第 二 章 彼 女 と 彼 氏
ノ エ ル
「おい、オスカル、今日こそはベルサイユへ帰らないとまずいぞ」
パリの地図を見ながら、これからどこへ行こうかと思案中のオスカルにアンドレが言った。
お屋敷からは、連日早く戻れとの催促が来ているのだ。
すでに姉上方もお集まりらしい。
ノエルは、オスカルの誕生祝いも兼ねての集まりだ。
オスカルが留守では格好がつかないではないか。
「おまえはここの暮らしがいやなのか?」
オスカルは真剣なまなざしでアンドレをとらえる。
「そういう問題ではない。奥さまから、くれぐれもノエルまでに帰るようおおせつかっているんだ」
「質問に答えていないぞ」
「オスカル、俺がここの暮らしを気に入らないわけがない」
今度はアンドレのまなざしがオスカルをとらえた。
ディアンヌとアランにかこつけて、別邸に留まって1週間。
アンドレは人生にこのように幸福な時がやってくるとは、想像もしていなかった。
オスカルと二人きりで食事をし、街に出かけ、夜を過ごす。
ロザリーを訪ねたり、衛兵隊の連中の家をのぞいたり、広場でのベルナール達の演説を聞いたりもした。
そして屋敷では誰の目をはばかることなく、互いの身体に触れ、抱き合う。
一頃に比べて見違えるように顔色のよくなったオスカルは、そんな暮らしが新鮮でたまらないらしく、惜しげもなく笑顔を見せてくれる。
こんな毎日がアンドレにとって気に入らないわけがない。
だが、いつまでも続けられるものではないのだ。
ベルサイユに戻れば、こうして二人っきりで過ごすことも、まして夜を過ごすこともできようはずがない。
おそらくそれはオスカル自身が一番理解しているはず…。
そう思えば、帰りたがらないオスカルの気持ちが帰ってうれしくもあり、ついずるずるとパリに留まってしまっていた。
「そうか」
オスカルが目をそらした。
「オスカル」
アンドレは自分の胸にオスカルを抱き寄せた。
「不安になったのか?」
と問うと、コクリとうなずいた。
「俺は、どこにいても、どんなときでも、おまえのそばにいるよ」
アンドレに身体をあずけたまま、オスカルはなにも言わない。
葛藤しているのだろうか。
いじらしさが募る。
が、ようやく口を開いたオスカルの言葉は、アンドレの予想とは随分かけ離れていた。
「どうして、また、今年に限って全員なんだ?」
「えっ?」
「姉上たちだ。5人全員だぞ。想像するだに恐ろしい光景ではないか」
「それが不安の原因か?」
「決まっているだろう、他に何がある?」
「いや…」
怪訝そうなオスカルに、アンドレはやや肩を落とし、やはり俺のひとりよがりだな、と一抹のさびしさをぬぐえなかった。
それを見とがめたオスカルは
「おまえ、一緒に帰らないなんて言うんじゃないだろうな」
「まさか、そんなつもりはないが…」
「では、ほかに不安なぞない」
と、きっぱりと言いはなった。
まったく…。
小気味のいい潔さだな。
ここまで堂々と言われると、愛しさに抱きすくめたくなるじゃないか…。
オスカルの堂々とした告白に勇気を得て、アンドレは
「俺は、ベルサイユに帰れば、絶対にこんな風にできないのに、思わずしてしまいそうで、自分が不安だ」
と、抱いている腕に力を込めて正直に自分の気持ちを伝えた。
「アンドレ、それは、不安ではない。不満だ」
と、オスカルは面白そうに言った。
「ああ、なるほど…」
いたく得心してうなずくアンドレに、オスカルは
「それなら、わたしも相当不満だ」
と、頬をふくらませた。
「だが、別段人目をはばかることはない。どのみち休暇があければ、忙しくて、屋敷にいるのは夜だけだ。いつものようにショコラを持ってきて、ゆっくりすればいい」
そう言ってから、オスカルは今度は頬を赤らめた。
さりげないが、なかなか大胆な誘惑だな、もちろん大歓迎だが…。
と、アンドレは先ほど感じていたさびしさが、すっかりどこかに飛んでいってしまったことがうれしかった。
「やむを得ん。今日帰るか」
ようやくオスカルが決断を下した。