっただろう。手はずは整えた」
「おまえは?」
「俺は休めない」
「では、私も休暇はいらん」
「そんなわけにはいかない。おまえのせいでダグー大佐も一ヶ月休みなしだったんだ。あさっては大佐が休暇だ。おまえが休まないと大佐も休めないんだ」
痛いところをつかれて、オスカルは黙った。
「そういうことだから、今日はおまえはひとりで帰れ。無理が続いていたんだからゆっくり休養してくれ」
アンドレ、おまえ、そういうことを平気で言えるんだな、と言い返したいのをぐっとこらえ、オスカルはアンドレをにらみつけた。
「相談せずに決めて悪かったよ。そんなに怒るな」
とのアンドレの謝罪は見当違いで、オスカルはよけいに腹が立ってくる。
口をきくのもくやしくて無言でオスカルが昼食を食べていると
「食欲が出てきたな。よかった、よかった」
とアンドレがうれしそうに言うので、オスカルは情けなくなってしまった。

午後の訓練は滞りなく終了した。
しばらく姿のなかったアンドレが隊長のななめ後ろに控えていて、見慣れた光景が戻り、何となく安堵感があった。
「なんか、ほっとするね」
「うん」
「でもさ、隊長のアンドレを見る目、怖くない?」
「あっ、おまえもそう思う?」
「どうしたんだろう」
「隊長って、アンドレがいても、いなくても腹が立つのかなあ」
「アンドレも大変だね。でも、もう俺たちが当たられることはないんだよね」
事情を何も知らない1班の兵士達は、あながち的はずれでもない推測を、ヒソヒソと話し合った。

どうも動きの鈍いオスカルを追い立てるようにして、アンドレは帰り支度を整えていた。すでに厩舎から馬車も廻してきているし、御者もいつでもどうぞと、声をかけてきている。オスカルが明日休暇を取ったことは、すでにジャルジェ家に使いを出して知らせてある。
「オスカル、なにをグズグズしてるんだ。勝手に休暇をとったことをまだ怒ってるのか?」アンドレはオスカルの背後に廻りマントを着せた。
オスカルは憮然としたまま、頭ひとつ高いところにある男の顔を自分の肩越しにふり仰いだ。
それから何か言いかけたが、首を振って歩き出した。
ようやく得心してくれたな、とホッとしつつ、マントを着せかけたとき思わずそのまま抱きしめそうになった自分に気付いたオスカルが、それを振り切って歩き出したようにも感じて、俺も困ったものだなとアンドレは苦笑した。
やがて待機していた馬車のところまで来ると、オスカルはアンドレの手を借りて乗り込み
「ゆっくり休め」
というアンドレに向かって冒頭の台詞を投げつけたのだった。

「おまえの言うことは金輪際、信じないぞ!」