「やれやれ、やっぱり思った程悪くはなかったんだ。ピエールの奴め、驚かせおって…」
ラソンヌ医師は、辻馬車の中でひとり、ほーっとため息をついた。
あわてて駆けつけたが、ピエールの母は寝る前に飲もうとした水を気管に詰まらせて、
咳がとまらなくなり、呼吸困難に陥っていただけで、身体を起こし、しばらくクリスが背中
をさすってやると、容体は随分落ち着いてきた。
それをピエールが早とちりして、大騒ぎになったのだ。
とりあえず、クリスは朝まで母親のそばにつかせ、自分は気がかりな患者を置いてきてし
まっていたので、乗り付けた辻馬車で、再び自宅へ戻るところだった。
帰ったら、早速、アンドレの包帯をはずしてやらんといかん。
オスカル様がお迎えにいらした以上、今日中に彼らを屋敷にお返ししなければならんだろ
う。
オスカル様は馬でいらしたようだから、わしの乗っているこの辻馬車でベルサイユまで帰
って頂くしかない。
馬は、明日あらためてお屋敷にお届けせねばいかんな。
まったく、何でわざわざオスカルさまがいらしたのか。
しかも、今日、こんな時間に。

馬車が着き、疲れた仕草で降りると、
「このまま、待っていてくれ。あとで行ってもらいたいところがある」
と、御者に伝え、玄関から入った。
イレーヌも帰ったようだ。
廊下がひんやりしている。
ノックをして、アンドレの部屋のドアを開けた。
不自然に突然離れた感じの二人がいた。
黒髪は座ったまま、金髪はそのかたわらに立ちつくして…。
「失礼致します。どうやら患者の容体が落ち着きましたので、私だけ戻って参りました」
少し驚いたように医師を見つめていた金髪の人は
「ご苦労だな。だがお帰りになったからには、アンドレの包帯ははずしてもらえるのかな?」
と、静かに尋ねた。
「もちろんです。そのために急いで帰宅したのです。オスカルさまおんみずからのお迎え
とあらば、今日中に彼を帰さねばなりますまい。できるだけ早く処置をして、外に待たせてい
る、私の乗ってきた馬車でお帰りください」
「それはありがたい」
アンドレの側から離れ、医師と場所を入れ替わると、オスカルはじっと医師の手元を見つめ
た。
医師はやや緊張した面もちで、アンドレの前に椅子を引き寄せて腰掛けると、包帯に手をか
けた。
アンドレは何も言わない。
されるがままになっている。
くるくると包帯が巻き取られ、彼の両眼が見えた。
「ゆっくりと、眼をあけてごらん」
すると左目はとじられたままだが、反対の瞼は少しずつ開けられ、黒い瞳が現れた。
「私が見えるかね?」
「はい。まだ少しぼやけていますが」
「ずっと包帯をしておったからな。だが心配ない。だんだんはっきりしてくる。ただしあまり
細かいものを長時間見てはいかん。神経がまいってしまう。オスカルさま」医師は、患者の
主人を振り返り、
「どうかそのようにご配慮をお願い致します」
と、頭を下げた。
「無論だ。アンドレ、しばらくは書類の仕事はしなくていいからな」
それは、本当は痛いことだったが、しかし、アンドレの、この久しぶりに見る黒い瞳が、なにも
のも映さなくなることに比べれば、どれほどたやすいことかしれなかった。

は じ ま り
〈11〉