幸 福
〈2〉アンドレ復帰2日目
夜勤明けは眠いが、清々しい。
特に異常もなく、フランソワのような優しい性質の男と組んだおかげで、自分のいない間の衛兵隊での出来事もおおかた聞き出せた。
これがアランとだったらもっと疲れただろうが…。
オスカルはよく眠れだだろうか。
知らず知らずアンドレの思いはそこへ向かう。
一昨日の、あの夢のような一時、オスカルを思い切り抱きしめた。
泣き叫んでいたオスカルが自分の腕の中で幼子のようにおとなしくなり、ワインで乾杯したあと、そのままスヤスヤと眠ってしまった。
よほど参っていたのだろう。
ゆっくり休んでくれればいいが…。
2時間ほどの仮眠のあと、アンドレは司令官室に出向き、昨日分類しておいた書類にとりかかった。
まず、至急のものは、ダグー大佐の所へ持っていき、決裁を受け、連絡係に廻した。
続いて至急ではないが発送者が高官ゆえに急がなければならないものについては、とりあえず返書としてすべて指示通りに善処する旨をしたためた。
また、パリの治安維持のため新たに警備の兵を増員するように、との指示などは、各班の班長にローテーションの変更を指示する必要があるが、これはオスカルの口からつたえてもらわねばならないことゆえ、原案だけ作ることにした。
ドアをノックする音に気付いたアンドレが顔を上げるとクリスが立っていた。
帽子とそろいの若草色のドレスの彼女を、ダグー大佐が案内してきたらしく
「ジャルジェ家の主治医のお使いだと言われてね。隊長はお休みだと言うと、アンドレに用があるというからお通ししたよ」
と、用件だけ伝えて大佐は出ていった。
「やあ、どうしたんだい?」
と言いながら、いぶかしげにアンドレはクリス見つめた。
「おじさまがアンドレのお薬を渡し忘れたの。それでお屋敷へ持っていくよりこっちの方が、会えると思って…」
アンドレの周囲に散乱する書類を見て
「ねえ、アンドレ、細かい字を見るのは御法度だっておじさまが言ってたと思うんだけど…。これはいったいどういうこと?」
「1ヶ月も休むと仕事が溜ってしまってね。ここの隊長はこういう仕事が一番苦手なもんだからさ」
「でも、だめよ。せっかく治ってきてるのに」
「ありがとう。ここにたまっている分が片づいたら、もうしないよ。それより、薬って?」
「ああ、そうだったわね。この目薬なんだけど」
クリスは青い瓶と透明の瓶を取り出し机に置いた。
「透明な方は消毒なの。だからまずこれを一滴目にさして、それから青い方を二滴」
そう言いながら、クリスはアンドレの座っている方へ廻り傍らに立った。
「いい?こういう風にさすのよ」
「自分でできるよ。クリス」
「もちろん、次からは自分でするのよ。でも今日は最初だからやり方を教えておかないと…」
ひとり追い返されるように帰宅したオスカルはなかなか寝付かれず、何度も寝返りを繰り返し、結局、寝過ごしてしまい、朝食と昼食を一緒にとるような形になった挙げ句、大事な用事を忘れていた、とばあやをせかして出仕の支度をさせ、衛兵隊に来てしまった。
隊長の急の出勤に門兵が驚いてダグー大佐に知らせに走り、オスカルが兵舎の前を抜けて衛兵隊ベルサイユ駐屯部の玄関に着いたときには、大佐が泣きそうな顔で迎えに出てきた。
廊下を司令官室に向かって足早に歩きながら、
「ちょっと急用を思い出したのだ。大佐は明日遠慮無く休んでくれたまえ。それから仮眠中のアンドレにあとでわたしの部屋に…」
と、扉を開けたオスカルの眼前に広がる光景は…。
椅子に座ったアンドレと、彼の上に覆い被さるように顔を至近距離に近づけた若い女性。「無礼者ー!!しっ司令官室をなんと心得ておるかー!!!」
オスカルは思いっきり扉を閉めた。
「隊長??アンドレは部屋の中にいるはずですが…?」
と、ダグー大佐が首をかしげていると、扉が中から開いて、クリスが現れた。
「オスカルさま。ちょうどようございました。お話ししたい事がございましたのよ」
まだ顔を真っ赤に紅潮させて頭から湯気を噴いているオスカルに、クリスはなんの悪びれることもなく、どちらかというとクリスの方も怒っているように声をかけた。
「あなたは、確かラソンヌ先生のところの…」
クリスはアンドレに書類仕事をさせていたことを厳しく注意し、これでは治るものも治らないと散々嫌みを言って帰っていった。
単にクリスはアンドレに目薬をさしてやっていただけらしい、ということがぼつぼつとオスカルにも理解できた。
一瞬の光景があまりにも強烈で激しく誤解してしまったようだ。
アンドレはアンドレでなぜ今、オスカルがここにいるのかがわからず、ことの意外な展開に呆然としていた。
「オスカル、おまえ、どうしてここにいるんだ?」
あまりにも当たり前の質問だったが、他に気の利いたことばもうかばず、アンドレは率直に尋ねた。
「…」
オスカルは下唇を噛んだまま何も言わない。
「せっかくの休みだと思ったんだが、そんなに気に入らなかったか?」
「おまえ、嘘つきだな」
「えっ?」
「おまえの言うことを信じた私が馬鹿だった」
「なにを言ってるんだ?意味がわからないぞ。俺がいつ嘘をついた?」
「そんなこともわからないのか?」
アンドレは必死で考えを巡らす。
俺が嘘?俺を信じない?
「ひとりで休暇をとっても…」
とオスカルが聞き取れないほど小さな声でつぶやいた。
ひとりで…。
ああ、そうか。
俺はどうしてそんなことに気付かなかったんだろう。
あんなにひとりにはしないと誓ったのに…。
だからおまえは怒ったんだな。
俺は本当に馬鹿だな。
おまえのことを案ずるばかりで、おまえの気持ちを、おまえがおれといたいと思ってくれる気持ちを少しもわかってやれなかったなんて…。
アンドレはまだマントをつけたままのオスカルの背後に廻りゆっくりとぬがせると、今度はそのまま、ためらうことなく抱きしめた。
一瞬、ビクンとオスカルの肩があがったが、胸の前のアンドレの手に自分の手を重ねて、厳しく言い渡した。
「今夜、私の部屋にショコラをもってくれば、約束違反は一回だけ見逃してやる」
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