第 三 章 母 と 姉
ノ エ ル
「お帰りなさい。休暇中というのにご苦労さまでしたね」
ジャルジェ夫人は、ようやくパリから戻った末娘に優しく言葉をかけた。
5人の姉上方が、ズラリと周囲に控えていて、少々圧倒される眺めだ。
「隊の方は無事おさまりましたか?」
「はい。おかげけさまで」
「それはよろしゅうございました。お仕事が大変だったわりには顔色がとても良くなりましたね」
皮肉なのかどうか、夫人が心からうれしそうに言った。
「コゼットが大変よくしてくれましたので…」
「そう。侍女を連れて行かなかったけれど、あなたとコゼットで充分間に合ったのね、アンドレ」
突然、意味ありげな矛先が向いたアンドレは、びっくりしつつ丁重に返答した。
「はい。コゼットは本当によくやってくれました」
「まあ、コゼットには特別手当を出してやらなくてはなりませんね、お母様」
微笑みながら二人を見つめていたマリー・アンヌが、夫人の隣の椅子から立ち上がり、オスカルに近づいて言った。
「お元気そうで安心したわ。転属してから、心配していたのよ」
そう言って末妹を優しく抱き寄せた。
「マリー・アンヌ姉上もお変わりなく」
近くに嫁いだマリー・アンヌは、実家との交流が一番頻繁で、気遣いも細やかだったから、両親は随分と頼りにしていた。
時折、訪ねてきては、愚痴も聞いてくれているようで、仕事から戻って両親の機嫌がいいなと思った日は、たいてい、この姉が日中に帰ってきたことに起因していた。
「アンドレ、怪我の方はもういいの?大変だったそうですが…」
白い手にアンドレの挨拶をうけながらマリー・アンヌが聞いた。
「痛み入ります。もとより頑丈にできておりますので…」
「オスカル。本当に久しぶりね。お届けするワインはお気に召して?」
マリー・アンヌとの挨拶がすむと、次はクロティルドが声をかけた。
広大なブドウ園を領地に持つ貴族と結婚し、ベルサイユを離れて長いクロティルドは、心から再会を喜んでおり、帰宅をしぶったことが後ろめたくて、オスカルは最大の敬意を込めて姉を抱きしめた。
「姉上からのワインを覚えて以来、他のものは水のように感じます。今年のできはいかがでしたか?」
「ありがとう。でも今年はあまりよくないようで、残念だわ」
姉妹中でも最も人の良いクロティルドは、長い田舎暮らしにもかかわらず、おっとりとした品があり、これは、姉上のところのワインと同じく、ベルサイユのような華美な土地ではないからこそ、はぐくめた香りかもしれない、とオスカルは思った。
「アンドレ、あなたも本当に久しぶりね。お母様のお手紙で怪我のことを聞いて、びっくりしました。お見舞いにあなたには特製のワインを持ってきたから、じっくり味わってちょうだいね。オスカルにとられないように…」
前言撤回、おっとりどころか、なかなかくわせものだな、クロティルド姉は…。
オスカルの柳眉がつり上がったのを盗み見て、
「もったいないことです、クロティルドさま」
と、答えながら、アンドレは、今夜はショコラではなくそのワインを持って行かないと、部屋に入れてもらえないな、と察した。
「クロティルドお姉さま、よろしいかしら?」
と、オルタンスが立ち上がった。
「オスカル、ごきげんよう。ル・ルーもとても来たがったのだけれど、ノエルに主人をひとりにするのも申し訳なくて…」
「義兄上に私からの深い感謝をお伝え下さい。聖なる日の小悪魔の到来を防いでくださった」
「まあ、相変わらずシニカルね。でも、本当を言うと、わたくしも、一人で来られてほっとしているのよ」
と、オルタンスは正直に、クスクスと笑った。
クロティルドと同じく田舎暮らしのオルタンスの所へは、まだ黒い騎士騒動の起きる前に、アンドレとロザリーを伴って出かけ、なかなか恐ろしい経験をしたのだった。
それはそんなに遠いことではないのに、随分歳月がたったように感じられた。
あれから、黒い騎士事件、アンドレの失明、フェルゼンとの別れ、ロザリーの旅立ち、衛兵隊への転属、婚約騒動、アンドレの負傷…数え切れない出来事が続き、自分が別人のような気すらする。
なによりも自分の心を占める人があのころとは別人になっている。
「アンドレ、あのときは両手に負傷して大変だったけれど、まあ、本当にあなたはあちこち傷だらけになって…」
と、クロティルドと同じく人の良い、しかもやや口の軽いオルタンスは、アンドレの左目を痛々しそうに見やり、涙ぐんだ。
「オルタンスさま、その節はご心配頂き本当にありがとうございました。目の方は、少しも不自由はございませんので、ご安心ください」
アンドレは、穏やかにオルタンスの掌を取り、口づけた。
「どうかオスカルを見捨てないでやってちょうだいね。この子は…」
と、まだ続けようとするオルタンスに閉口しているオスカルに、助け船を出してくれたのは、カトリーヌだった。
「オルタンスお姉さま、わたくしにもご挨拶をさせてくださいな」
オスカルより4つ上のこの姉は、心根が姉妹中で一番優しい上に、共に暮らした時間も長く、異常な人生を歩む妹を、嫁ぐ前日まで、いや、嫁いでのちも、ずっと心配してくれていた。
それゆえ、嫁ぎ先は同じベルサイユだったにもかかわらず、オスカルは、この姉の結婚式では、大粒の涙を流し、周囲を驚かせたのだった。
「オスカル、本当に顔色が良くなってうれしいわ。この前会ったときは、どこか悪いのではと真剣に心配したのよ」
前回カトリーヌに会ったのは、求婚者公募舞踏会の直後だった。
舞踏会でのジャルジェ家のさんざんな評判を案じ、それとなく両親を慰めに来てくれたのだ。
あのとき、自分はずっと虫の居所が悪かったから、さぞ険しい顔で挨拶をしていたことだろう。
今更ながら申し訳なく思った。
「カトリーヌ姉上、あのころは多忙でしたので…。今は随分と落ち着きました」
「そう。安心しました。アンドレの怪我の具合もいいようね」
アンドレが床に伏していたとき、カトリーヌは毎日のように見舞いの品を届けてくれた。
使用人を直接見舞う訳にはいかなかったカトリーヌのせめてもの心づくしが感じられる品々だった。
「カトリーヌさま、頂きましたもののうち、形に残るものは、すべて大切にしまっております。本当にありがとうございました」
アンドレは深い感謝を込めて、カトリーヌの手を取った。
「まあ、カトリーヌお姉さまは贈り物攻勢だったわけね。でもわたくしは、ちゃんとお見舞いに参りましたのよ」
やっと出番が来た、とばかりに立ち上がったのは、ジョゼフィーヌだった。
オスカルの顔が露骨に歪む。
アンドレがまずい、と目配せする。
だが、ジョゼフィーヌが見逃すわけはない。
「あら、あからさまに不愉快そうね、オスカル」
「とんでもございません。ジョゼフィーヌ姉上、お目にかかれて光栄です」
赤の他人のような空々しさで、オスカルは答える。
歳が近かったため、すべてにおいて、競争相手だったジョゼフィーヌは、オスカルから見れば天敵以外のなにものでもない。
無論それはジョゼフィーヌから見たオスカルもまた同様である事を意味する。
アンドレは久しぶりに、二人にはさまれる緊張感を味わった。
「アンドレ、本当に元気になったわね。寝台に横たわるあなたを見たときは、心臓が止まりそうでした。あのときほど、あなたを嫁ぎ先に連れて行かなかったことを後悔したことはありません」
「ジョゼフィーヌさま、どうかもう、そのお話は…」
アンドレの背中を冷たい物が流れる。
「ここに残ったのはアンドレの意志です。横からごちゃごちゃ言わんでいただきたい」
とっくに解決済みの問題をなぜ蒸し返すのか、という剣幕のオスカルに、マリー・アンヌが割って入ろうとしたとき、執事が将軍の帰宅を告げた。