ラソンヌ医師に追い出されるようにして、馬車に乗り込んだふたりはしばらく無言だった。
外はすっかり闇の中で、街灯の明かりがもれてくるとき以外は、安物の辻馬車の中では
お互いの顔もはっきりとは見えない。
見えるようになった。失明の危機は去った。
そう思いたいが、あまりにも視界が暗く、アンドレは不安を押し殺せなかった。
「オスカル、すまないが、顔を見せてくれないか」
もしやまだ治っていないのか、とオスカルは驚いて向かいに座るアンドレに顔を近づけた。
「見えるか、私の顔が…」
アンドレの前に、不安でいっぱいのオスカルの蒼い瞳が広がった。
そして揺れる黄金の髪が、鼻先をかすめた。
もともと白い顔が、少し青ざめている。
その顔色を見て取ったことで、アンドレの不安は去った。
「ありがとう。心配かけたな。よく見える」
と、その青い瞳が見る見るうるんで大粒の涙が白い頬をつたった。
「オスカル、どうした?」
「本当だな、嘘ではないな?」
「ああ、おまえの涙もちゃんと見えてる」
「よかった…」
オスカルは細い指で涙をぬぐうと、つんと顔をそむけてしまった。
それから、ぶっきらぼうに、
「屋敷に着いたら私の部屋へ来い。厨房から最高級のワインをくすねてな。おまえの全
快祝いだ。」
と笑った。
屋敷に着くと、さすがに夜更けで、門番のジャンだけが起きていて、鍵を開けてくれた。
遅くなっていたので、もう帰らないと思い、皆休んだのだろう。
オスカルはそのまま部屋に戻り、アンドレは言いつけ通り、厨房へワインを取りに行った。
あまり高いのを選んであとでコック長にばれると、どやされるのは俺だからな、と思い、
そこそこのものを選んで、オスカルの部屋の扉をノックした。
「入れ。」
その声が何故かとても懐かしく暖かく、アンドレはうながされるように部屋に入った。
するとオスカルがばつ悪そうに、からのブランデーの瓶を片づけていた。
しかも、テーブルには未開封のもう一本が置いてある。
「おまえ、飲んだくれてたのか?」
「別にそういうわけじゃない」
「顔色が悪いと思ったのは、飲み過ぎのせいか?」
たった今までの暖かい気分もふきとんで、アンドレは思わず語気を強めた。
「おまえのせいではないか!」
負けずにオスカルの声も強くなる。
「なんで俺のせいなんだ?」
思わぬ本音を発してしまったと、一瞬うろたえたオスカルは、しかしすぐに体勢を立て直した。
「なんで、私に黙って姿を消したんだ?しかも、明日から復帰するという日に…」
この反撃にはアンドレも少しひいた。
だが、負けてはいられない。
「それは悪かった。だが旦那様と奥様のご意向だった。俺もおまえに負い目を感じて欲しくな
かった。できれば、何も知られずに、何もなかったように帰ってきたかった」
「冗談ではない!!」
アンドレにはなじみのオスカルの怒声だった。
「おまえ、よくも私だけ、なにも知らせず…。私だけひとりで…。 おまえは…、どうせお
まえはひとりでも何も困らないんだ。私の世話をしないでいいだけかえって楽なんだろう?」
怒声に涙声もまじり始めた。
さすがにアンドレは呆然としている。
だがオスカルは自分でも歯止めが利かなくなってしまった。
「私は、偉そうに、ジェローデルに言ってしまったのに…」
ようやくアンドレが声を出した。
「なんで突然ここに少佐が出てくるんだ?」
オスカルはポロポロと涙をこぼしながら叫ぶように言った。
「私が嫁げば、アンドレが不幸になるから、誰とも結婚しないって言ったのに…!アンド
レが不幸になれば私も不幸になるって言ったのに…!だのに、おまえは突然いなくなって
…。私は馬鹿みたいではないか?!」
「オスカル…。おまえ…」
「私はおまえがいなくて、書類は溜るし、仕事はミスばかりだし、部下にまでけがさせて…。
おまえ、よくも私ひとり放っておけたな?酒くらい飲んで何が悪い?みんなおまえが私をひとり
にしたせいじゃないか!」
もうだめだ。
自分の感情がコントロールできない。
それもこれもみんなアンドレのせいだ。
「おまえなんて、おまえなんて…」
突然、暖かく大きなものがオスカルを包み込んだ。
アンドレがオスカルを抱きしめていた。
頭を撫で、背中をさする大きな手、耳に伝わる心臓の音、たった今まで高ぶっていたものが、
それらを感じてすーっと収まっていく。
涙は相変わらず流れ続けているが、怒りはどこかへ消えてしまった。
耳元に熱い唇が触れんばかりに近づき、吐息のような声が聞こえた。
「悪かった。オスカル、俺が悪かった。もう絶対にひとりにはしないから…」
ひとりにはしない、呪文のように繰り返されるその言葉が深く自分の心に入り込んでくるのを
感じて、オスカルは顔を挙げた。
しばらく見なかった、どうしても見たかった黒曜石の瞳がそこにあった。
「絶対だな」
「ああ」
「一生だぞ」
「ああ」
「誓うか」
もう一度、アンドレはしっかりとオスカルを抱きしめ、言った。
「さすがオスカルだ。愛の告白か、絶交宣言かわからん」