幸 福
アンドレにはうれしい誤算で、職場復帰二日目はまだ陽のあるうちに屋敷に戻ることができた。
まさかオスカルが休暇を取りやめて出勤してくるとは思わなかったが、来てしまった以上、追い返
すわけにはいかない。
まして、自分に逢いに来てくれたとなれば、何としても溜まった書類を片付け、一刻も早く帰りたか
った。
デスクワークが大嫌いなオスカルも、もともと休暇で他の仕事が入っていなかったから、殊勝に机
に向かい、黙々と書類に取り組んだ。
おかげで、夕方の帰宅が可能となったわけで、帰りの馬車では二人とも上機嫌、他愛もない話が
、久しぶりにはずんだ。
屋敷に到着し、オスカルが着替えに自室に戻ったのを見届けて、アンドレはすぐにジャルジェ将軍
の居間に向かった。
今回の一連の配慮に対し、お礼を申し述べるためだった。
本来ならば、ラソンヌ邸から戻り次第そうすべきだったが、帰宅は深夜であったし、翌朝は通常通
りの出勤、さらにその夜は夜勤と、機会に恵まれなかった。
やや緊張してノックをし名前を告げ、入室の可否を尋ねた。
すると、扉が中から開き、夫人が微笑みながら出てきた。
「お入りなさい。ご苦労様でしたね。久しぶりにオスカルと食事ができるので、わたくしはちょっと様
子を見て参ります。では、あなた、のちほど」
夫に一礼して、夫人は優雅に廊下を歩いていった。
アンドレはその後ろ姿に深く一礼し、将軍の待つ部屋に入った。
将軍は大きな両袖机に何冊かの本を広げていたが、おもむろに顔をあげると、しばらく無言でアン
ドレを見つめた。
「だんなさま、このたびは、過分のご配慮を賜り、お礼の言葉もございません。ありがとうございまし
た」
「ふん。なかなか順調に回復したようだな。ラソンヌから報告が来ておった」
「このご恩は一生忘れません」
「まあ、わしもこれで気が済んだ。あの馬鹿に思い知らせてやることもできたしな」
「は?」
「いや、いい。おまえは知らんでいい」
だんなさまとオスカルの間に何か確執があったのだろうか。
自分の不在中の衛兵隊の様子は、昨夜フランソワから聞くことができたが、屋敷の様子はまだ誰
からも情報を得ていない。
だんなさまの前だというのにアンドレはしばし黙り込んでしまった。
もの静かに、かつ優雅に自分の前で膝をつく従僕を、将軍もまた、しばしだまってながめていた。
オスカル同様、この男も自分が手塩にかけて育ててきたと言えるだろう。
ひきとったときからすでに20年以上の歳月が流れ、少年は自分の理想の従僕に成長した。
むしろ理想的すぎたのかもしれない。
誇りたいような、情けないような、複雑な思いが将軍の胸を去来する。
とりあえず、あの跳ねっ返りを御して鎮められるのはこの男しかいないのだ。
それは間違いないが、果たしてこの男にとって幸福なのかどうか…。
自分で育てておいて勝手だとは百も承知で、将軍はわが娘を女として見ろといわれると、さすがに
引いてしまう。
男として育てたのだから当然だろう。
結婚相手を募ったとき、結構な数が集まったのは、正直驚きだった。
物好きというよりは、やはり財産目当てだったというべきだろう。
だが、娘は間違いなく女で、だからこそ自分の意趣返しは完璧に成功したわけだ。
娘の女の部分…。
将軍はアンドレに声をかけた。
「おまえ、オスカルはわしに似ていると思っているだろう」
突然、将軍に尋ねられ、アンドレは驚いて答える。
「は?はい」
「皆、そう言う」
「軍を統率する能力、清廉潔白なご気性、すべてだんなさま譲りとお見受けしますが…」
「確かに、あれの武官としての面は似ておる」
アンドレは大きくうなずく。
それらを受け継いだからこそ、近衛隊でも衛兵隊でも生きてこれたのだ。
「だがな、あれは母親似だ」
「確かに、誰にも優しいところは奥様似かもしれません」
「そんなところではない」
「は?」
今日何度目かの「は?」をアンドレは将軍の前で言った。
「なぜか娘たちは全員母親に似てしまった」
最後の「しまった」に妙に実感がこもっていることが解せず、アンドレは首をかしげた。
奥様に似た娘たち、これのどこに不服があるというのか…。
奥様も姉上方も皆、完璧な貴婦人だ。
それにオスカルが似ているというのは、不思議な気もするが、もし本当に似ているのなら、結構な
ことではないか。
だが、そんなことはだんなさまの前で口には出せない。
「おまえも、わしが堅物だと思っておるか?」
さすがに今度は「は?」も出ない。
残された目を大きく見開くばかりだ。
だが、だんなさまに問われた以上、何も返答しないわけにはいかない。
「え…と、あの…、」
しどろもどろだ。
だいたい質問の意味がわからない。
だんなさまが堅物…。
確かにお堅い方ではある。
オスカルなどはよくあの石頭と毒づいていたが、浮わついた噂の一つもないだんなさまは、ベルサ
イユでは変わり者かもしれないが、少なくとも奥様や娘のオスカルたちにとっては、この上ない夫
であり、父であったはずだ。
「わたくしは、心からだんなさまをご尊敬申し上げております」
居住まいを正し、ついていた膝を起こすと、深々と頭を垂れて、アンドレは答えた。
正直な感想だった。
だが将軍はこの最大級の賛辞ににこりともせず、
「わしは別にもともとそうだったわけではない。若い頃は人並みに浮き名も流したのだ。婿殿たち
程度にはな…」
と、苦虫を噛みつぶしたようにつぶやいた。
姉上方のご夫君…程度。
どの方もみな一様にまじめな方たちだ。
無論、姉上方とのご結婚前にはそれなりのことはおありだったろうが、今はどの方々もだんなさま
同様、浮いた話は聞かない。。
特別出世されているわけではないが、ジャルジェ家と縁戚になるだけの家格や地位はお持ちだし
、何より、性格が穏やかで、さすがに将軍夫妻のおめがねにかなっただけのことはある、と常々ア
ンドレは感心していた。
だからこそ、先頃のオスカルの縁談の折、将軍が選んだジェローデル少佐も、アンドレにとっては
つらいことではあるが、ふさわしい相手だったと認めてはいたのだ。
「婿殿たちも気の毒なことよ。なまじあの母親の娘を娶ったばかりに、皆、牙を抜かれておる」
もう驚きで声も出ないアンドレに将軍はチロリと一瞥を投げかけると、
「まあ、そのうちおまえもわかる。やり方が巧妙で、しかも情報網がいたるところに張り巡らされて
、決して隠し事ができない。万一成功しても、いつかは露見し、しかも表向きは責め立てず…」
そこで将軍は大きくため息をつき、
「今年の聖誕祭には娘たちを全員呼び寄せたいと家内が言っておった。どうせオスカルのために
新しい網をはるつもりなのだ。網にかかるのはおまえだ。都合の悪いことがあるなら、先に謝って
おけ。これがわしからの忠告だ」
将軍の部屋を辞したアンドレはようやく少しずつだんなさまの言わんとすることがわかりかけてき
た。
奥様と姉上方、美しくたおやかで、夫婦仲もそろって良い。
だが、だんなさまの言葉をつなぎあわせると、どうやらそれは見事な操縦術の賜物らしい。
奥様と5人の姉上の張り巡らす情報網…。
毎夜ベルサイユのどこかで繰り広げられる舞踏会には、必ずどなたかが出席され、ご夫君方の浮
き名の一つも流れようものなら、まだ煙のうちにしっかりと伝達され芽をつみ取る。
ご自分たちが出席できないときは、友人、知人からの情報を頼る。
そして二度と過ちを犯さぬよう、懐柔されるというわけだ。
そういう女性方にオスカルが似ている…。
先に謝っておけ、というだんなさまの言葉がアンドレの頭の奥にずっしりとのしかかってくるのを感
じ、いや、都合の悪いことなど俺には何もない、よしんばあったとしても(どれをもってあったという
のかよくわからないが…)昔のことだ、と厨房に向かいながら首を振った。
だいたい自分は朝から晩までオスカルと一緒なのだから、網を張ったら、その網にオスカルも一
緒にかかってしまう、というもんだ。
それにもし、オスカルが自分のことで嫉妬してくれるというなら、望外の幸せではないか。
広間で晩餐が始まった。
将軍夫妻とオスカルが大きな食卓を囲み、静かに食事をとっている。
一通りの給仕を終えてアンドレは厨房に下がった。
とたんに若い侍女たちに取り囲まれた。
突然姿を消し、音信不通だったのに、ある日、オスカルが出て行ったと思ったら、夜中に二人で戻
ってきていて、朝には何事もなかったように出勤し、その夜は夜勤だとかでオスカルだけが帰宅、
次の日の今日の今頃になって、よえやくアンドレはジャルジェ家の人と顔を合わせたのだ。
「ねえ、あんた一体どこへ行ってたの?」
「本当にアラスに行ってたの?」
「じゃあどうしてオスカルさまと一緒に帰ってきたの?」
矢継ぎ早の質問にどう答えてよいのやら、アンドレが困り果てていると、マロン・グラッセの怒鳴り
声が響いた。
「ほらほら、次のお品をお出ししておいで」
侍女たちが蜘蛛の子を散らしたように立ち去ると、侍女より手強いマロンにアンドレは、しらを切り
通せとのだんなさまの命令を思い出し、腹をくくった。
だがマロンの口からは意外な言葉が発せられた。
「おまえ、ご苦労だったね。今、お食事中の皆様にうかがったよ。アラスの仕事はなかなかややこ
しいものだったけれど、アンドレのおかげでうまくかたづいたって。オスカルさまも大層喜んでおら
れた。わざわざ出迎えに出てくださったんだからね」
今日は本当に驚かされてばかりだ。
将軍と夫人とオスカルは、三者三様の思惑で、アンドレの眼のことを内緒にしようと決めたらしい。
どう言いくるめたかはわからないが、とにかくおばあちゃんにばれずに済んだことはありがたい。
今夜は最優先でオスカルにショコラを持って行かなければならないのだから、侍女たちやおばあ
ちゃんに長々とつかまっているわけにはいかないのだ。
厨房から自分の食事をこっそりと部屋へ持って帰ろうと出て行きかけたアンドレを、しかし侍女た
ちは見逃してはくれなかった。
「アンドレ、今から食事なの? なら、ここで一緒に食べましょうよ。久しぶりなんだからさ」
と、小さいときから世話になっている女中頭のオルガに言われると、無視することはできなかった
。
それに自分の不在中のオスカルの様子も気にはなっていた。
特に、だんなさまとの関係は、どうもいつもと違うようだし…。
オスカルの部屋にころがっていたブランデーの空き瓶も気がかりだ。
アンドレは覚悟を決めて、侍女たちの食事の席に加わった。
広間の三人も久しぶりということで、いつもよりゆっくりと食事を楽しんでいるようだ。
その間に厨房の使用人たちも次々と食事をとっていく。
オルガのおかげでアンドレは途中の給仕に立つことは免除された。
そのかわり片づけの方にまわされるだろう。
早くしないとまたオスカルの機嫌が、と案じつつ、オルガたちの話にひきこまれた。
まず、オスカルの酒量については、皆、急激に増えていると証言した。
一晩で二瓶お持ちしたこともあったわ、と誰かが言うと、私もそうだったと相づちをうつものがいて、
お身体が心配だとうなずきあった。
そしてそれに反して、だんなさまは終始ご機嫌がよく、不思議な気がしたと、これはオルガの言だった。
あの舞踏会のあとずっと怒っておられて、近寄りがたかったのにね、とも付け加えた。
奥様はとりたてて変わったご様子はなかったように思うけれど、そういえば、先ほど、今年の降誕
祭は忙しくなるとおっしゃってたわね、何でもお嬢様方がおそろいで里帰りなさるんだって、との情
報は、先ほどのだんなさまの言葉と一致する。
結局、あれこれ侍女たちから聞き出したものの、何か新しいことがわかったわけでも、疑問が解け
たわけでもなく、アンドレは広間の食事の片づけに向かった。
将軍夫妻が退席し、続いてオスカルが席を立った。
そして出口まで行ってから、アンドレを振り返った。
アンドレは食器を重ねていたが、視線を感じ顔をあげた。
オスカルはわずかに微笑むと広間を後にした。
その動作があまりに自然で、誰一人気づいてはいなかったが、アンドレは体の奥からこみ上げる
ものを押さえるのに苦労した。
大急ぎで片づけを終え、厨房に走り、ショコラをひとつ用意した。
アンドレがオスカルの部屋にショコラを届けるのはよくあることで、侍女たちも気にもとめず、それ
ぞれに立ち働いている。
オスカルの部屋を訪ねると、バイオリンの音が聞こえた。
小さいときに弾いていた練習曲のようだ。
単純で明快で心にまっすぐ届く。
そっと扉を開けて、中に入った。
「思ったより早かったな」
とバイオリンの手を止めてオスカルが言った。
「侍女たちと楽しそうに話していたから、もっと遅くなるかと思っていたが…」
さりげなく、ほんの少し網がかかったが、アンドレは気づかない。
「広間に聞こえる程の大きな声だったか?」
「いや、給仕にも顔を出さなかったし…。それに、母上が久しぶりにアンドレがいるから、侍女たち
がうれしそうだとおっしゃっていたのだ」
「奥様が?」
「姉上たちが降誕祭に集まってこられるとかで、厨房をのぞかれたらしい。随分にぎやかだったと
」
すでに夫人も網を広げている。
無論、アンドレにはわからない。
「まあ、あれこれ聞かれてな。だんなさまがうまくおばあちゃんをごまかしてくださって助かった」
「ふん、わたしまでごまかすつもりだったんだからな」
と、にやりとしながらアンドレからショコラを受け取った。
「これでお許しいただけますか?」
アンドレはオスカルの前に膝をついた。
一口飲んだオスカルは満足げにアンドレを見下ろした。
「言い忘れたことと、聞き忘れたことがあったんだ」
「?」
「おまえが戻ってきた夜に…」
オスカルがアンドレに手をさしのべ立ち上がらせた。
眼の高さが逆転した。
今度はアンドレがオスカルを見下ろす。
その眼をまっすぐに見返すとオスカルは言った。
「愛している」
「…!!」
そうだ。
あの夜はそんな言葉を交わす前に抱きしめてしまったのだ。
言葉よりもオスカルの全身が、魂が自分を求めていると、瞬時に確信したから。
そしてオスカルは逃げなかった。
それが答だった。
それで充分だった。
今、こうしておまえの口からその言葉を聞こうとは…!
「俺もおまえを愛している」
アンドレもオスカルの瞳をまっすぐに見つめて言った。
心の中では何万回も唱えた言葉を万感を胸に口に出した。
「それを聞き忘れていた」
オスカルはニヤリと笑い、聞くべき当然の台詞だと言わんばかりだった。
「おのぞみなら千回でも言ってやる」
「それもいいが…。ほかにも聞きたいことがある」
「なんなりと…」
「生涯かけてわたしひとりか?」
上目遣いがあまりに無防備で即座にアンドレは答えた。
「もちろん」
「わたしだけを一生涯愛しぬくと誓うか?」
「誓うよ」
「ほんと…んっ…」
もうそれ以上何も聞かせないよう、アンドレはオスカルの唇を自分の唇で塞いだ。
単純で明快で心にまっすぐ届く。
だんなさまのおっしゃったことがたった今、わかった。
これは麻薬、蜜の味をした魔薬。
ここに吸い寄せられたら、決して逃れられない。
なんという甘美な…!
たとえどんな網が張り巡らされても、そこに捕らわれるのは望むところ。
アンドレは深く深くオスカルの唇にしのびこんだ。