どっぷりと陽が落ち、待合室の最後の患者が帰り、ラソンヌ医師はほーっとため息をついた。
食糧事情が悪いせいで、子どもの病気が増えている。
皆、貧しくて治療費や薬代を絞り出すのは厳しいが、さりとて日に日に弱っていく我が子を
見れば何とかしてやりたいと思うのは人情というもの、無料で診察してやるほど、自分も聖
人君子ではないが…。
と、そこまで考えて、奥にもう一人患者が残っていることを思い出した。
こちらも平民だが、めずらしいことにその主人から、治療費はいくらかかってもよいと言われ
ている。
先ほどまでここにいた患者たちに比べればなんと恵まれていることだろう。
その報酬で少しばかり貧しいものたちの薬代を補ってやれる。
だが、しかし、ではこの男と替わってくれといわれれば、皆、お断りだろうな。
とりあえず、右眼の視力は戻りそうだが、左眼は、永遠に閉じたままだ。
傷の跡が痛々しく残っているのを、失われた瞳と同じ色の髪を伸ばして隠してはいるが…。
この前は、暴徒に襲われて、瀕死の重傷だった。
体中に打撲を受けていた。
2週間で回復したのは奇跡としかいいようがない。
枕辺で涙ぐみながら真摯に祈っていた、黄金の髪の武官の祈りが、神に届いたのだろうと
真実思われた。
だが、命がいくらあっても足りん仕事に変わりはないな、気の毒に…。
アルコール液に両手を浸し、さあ、奥へ行って包帯をはずしてやろうか、と扉を開け、廊下に
出ようとしたとき、荒々しく玄関を叩く音がした。
「診察時間は終わったんだが…」
とぶつぶつ言いながら、ラソンヌ医師は玄関に向かった。
玄関の扉を叩く音に気が付いたメイドが扉を開けようとしているところに、ラソンヌ医師も来
合わせた。
メイドが今開けますから…とぼやきながら扉をあけると、金色の光が波打っていた。
それから蒼い海が燃えていた。
それが目の前に立つ人の髪と瞳だとわかるのに一瞬、間があいた。
「オスカルさま…!」
ラソンヌ医師が呆然としていると、
「先生、アンドレがこちらだと聞きました。失礼します」
言うなりホールに入ってきた豪華な人に、メイドは声もでない様子だが、それも無理からぬ
ことと、ラソンヌ医師は意を決して答えた。
「確かにアンドレはこちらにおりますが、なぜオスカルさまが…? それにお迎えは明日に、と
お願いしたはずですが…」
「アンドレの部屋はどこです?」
すでに奥に向かって廊下を歩き始めながら、その人はメイドに尋ねた。
「あ…あの、こちらです。今、クリスが夕食を持っていったから、食事中だと思いますけど…」
「クリスというのは、私の姪でして、アンドレの世話をさせております。オスカルさま。このこと
は将軍様はご存知なんでしょうか。ああ、ここがアンドレの部屋です」
オスカルが扉を開けると、小さなテーブルに簡単な食事が並び、それを挟むように、若いブル
ネットの髪の女と、座っていても長身とわかる男がこしかけていた。
眼に包帯を巻かれた男は、女にフォークを渡してもらい、今、口に入れようとしているところだ
った。
「アンドレ…」
威勢よく歩いてきた人とは思えない小さな声だった。
けれど、それで充分だったようで、男ははじかれたように、フォークを落とした。
「オスカル…?」
両眼をおおわれ、何も見えないはずの彼は、正確に声の主のほうに顔を向けた。
「オスカル、どうしてここへ? 」
「母上が教えてくださった…」
2人がそれきり黙ってしまったので、医師とメイドとクリスという名の女は、どうしてよいものかと
その場から動けなくなった。
が、最初に声を出したのはやはり医師だった。
「アンドレ、とにかく、包帯をはずそう。話はそれからだ。よろしいですね、オスカルさま」
医師に声をかけられたオスカルは我に返ったように、そちらを振り返り
「もちろんだ。私も立ち会う」
と、答えた。
ドンドンと玄関の扉が叩かれ、血相を変えた男が飛び込んできたのはそのときだった。
「先生、先生!」
今日はいったいどうしたっていうんだ。
ラソンヌ医師はとりあえずメイドを男のところにやった。
メイドに連れられた男は、
「先生、すぐ来てください。おふくろが…」
というなり医師の腕をひっぱり玄関に向かって歩き出した。
このところ往診してやっていた老母が危篤状態に陥ったらしい。
まずいな、と医師は思った。
まだしばらく大丈夫だと思っていたが、急変したとなると…
「クリス、すぐ往診の用意をして、おまえも一緒に来なさい。ピエール、すぐ行くからとにかく腕
をはなしてくれ」
ピエールと呼ばれた男は、びっくりしたように医師の腕をはなすと
「おもてに馬車が用意してある。先生急いでください」
と叫んで、先に外へ出ていった。
こういう事態には慣れているのだろう。
クリスはてきぱきと往診の用意を整え、アンドレに
「ごめんなさい、今日はひとりで食べてちょうだいね。包帯をはずすのは明日になりそうね」
と、声をかけ、それからメイドに向かって
「イレーヌ、あなたはもう帰ってもいいわ。できればアンドレの世話をお願いしたいけど、あま
り遅くなるとあなたも困るでしょう」
と言いながら、ちらりとオスカルの方を見た。
「アンドレのことは私がする。心配はいらない」
ほとんど勢いという感じでオスカルは言ってしまった。
「では、よろしくお願いします」
にっこりほほえむとクリスは医師とともに馬車に乗るために出ていき、メイドのイレーヌもあと
に続いた。
部屋にはオスカルと、ついに包帯をはずしてもらえなかったアンドレと、2人だけが残った。
事態の急展開にいささか驚きながらも、とりあえず2人きりになれたことが、オスカルにはう
れしかった。
ベルサイユからパリまで馬を跳ばしながら、アンドレの顔を見たらあれも言おう、これも言お
うと思っていたことを、さあ、となると全く言葉が出てこなかった。
右眼のことを気付かなかった自分への怒り、教えてくれなかったアンドレへの怒り、眼を潰し
たのはほかならぬ自分だという哀しみ、けれど、それらすべてにまさるのは、彼の顔を再び
見られた喜び。
どんなに逢いたいと思っていたか、今、思い知った。
出てきた言葉はただひとこと。
「アンドレ…」
アンドレは再び声の方に顔を向ける。
見えない分、一層耳を澄まし、オスカルの言葉から彼女の気持ちを推し量ろうとする。
けれど自分を呼んだその声は怒っているようでもあり、哀しんでいるようでもあり、そして不
思議なことに喜んでいるようでもあり、アンドレには判断のつかない複雑な声音だった。
「オスカル…」
結局、アンドレもそれしか言えなかった。
突然、アンドレは包帯に手がかかるのを感じた。
「見えるようになるのか…?」
「ああ、心配ない。今日包帯をはずして、明日には帰るつもりだった。たぶん今、自分ではずし
てもいいんだろうと思う」
「やめてくれ。もう勝手に包帯をはずすのは…。明日、先生にはずしてもらおう」
「ふふ、そうだな、今まで待ったんだ、一晩くらい待つか…。だが困ったな。これでは夕食にあ
りつけない」
「私が食べさせてやる」
「えっ…!」
包帯の上からアンドレの顔を優しくなぞっていたオスカルの手がピタッととまった。
「不服か? 」
「いや…。まさか本気だとは思わなかったから…」
実際、勢いでクリスに言ってしまったのだがアンドレに言い当てられるとくやしかった。
「いつも、さっきのクリスにやってもらってたのか?」
「ああ。彼女は慣れてるからな」
「私には無理だと言いたいのか?」
声に怒気が含まれてきた。
逆らわない方が無難だ。
確かに慣れないことをするのは大変だった。
オスカルも大変だったが、アンドレはさらに大変だった。
右だ、左だ、フォークだ、ナイフだ、と二人の声が飛び交い、ようやく一通りアンドレの腹に収ま
ったところで、
「すまないが、水をくれないか」
と、アンドレが遠慮がちに言った。
オスカルは言われてみればそうだ、と思った。
とにかく食べさせることに熱中し、水分をとらせるのを完全に失念していた。
随分、喉がつかえたことだろう。
「悪かったな。ほら」
水差しからグラスに水をそそぎ、アンドレの方に差し出したオスカルは、アンドレの手が空をさ
まようのを見て、あわてて反対の手で彼の手をつかみ、グラスを握らせた。
少し、アンドレの手が緊張したようだったが、何も言わず、彼は一気に水を飲み干した。
それからそっとテーブルにグラスを置こうとするのを、オスカルはもう一度自分の手でつかみ、
彼の手からグラスを取り、テーブルにおいた。
けれど、彼の手をつかんだまま、オスカルは離さなかった。
アンドレの手に再び緊張が走る。
オスカルのもう一方の手が、包帯に触れた。
「私は、ずっとおまえといたのに、何も気付かなかった。父上でさえ気が付かれたというのに…
」
オスカルのするがままになりながら、アンドレは答えた。
「おまえにだけは気付かれまいと気をつけた。その分、他の方の前でボロが出たんだ」
「何故?」
「おまえを苦しめたくなかった。おまえは何も悪くないのに、すぐ自分を責めるから」
「…。おまえの手は暖かいな」
この暖かさが自分のそばにあることを当たり前だと思っていたんだな。
随分思い上がっていたもんだ。
苦い思いが胸をよぎる。
さりげなく、アンドレの手がオスカルから逃れようとした。
だが、オスカルは逃がさない。
「おまえは、私がいなくても、何の不自由もなかっただろう?」
「どういう意味だ?」
「私がいなくても、何も困らない。私がおまえのために何もしていないから…。
だが、私はおまえがいないと…」
「おまえも俺がいなくてもたいして困らなかっただろう。優秀な部下がたくさんいるからな」
もし、今、包帯をしていなければ、オスカルの表情がわかるのに…。
声だけでははかりしれない、いつもと違う何かが、オスカルの心の中にある。
それは間違いないのだが、とにかく、顔を見られないので、それが何なのかわからない。
アンドレは、オスカルが触れている包帯に自分の手かけた。
これをはずさなければ…。
オスカルの顔を見なければ…。
〈10〉